4
嵐の最中、”コンスタンティア”は陸にも降りることが出来ず、海中に取り残されていた。
”フォスベリー”を始めとした船達がまとまって移動していったのは、辛うじて確認出来てはいた。
しかし運悪く、交戦していた敵船に阻まれてしまい、それを追うことが出来なかった。
とは言え向こうは向こうで、これ以上戦闘を続けるつもりはないらしい。
嵐の中で戦いを続けることは自殺行為にも等しいとわかっているのだろう。
暗闇に包まれた視界の中、その船団は何処かへと去って行った。
この海域から姿を消したのは敵の船だけでなく、”コンスタンティア”を除く全ての船だ。
まるで闇の中に落とされてしまったかのように、辺りには何も見えない。
方向感覚さえも狂わされてしまい、仲間の向かった先はもう完全に見失ってしまった。
(フェレさん達は、何処へ向かったのかしら?)
落ち続ける、鉛色の粒。
重々しいその調べは、何もかもをも押し潰してしまいそうな程。
とりあえず嵐が静まるまで、帆をたたんでこの場で待つべきか。
しかしもう食料の残りも心許なくなっている。
嵐が直ぐに止むとは言い切れないし、ゆっくりでも町を探して進むべきか。
それでも、今直ぐには進めないだろう。
下手に動けば帆が千切れてしまいそうな程に、風は激しい。
思えば今までの航海で、たった一隻残されたこどなど無かった。
”フォスベリー”が、”シャルトリューズ”が何時だって傍にいたのだ。
リィは今再び、長く味わっていなかった孤独感に苛まれていた。
長く味わっていなかった?
この空虚さをそう表現した自らの心に、リィは疑問を抱いた。
違う……違うはずだ。
(フェレさん達と出会ってから、自分のことを孤独だなんて思ったことはなかったはず)
それなのに……覚えがある。
長い時間雨に打たれ続けた後のような、凍えてしまいそうなこの気持ちに。
なら――彼らと出会う、その前の記憶か?
震えて止まないその肩を、リィは自らの両手で強く握った。
(大体……失礼な話だわ。フェレさん達がいなくても、こんなにたくさんの仲間がこの船にはいるのに)
そう、このたくさんの仲間達が乗る船の長は私。
今私がしっかりしなくて、誰が正しい道を示すことが出来ると言うのだ。
「帆を畳んだまま、嵐が静まるまでここで待ちましょう」
リィはそう指示を送った。
食料が減ってきているとは言え、まだ数日分はある。
嵐は幾ら長引いても一、二日だろうし、危険が去った後でゆっくりと陸の探索をすれば良い。
フェレット達も陸に沿って進んでいるのはまず間違いないのだから、陸の探索は同時に彼らの行方を追うことにも繋がる。
そのリィの判断に、反対意見を口にするものは一人としていなかった。
決して間違った判断ではなかったのだ。
しかしそこに一つの偶然が重なって――。
5
嵐が収まったのはそれから二日後のことであった。
”コンスタンティア”の副官を務める女性、リズウィー。
彼女が目を覚まし、甲板へ向かうと――異変はそこに、目に見えて現れていた。
水夫達は交代で休みを取りながら航行をしているのだが、甲板には数えられるだけの人数しかいなかった。
二十人に満たない数だ。
これではぎりぎり船を動かせはしても、極端に速度が落ちてしまう。
「どうしたの? 他のみんなは船室に行っているの?」
付近に居たメレディアと言う名の船員に訊ねる。
彼女は倫敦で一緒にこの船団に加わった、同期の仲間だ。
「リズウィー! あなたは平気なの!?」
大きな声を返されて、リズウィーは半開きだった瞳を思わず見開いた。
「平気って、何が?」
「身体の具合は何ともないのっ」
重ねて疑問系の響きを持った言葉。
「何ともって……」
リズウィーは両手で、自らの身体にぺたぺたと触れてみた。
「別に何も?」
きょとんとした顔で言う。
「良かった」
メレディアは本当に心から安心したようで、リズウィーの両肩にその両手を触れさせると、ふうっと長い息を吐いた。
「大変なことになってるのよ……。みんな、急に熱を出して、倒れちゃって……」
「えっ」
本来の居場所に皆がいないのはその為か。
のほほんとしていたリズウィーの顔は、一瞬にして不安に侵食された。
「メレディは平気なの?」
「今のところは。けど、わからないわ」
「わからない?」
「だって、いきなりみんな倒れたのよ。伝染病の類かもしれない。だとしたら……」
「伝染病……」
その言葉を聞き、リズウィーは身の毛を弥立たせた。
たった一隻の船の中で、病人を隔離することは難しいだろう。
このまま病気が皆に感染していき、そうして――。
最悪の光景が脳裏に浮かんで、リズウィーは思わずつぶらなその瞳を閉じてしまう。
「船長は……船長は何処に居るの?」
「自分の部屋で眠ってるわ」
まさか船長もっ?
リズウィーはそう声を上げようとした。
しかしそうする前に、メレディア?はこくりと頷く。
「船長が一番、症状が酷いの。ずっと寒気がしているみたいで……。何を食べても吐き出してしまって」
平静を保っていた声が少しずつ、震えを帯びていく。
それは症状の深刻さを物語っていた。
「私、行って来る!」
即座に振り返って、リズウィーは船長室へと走って行こうとする。
「駄目! 今行ってもどうにもならないわ!」
引き止める声も聞かずに、彼女は揺れる船の上を疾走していった。
思い立つと冷静さが吹き飛んでしまう性質らしく、そのままどかどかと船室へと入って行き。
木のドアをがちゃりと開くなり、リズウィーは愕然として場に固まった。
「あ――」
ベッドに眠っているのは、毎日の様に顔をあわせているこの船の長だ。
眠っていながら、ぜえ、ぜえと大きく音を経てて、息を切らしている。
白く美しい色をしたはずの顔は熟れた林檎のように赤く染まっていて、一目で症状の重さが見て取れた。
ベッドの傍に、嘔吐物の溜められた手桶がある。
海まで吐きに向かう余裕など、とても無いのだ。
「せ……船長」
リズウィーは色を失ったまま、ただそこに立っている。
せめて声を聞こうと思って、ここまで来た。
けれど、こんな状態の人間に下手に話しかけることなど出来やしない。
……船長だけじゃなく、他の船員も皆同じ様子だと言うのか。
この船の状況を改めて認識し、リズウィーは絶望感に駆られた。
私がちゃんとしなければ……けれど一体、何が出来ると言うの?
この船にはちゃんとした医者はいないし、病気を治してくれる救世主など存在しない。
絶望、不安と共に襲い来るのは混乱。
何もかもを諦めて、その場にしゃがみ込んでしまおうと思った。
そうしただろう、声が聞こえなかったなら。
「無事、だったのね。良かった」
「船長……」
僅かに届いたか細い声。
少し口にしただけで、命の灯火はゆらゆらと揺れた。
「平気ですか、船長……。し、しっかりして下さい」
しっかりしなければいけないのは私だ、とリズウィーは思った。
冷静でいなければならないのに、意に反して、瞳からはぽろぽろと涙が零れる。
「病気……伝染るかも、しれないわ。直ぐ……外に、出て」
「けれどこのままじゃ、船長が……」
会話をしている最中でも、リィの顔は全く動こうとしなかった。
ただ真上、天井を見上げたままで固まっている。
「私は……」
あまりに弱々しい声だった。
しかし、それでも。
「大丈夫、だから。……だから」
傍目には感じられなくても、そこには決して折れることの無い強い意思が込められていたのだ。
大好きなあの人に、あの人達に再び会うまでは、死ぬことなんか出来ないと。
まだ記憶だって、何も戻っていない。
こんな何もかもが中途半端な場所で終わる訳にはいかない――と。
その想いこそが、今にも消えそうな命の灯火を強く支えていた。
「リズウィー。お願い、このまま陸沿いに進んで……。みんなが無事で居られるうちに、何としても町を……」
力を振り絞り、リィはその瞳を副官の少女へと向けた。
リズウィーは瞳を潤ませながら、自らが慕う船長の手を取る。
「解りました。絶対に……町まで辿り着いてみせます。船長は安心して休んでらして下さい」
絶対に。
絶対にだ。
心の中で彼女はそう何度も言葉を反芻させた。
自分が今やらなければ、二度と取り返しのつかないことになってしまう。
「一度、みんなの様子を見てきます。船長のことも度々見に来るようにしますから」
「うん……」
「頑張ってくださいっ、船長!」
リズウィーは言うと、踵を返して再び甲板のほうへと走っていった。
誰もいなくなった空間で、リィはゆっくりと瞳を閉じた。
そして考える。
大切な人々のことを、改めて。
それが自らの力と変わることを彼女はよく理解していた。
しかしそれでも、症状は一向に軽くなる様子を見せなかった。
時間が経っても、空が明るくなって暗くなっても、まるで何もかもが氷に閉ざされてしまったかのように、寒気がひかない。
体内の何もかもを吐き出しても、まだ吐き気がやまない。
そして全身の軋むような痛み。
ゆっくりとだが確かに、意志の力が押し戻されていくのを感じていた。
絶対に、こんな所で……そう思っていた心がやがて”もしかしたら”と変わり行く。
かつて無い程の苦しみ。
全てが渦の中に吸い込まれていくような、そんな印象であった。
ある線を越えたところで、痛みがふっと消え失せる。
それさえも、吸い込まれてしまったのだろうか。
(私は――)
その渦はこの幸せな記憶をも奪い去ってしまいそうで、
(死ぬ。死ぬのかしら?)
そして最後には命さえも飲み込んでしまうのだ。
微かな意識の中でリィはそう思い、心から恐怖した。
いっそここでこの命が失われてしまっても……彼らとの幸せな思いを胸に抱いて死ねるのならば、それは最悪の出来事ではない、のかもしれない。
けれど、まるで何もかもが失われていく様で。
――初めて彼らと出会ってから、北海に向かうまでの間で半年。
かおるさんが居なくなって……それでも半年の時間を、倫敦で過ごした。
そしてかおるさんを捜す為に東地中海へと赴き、いよいよ彼の行方をつかんで今度はアフリカへ。
全て合わせても、時間にしてみれば僅か二年間だ。
(嫌だ。忘れたくない)
そう、強く願った。
何故ならその二年間が、私にとっての全てなのだから。
それさえも失って、そして死すのなら……本当に、何も残らない。
失くしたくないと、リィは必死に、薄れていく思い出を手繰り寄せようとした。
今も船にいるかけがえの無い仲間達の顔を。
航海の途中に命を落とした、大切な人達の姿を駆け巡らせた。
何故そうしたのか、やがてその理由すらも忘れてしまい、ただ思い出だけに全てを委ねて。
自らの意思を抜け出して、思い出を求める心は中空を彷徨い続けた。
迷路のようになった思考を潜り抜けて、それは辿り着いたのだ。
ずっと開かれずにいた、一つの扉に。
(何……?)
ゆらゆらと揺れる船の上、その船室。
自分は重い病に侵されて、立つ事も出来ずにただ、船室の天井だけを見上げている。
この光景に見覚えがある気がしたのだ。
既視感というやつだろうか。
それを抱いて、リィは不思議に思った。
まだそこまで体力が残っていることにも驚いたが。
(こんなこと、二度と経験したくないことなのにね)
思いながらも、奇妙な感覚はそのまま続く。
まるで自分が今ここで寝ていて……もう一人、別の場所にいる自分を眺めているような気分だ。
もっともそのもう一人も、同じようにベッドで寝ているのだけど。
同じように?
いや、僅かに違う。
眠っているその姿……今の自分よりも、髪が短い。
服装だって違う。
(昔の……私?)
一縷の希望を込めて、リィはそう判断する。
(あっ)
眠っていたそのもう一人の自分が、立ち上がった。
彼女を見つめる視線もそれを追って、船室の外へと向かう。
そこで、一人の少年の姿を見つけた。
直ぐ外で待っていた少年。
大きく優しい瞳を持っていて、髪の毛はもう少しで肩に付きそうな程の長さ。
(フェレさんに少し似てる……)
髪の色は金髪だ。そうでなければ、本当に彼とそっくりだっただろう。
私はその少年のところへと、ゆっくり近付いていく。
立ち止まって、何かを話している。
何も聞こえない。
ただ一つ、解ったのは。
優しい顔をしていた少年の顔が――歪んだ、ということ。
笑ったのではない。
醜く歪んだ、と今の彼女の心はそう表現をした。
湛えているのは怒りだろうか?
そうして、少年の手が伸びる。
その場所にいる私の体を掴んだ。
やめて、とリィの心は叫ぶも、何も効果を及ぼさない。
取っ組み合いを始める、二人。
私と……その少年だ。
やはり男だけあって、少年のほうが力が強いのだろうか。
最初、海を背にしていたのは少年のほうだったのに、体勢が入れ替わる。
直ぐ真後ろには海、というところまで追い詰められた。
それでも少年は力を緩めない。
このまま、海へと落とすつもりなのだ。
(誰もいないの? 他に……)
思っても、視線を動かすことは出来ない。
そして。
動かせなかったはずの視線が、ふっと替わった。
一瞬灰色になって――それは恐らく空だ。
空から視線が降る。
次に飛び込んできたのは、黒ささえも入り混じらせた濃紺色。
(ああ)
視界を満たしたのは海。
つまり……落とされたのだ。
「あぁっ!」
視点はまたそこで、切り替わった。
目の前に有るのは、船長室の扉。
はっとして、リィは四方を見回そうとする。
だが、激しい痛みに見舞われてそれが出来ずに、再びベッドに倒れ伏してしまった。
(――夢?)
自分は今、ベッドから跳ね起きたのだ。
海に落とされてはいないし、この部屋には誰もいない。
「なん、て……嫌な夢、なの」
それにリアル過ぎた。
何もかもが、まるで本当に起こったことであるかのように。
ふと気付いて、右手をその瞳に触れさせる。
そこからは涙が溢れていた。
(最近、泣いてばっかりだわ。私は)
嫌なことばかりが続いたから? そうではない。
あの時リスボンで流した涙は、嬉しさのあまりに溢れたものだった。
けど、この涙は違う……。
本当に辛かったのだ。
あの夢は。
――あの時は。
大した衝撃もなく、或いはその衝撃を起こさせる体力が無かったかもしれないが。
リィはそれを、かつて実際に起こったことだとして認識した。
海に落ちて、そして恐らくは、あの砂漠に漂着したのだろう。
フェレさん達が私を見つけてくれたという、あの名も無き砂漠に。
思い出したのだ。
失って、もう戻らないと思っていた記憶の欠片。
今この海で、突然に返ってきた。
「あの子……」
ぼそり、とリィは呟いた。
身体はさっきよりも少しだけ、楽になっている。
病魔が退散した訳ではないだろう。ただ少しだけ波があって、今はその合間にいるのだ。
「あの子、名前は……名前は何て言ったかしら……?」
ぶつぶつとそう口にして、そしてまた口を閉じてしまう。
名前を思い出すまでは、まだ幾らかの時を要すこととなる。
そして思い出した時、彼女はどうしようもない絶望感に駆られるのだ。
二年間の幸せな記憶――その全てがまるで夢だったかのように感じられて。
薄れていって。
いっそ永遠に覚めることのない夢で有ったならと、彼女はそう思う。
6
陸に沿って海を行く船団。
食料と水の残りも心許なくなっていたが、それが尽きる前に町へと到着することが出来た。
町の名はサントドミンゴと言い、カリブ海に到達してから初めて訪れた、人々の住む場所だ。
周囲は山岳に包まれており、決して暮らしやすい所では無いだろうが、しかし暖かで暮らしやすそうなその気候は心を朗らかにさせてくれた。
面々は到着して宿へと向かい、そして皆泥のように眠った。
それは至福の時であった。
心も身体も何もかもを落ち着けて、この大地と一体化してしまったかのように、ずっと眠っていた。
そしてサントドミンゴへと辿り着いてから、三日が過ぎて。
「あら?」
石造りの宿、その一室の扉を開き、アイは中を見回した。
カリブでは天然痘や麻疹などの疫病が流行っており、疫病によって滅んだ民族もいた程、猛威を振るっているのだと出航所の役人から聞かされた。
この辺りの建物はヨーロッパに比べて簡素な造りのものが多かったが、衛生を考慮してなるべく良い宿を選んだのだ。
「今朝まではまるで丸太みたいになってたのに……一体何処に行ったのかしら」
そこにいるはずの青年の姿が消えている。
「気晴らしに良いと思って、散歩のお誘いに来たのに。ま、いないんじゃしょうがないわね」
折角カリブくんだりまで来たのだ。
今日はこの地の酒の味を楽しむのも良いか。
アイは一人そう思い、また扉を閉じた。
閉じてから、ふと考える。
(にしても、かおるさんもいないのか。もしかしたら二人で何処か行ったのかしら)
あの人の行きたがるような場所と言っても即座には思い浮かばないが、フェレットならば何となくは解る。
誘いに来るよりも前に、既に散歩に出かけて行ったのだろう。
そしてアイもまた、二人の後を追おうと考える。
二人が共に行動しているという根拠は無いけれど。
しかし酒の誘惑は振り解くことが出来ない程に強い。
(幾つか持って行って、ピクニックにでもするか)
自然とにやりとなって、アイは外の光景へと繰り出していった。
サントドミンゴの郊外、数分ほど歩いたところにフェレットは独り佇んでいた。
丁度良い岩肌を見つけてそこに座り、何となしに風景を見つめている。
(最近、こんなんばっかだな。僕は)
アフリカ、ルアンダの町で奇妙な仮面を被ったかおると再会して、しかし連れて行くことが出来なかった時。
あの時も砂浜で独り、いじけていた。
今は眼前に海は無いけれど、やっていることはまるっきり同じだ。
いや、少し違うか。
あの時とは違って、アイさんはここには来てくれないだろう。
町を出て適当にほっつき歩いたこの場所を発見出来る筈など無いのだから。
――つまり、ただ独りでずっといじけていることしか出来ないのだ、ここでは。
(しかし)
フェレットは思った。
何故、僕らは何時だって、完全な状態ではいられないのか。
パズルのピースが一つ見つかれば、一つ失くなってしまう。
(僕がいてアイさんがいて、リィとかおるさんの二人がいる。それが僕らの在るべき姿だってのに)
越えてきた海を振り返ってみれば、その完全な状態でいられたのは、最初にリィと出会ってから北海に向かうまでの半年足らずの間だけであった。
だけどこれからはずっと、みんな一緒でいられると思っていた。
それなのに。
溜息をついて、フェレットは空を見上げる。
まだ明るい色をしているのに、吹く風は僅かに冷えたものへ変わりつつあった。
帰るのが面倒だなと思って、また視線を下ろす。
「そんなところにいると、風邪引くよ」
それは唐突に。
声が、斜め後ろから届いてきた。
振り返らずとも解る、かおるの声だ。
フェレットは驚愕した。
この人が、たとえ表面上だけでもここまで優しい言葉を吐けるとは、と。
しかし振り返るなり、僅かに覚えた感動は何処かの海へと吹き飛んでいった。
かおるは直ぐ真後ろで、しゃがみ込んでいる。
視線の先にあるのは自分ではなく、地面に佇む一匹の生物。
人間ではない。
それは爬虫類だ。
怪訝な顔をして、かおるの方を見返していた。
(とっ、トカゲ……?)
フェレットは再び驚きを覚えた。
自分が座っている直ぐ傍の場所に、あんなに大きなトカゲが居たとは。
体長一メートルはあるし、スペインに住んでいたままだったら、まず見ることは出来なかった。
「もしかして、今の台詞は僕じゃなくて、そのトカゲに言ったんスか……?」
「あれフェレッチ君いたんだ」
「大分さっきからね」
言葉を失いつつ、こっちのほうがらしいなとフェレットは感じた。
そして何となく佇む二人。
トカゲは物珍しげにこちらをじろじろと見ていたが、やがて岩陰から去って行った。
「散々探したけど、結局”コンスタンティア”は見つからなかった。無事なんですかね、リィ達は」
「わがんね」
かおるはまごうことの無い本音で返す。
何を言おうが、気休めにもならないだろうと知っているから。
「ただ、まあ」
少し間隔を開けて、かおるはぼそりと言った。
「これで何もかもが終わり、と言うことは無いと思う」
「と言うと……?」
「勘なんだけどね」
予想していた返事だったが、フェレットはそれでも脱力感を覚える。
「そりゃ、僕もそう思いたいけど……」
「いや、ほら私ってさ」
その勘の根拠を口にしようとするかおる。
フェレットは自ら言葉を止めた。
奇跡に縋りつくような思いで、続きを求める。
「根っからの冒険者じゃない。だから冒険者としての勘がね」
「はあ、まあ」
滅多に起きないから、それは奇跡と呼ばれる。
期待した僕が馬鹿だった、とフェレットは素直に思った。
かつては自称海賊であったが、本当に過去に海賊をしていたことがバレたからやめたのだろうか。
気になりはしたけれど、わざわざ訊くことでもないだろう。
そしてかおるの言葉は途切れた。
本当にそれだけの理由だったらしい。
「でも、リィは無事でいますよ。きっと」
そう口にしたものの返事が無かったので、暫くしてから自分で言葉を続けた。
「無事でいなきゃ、いけないんです」
人の命は何時だって、突然に終わる。
残された人々はそれをただ悲しみ、受け入れなければならない。
航海の途中に大切な人間を幾度と無く失ってきた――しかし今回は、今回だけは起きてはならないことなのだ。
もしも彼女がいなくなってしまったら、間違いなく自分の心はそれを受け入れられないだろう。
張り裂けてしまうだろう、二度ともう元に戻ることが無い程に。
「最後まで面倒を見てやらないといけないんですよ……僕が。それがあいつをあの砂漠で拾ってきた、僕の責任なんです」
フェレットはかおるの方を見ない。
ただ自分の思いを改めて自身の心に再認識をさせるかのように、言葉を吐いた。
それを確認した上でのことだろうか。
かおるの表情に、僅かな憂いが混じっていた。
思い出しているのは、ノルウェー海に位置するベルゲンの町での出来事だ。
のどかな雰囲気に包まれた町で、かつての仲間と再会した。
そして言われるがままに付いて行き……結果として、仲間達を捨てた。
(責任……か。私には言えん台詞だな)
細い目をさらに細め、かおるの心は寂寥を含んだ声で独りごちるのだった。
「約束したんです。いつかあいつの記憶が戻ったその時は、どんなに辛い過去でも一緒に受け止めてやるからって。それに」
……まだ、言っていないこともある。
フェレットはそう心に抱いただけで、口には出さなかった。
「もしもリィが帰ってこなかったら、僕はどうすれば……」
「帰ってくるよ。必ず」
フェレットは自身の耳を疑った。
仏頂面をして隣に座っている人間が、あまりにらしくない優しい声を吐いたからだ。
アフリカで耳にした覚えもあるが、百回聞いても馴染めないだろうなとフェレットは思った。
「……ン?」
隣に座る青年、フェレットが目を見開いてこちらを見ていることに、かおるはようやく気付く。
いきなり慌て出して、かおるは座っている岩から落ちるようにして降りた。
しゃがみ込み、何かを探し出す。
つまりは今の言葉に込められた柔らかい響きは、本人の意図するところでは無かったと言うこと。
(素直じゃない人だ、まったく)
音を立てずに笑みながら、フェレットはその奇妙な光景を眺めていた。
そして、
「言っとくけど、もうトカゲはどっか行っちゃいましたからね」
ようやく一本返したぜ、と得意気に言葉を放つのであった。
だが、ここで予想外の出来事が起こる。
「あ、いた! トカゲが!」
少し先の大地を指差して、かおるは声を上げた。
意外な顔をしてフェレットがそれを追うと、そこには確かに全身を緑色で包んだ生物がいた。
爬虫類らしくない器用な足取りで、ずかずかとこちらに歩いてきている。
「獰猛そうだ。見つかったら酒瓶で殴り殺されるかも」
「思いっきりこっち見てますけどね。逃げる準備しないと」
確かにかおるの言うとおり、両手には鈍器が握られている。
鈍器の中には、人の魂すらも弄ぶ魔法の液体が。
「こら! 結構探して辿り着いたって言うのに、何て言い草よ!」
緑の生物ことアイは、いよいよ標的に振り下ろさんとばかりに、両手の酒瓶を持ち上げて叫んだ。
それを見て、フェレットはただ微笑ましさを覚える。
「よく解りましたね、ここ。考えてみればかおるさんも……」
「冒険者としての勘でね」
「確かに、案外当てになるかもしれないですね」
フェレットは言った。
ここは名前すら知らない、町の郊外だ。
それなのにまるで、自分の家に帰って来たような心持ちになっている。
僕だけじゃない。
かおるさんも、アイさんも同じように思っているに違いない。
そうだ――僕らが長きに渡って築き上げた家なのだ、この船団は。
今、大事な家族の帰りを、寂しい寂しいと言いながら待っている。
アイの持ってきた酒と少量のおつまみを手にして、三人は小さな宴会を始めた。
酒の魔力は、人々の心を幸せにしてくれる。
(僕らは何処にもいかない。だから早く帰って来いよ、リィ)
そんな思いを空へと飛ばして。
三人は夜更けまでずっと、そこにいた。
スポンサーサイト
- 2006/01/23(月) 03:38:01|
- 小説本文
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4