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航海タイム

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第二十章 ONE HAPPY DAY

1

 様々な想いを奔流と化して駆け巡らせた、熱き大地からの帰還。
 アフリカも確かに魅力溢れる場所ではあったが、それでも久々に見るヨーロッパの景色は彼らを心から安らがせた。
 リスボンの整った町並みは心地よく、ここ暫くの間に起きた事件の全てが、まるで嘘であるかのようにさえ思わせるのであった。
「倫敦もアフリカも良いが、ボンリスハムも良いな」
 あれ以来、かおるは自らを印度の出身だと言わなくなった。
 どう言う心境の変化が有ったのかは、知る由もない。
 まあ今まで倫敦やら印度やらイスラムが好きやらと、あれこれ適当なことを言っていたのだから、解りやすくなって丁度良い。
 フェレット達はそう好意的に受け止めることにした。
 目的地の無い航海と言うのも久しぶりで、船団はリスボンに暫く駐留し、今後の予定についてじっくり話し合うつもりでいる。
 そして話し合いをするよりも前に、ここで大仕事をこなすこととなっていた。
 船団がリスボンに到着してから、数日。
 はるばる北海から彼らのことを尋ねて、数十人の船乗り達が来訪した。
 それはカリタスの指示によるものであり、彼がリーダーを務める商会”Bar like a child”の面々が、或る目的の為にリスボンを訪れたのだ。
 ステイシス、ガリバルディと言った名うての造船師達。
 そう、彼らはフェレット達の船団の船を新造するためにやって来た。
 そしてもう一人。
「ウォルターさんっ、お久しぶりです!」
 遅れて姿を現した、もうじき老年にさしかかろうかと言う男を目にするなり、リィは歓喜の声を上げた。
「久しぶりだな、お嬢ちゃん」
 ベルゲンで造船師を営んでいる男、ウォルター。
 カリタスとも旧知の仲であり、かつてリィの乗るフリュート船”コンスタンティア”の建造をした。
 好きな女性をイメージすることにより、芸術作品として船を造り上げると言う……その胡散臭いフレーズにリィは最初嫌悪感すら示したが、完成した船を見てその出来栄えに感動し。
 またウォルターの人柄にも触れ、その魅力を改めて知ったのだった。
「ワシの造った船、壊しちまったか。まぁしょうがねぇやな」
「ごめんなさい……」
 本当に心からすまなさそうな顔をするリィ。
「いや、何時かは壊れるからこその芸術品だ。それにこっちとしちゃあ、これでまた儲かるんだからな」
 気にする必要は無いと、ウォルターは微笑んで見せた。
「あっ……ウォルターさん、その隣にいらっしゃる方は?」
 彼に寄り添うようにしているのは、まだ二十歳になったばかりか、そこらの女性だ。
「ああ。こいつはマリアンって言ってな。ワシの婚約者だよ」
「まあ! おめでとうございます!」
 その女性をぐっと引き寄せて見せて、ウォルターは今度は豪快に笑った。
 リィはそれを見て、うっとりした顔つきになる。
 本当に羨ましいと、心から思った。
「今のワシは一人の女を心から愛してる。つまり最高の芸術作品を仕立て上げられるって訳だ。楽しみに待っとけよ、お嬢ちゃん」
「はい!」
 確かに、今の彼はやる気に満ち溢れているようだった。
 踵を返し、直ぐに港の方へと走って行ってしまった。
 途中で彼の婚約者だけが振り返り、ぺこりと一礼をして、また彼を追っていく。
「良いなぁ……。結婚か」
「リィ」
 ぼんやりとして海のほうを見ているリィの、その背中を小突く指があった。
 振り返ると、そこにフェレットがいる。
 何故だか少しだけ、表情を引きつらせて。
「オヤジ趣味だったのか?」
「違います!」
「な、なら良いけど」
 それだけ言うと、フェレットもまた港の方へと行ってしまった。
 少しよそよそしいその態度に、リィは疑問を抱く。
(もしかしてやきもち焼いてくれてるとか。さすがにそれは無いか)
 そうして彼女もまた港へと急いだ。
 そこには船団の全船長が勢揃いをしている。
 アフリカでの戦いで傷付いた船の大半は最早航行することすら厳しい状況で、丁度良い機会とばかりに全船を廃棄し、そしてさらに大きな船を新造することとなっている。
 幾つもの危険な依頼をこなしたお陰で、既に船団の懐には溢れる程の金が溜まっているし、さらにまだアフリカでこなした分の依頼報酬を受け取っていない。
 明日船団を代表してフェレットの”フォスベリー”だけが一度セビリアに戻り、多大な金を積んで帰ってくる予定だ。
 今回の報酬額は今までのそれとは比じゃない程で、全ての船を造り替えてもまだお釣りが来るだろう。
 金に余裕がある分、今回は船の種類からデザインまで各船長が設計の段階から携わり、それで一つの船を造ると言うのだから、きっと大変な労力になるだろう。
 そして、楽しい作業になるだろう。
(これから忙しくなるぞ!)
 リィは小さくガッツポーズをした。
 誰も見ていないと思ったが、丁度アイが振り向いた瞬間だったようで、彼女はくすくす笑っていた。
 思わず顔を赤らめるリィ。
 そんなこんなで、リスボンでの時は流れて行く。
 楽しい時は早く過ぎていくと言うけれど――それはとても軽やかな足取りで、けれど一歩一歩自らの居場所を確かめるかのように、ゆっくりと過ぎて行った。

2

 或る日の昼に、彼らは広場に集まっていた。
 たまには青空の下でゆっくりとするのも良いだろうと、皆それぞれ適当な場所に座って歓談をしている。
 フェレットの付近にはかおる、アイ、リィがいて、そしてアスナもいた。
 アスナがこの船団に加わってから一月近く。
 しかしアフリカからここまでの旅はずっと船の上にいただけで、まだ他の船員達と話す機会は無かった。
 そしてフェレットとアスナは、お互い微妙な気まずさを感じていたのだった。
 何せまともに会話を交わしたのが、ルアンダの町でかおるのことに関して言い争いをした、あの一回きりなのだから。
「あ、あの……。フェレットさん」
「うん? ん、何だい」
 アスナの声を受けて、フェレットはとにかく普段と変わらぬ態度でいようとして、出来ずに慌てふためいた返事をした。
 たったそれだけで、他の人間が声を挟めない程に、緊張感溢れる空間がそこに形成される。
 しかしそれもまた、一瞬だけだった。
「あの時は、すいませんでした」
 ぺこり、と大きくお辞儀をされて、フェレットは仰け反った。
「いや……ごめん、こっちこそ。ろくに事情も知らなくてさ……。それより、これから宜しくね」
「はい。あのっ」
「ん?」
 そう言うと、アスナはポケットをごそごそとして、何か光るものを取り出した。
「これ、仲直りの印と言っては何なんですけど……」
「ペンダント?」
「はい。私が作ったんです」
 緑に煌いているのは天然の石だ。
 それが埋め込まれているのは、少々不恰好な、見ただけで手製とわかるペンダントだった。
 しかしその不器用な感じこそが、また愛おしさを醸し出してもいる。
自然と、フェレットの表情がぱっと輝いた。
「僕が貰っても良いの?」
「はい。もし気に入ってくれたらで良いんですけど」
「気に入るも何も。ありがとう」
 そう言うと、フェレットは早速それを首に付けた。
 顔には満面の笑みが浮かんでいる。
 それを見て、良かった、とアスナも微笑んだ。
 一件落着、と皆が思ったところで。
「私のは」
 いきなり横から差し込まれた言葉。
 怪訝な顔をして皆が振り返ると、そこにはかおるが憮然とした表情をして座っていた。
「私のペンダントは」
「かおるさん。かおるさんのはまた作ってあげるから」
 苦笑いを浮かべながらアスナはそう言った。
 かおるの表情はまだ固まったまま。
(や、やきもち焼いてるのかしら……?)
 やり取りを黙って見ていたリィ、意外な一面を見てしまったと思って、興味深そうな表情になる。
 さらにそんな所に、抜群のタイミングで割り込んできた男が一人。
「あの、アスナさん。アスナさんって言うんっすよね」
 彼の名はパング。
 言葉遣いに特徴の有る少年船長だ。
 もっとも彼の駆る船はアフリカの戦いで沈没してしまい、今現在は”フォスベリー”の世話になっているのだが。
「今日これから暇っすか? もし良かったら、自分と一緒に海でも見に行きませんっすかねえ?」
 フェレット達の表情が皆引き攣っていることに、パングは気付かなかった。
 ――背後からにゆらりと蠢く者の存在にも。
「フグァ!」
 尻の辺りに強い衝撃を受け、パングは悶絶した。
 振り向くと、そこには無表情のかおるがいる。
「な、何するんっすか!」
「膝蹴りが滑った」
「膝蹴りが滑るかッ!」
「私は膝蹴りだけじゃなく、肘打ちも滑るよ。真空飛び膝蹴りなんかもう滑りが良すぎて、おじさん今にも放ってしまいそうで」
 その異様な迫力に、パングは圧倒された。
「すいませんでしたっす!」
 逃げるように、その場から走り去っていく。
 それを眺めた後、かおるは再び座った。
(そうか、パングちゃんはアスナちゃんの事情を知らないのね。にしてもなんと無謀な)
 たはは、と笑うアイ。
(アイツ、何だか妙なポジションに収まったな……)
 フェレットにしてもただ、哀れなりパング、とそれだけ思うしかなかった。
 しかしそう思った後に、ふとあることを思い出す。
「あ、そうだ。かおるさん。今アスナちゃんにペンダントを貰って思い出したんだけど」
「ンア?」
「あの帽子、良かったらまた僕に使わせて貰えませんか」
 フェレットが指しているのは、かつてかおると出逢った当初に彼から貰った羽付きのフラットキャップだ。
 かおると別れるとなった際に、彼に返してしまったもの。
「ほら、結局こうやってまた旅することになったんだし。あれを返して貰う為に会いに行くって話だったけど、もうその必要も無くなったもんね」
「ああ。アアー」
 ようやく思い出したのか、かおるは自分の荷物袋を取り出して、ごそごそとやり始めた。
 しかし数分経っても、見つからないようである。
(もしかして失くしたんじゃないだろうな……)
 さらに探し続ける彼を見て、フェレットの不安は段々と増していった。
 そして、かおるは荷物袋を閉じた。
 何も見つけ出した様子はない。
 皆が訝しげな顔をして、彼のほうを見ていると。
「ん」
 かおるは不意に立ち上がった。
 そして自分がたった今まで座っていた箇所を見やる。
 そこには何故だか、踏み潰されてぺしゃんこになったフラットキャップがあった。
「フオォォォーー!?」
「フォーじゃないでしょ! フォーじゃ!」
 町全体に響き渡るほどの奇声を放つかおる。
 そしてフェレットは絶望の表情をして、場に崩れ落ちた。
 少し嫌そうな顔をしつつも、アイがその帽子を拾い上げる。
 羽がひしゃげてしまっていて、最早まともに被ることすら難しいほどになっていた。
「一体なんでそこに有ったのかしらね……?」
「だ、台無しだ……」
 フェレットは地面に両手をついて項垂れている。
「ああ、それ見つかったから返す」
「要らんわっ! もう!」
 かおるの平然とした声に、数倍する大きさの声を返すフェレットだった。
「元々古くなってたしね。そろそろ、新しいのを買う頃合かなとも思ってたし……。しかしまさかこんな残酷な別れになるとはな……」
 尻に潰された帽子を大切に持っていると言うのは、あまりに何だろう。
 フェレットは泣く泣く、その思い出の品を捨てる決意を固めた。

 一行はそんな風にして、二時間程を広場で過ごした。
「カリタスさんも……そろそろ、かな」
 待ち遠しいとばかりにアイはそう呟いた。
 彼は今、”Bar like a child”を率いる者としての、大切な任務に当たっている最中。
 それが終わるのを今か今かを待ち侘びて、フェレット達は広場にいた。
(大丈夫だ。あの人ならやれる)
 彼の手腕を疑うものは誰一人としていなかった。
 しかしそれでも、彼の作業が遅れれば、やがてこちらの身が持たなくなる。
 ぐぅ、と。
 夕方になって少しだけ静まった広場に、音が鳴り響いた。
 その音を契機に、完全に無言になるフェレット達。
(誰だ……僕じゃないけど)
 それは間違いなく腹の音だろう。
 フェレットは上目遣いに面々のことを見回したが、レディ達は皆顔を背けている。
(ま、まあ誰でも良いよな。別に)
 しかしそう思った瞬間、さらにもう一度。
 ぐぐぐぐ、と、無視できないほどの長い時間、音が響いた。
 フェレットははっとする。
「リィ……」
「違いますっ」
 少々怒り気味の声でリィが言った。
 突如、ばったりと地面に倒れ伏したのは他でもない、かおるだった。
 腹の音は二度とも、やはり彼のものだったらしい。
「駄目だ。ケムンパス船長が急いでくれないと、死ぬ」
「ケムンパス……?」
「カリタスさんのことだろ」
 首を傾げるリィに、フェレットが投げやり気味な説明をした。
「けれど……確かに、私ももう限界だわ。カリタスさんはまだなのかしら」
 アイの表情も疲れ切った、蒼ざめたものに変わっている。
 フェレットとリィ、アスナもそうだ。
 体力はもう限界に近付いており、このままではどうなるかわからない。
「まだか……奴は」
 視線すら覚束なくなり、かおるは息も絶え絶えに、リスボンの町並みを眺めた。
 すると、そこには!
「待たせたな。皆」
 皆の希望を一身に浴びながら、ニヒルな顔立ちをした男が立っていた。
 こちらを見て、笑っている。
「すまなかった。予想以上に手間取ってしまってな。しかしもう平気だ」
「カリタスさん!」
「カリタスァセンチョッ!」
 餓鬼と化したフェレット達の声を浴びながら、カリタスは彼らを導いて行った。
 彼が今日一日かけて仕上げた、芸術作品の置かれた場へと。

「おお……」
 酒場に入るなり、船員達は皆その空間に魅入られて溜息をついた。
 フェレット達だけではない。
 船団の全船員が今、一堂に会している。
「フッ。カリタスプロデュースの、何もかもが計算し尽くされたこの酒宴会場の出来栄えはどうかね?」
「さ……最高だ。食材ごとの色合いまで計算された配置……一寸の乱れも無い!」
「一生付いて行きます!」
 酒場の中から次々とそんな声が上がった。
 アフリカでの長きに渡る冒険。そして、ここリスボンでの船の新造作業。
 それを労うべく、超ド級の宴会を開催しようという計画。
「食材も皆、各地に旅してきた冒険者達から買い集めた最高の品ばかりだ。皆、今日は腹がはちきれるまで楽しみ給え」
 今日この日を最高の時にすべく、彼らは皆、二日間飲まず食わずの日々を過ごしていたのだった。
(商会の責任者が、宴会部長とはな。堕ちたもんだぜ……)
 カリタスは内心ではそう思い一人落涙していたが、それもまた空腹による苛立ちから来るものだろうと解釈して。
 皆席につくなり、皿まで食い尽くさんばかりの勢いで食事を平らげ始めた。
 アフリカでは多数の水夫達が命を落とし、新たに雇い入れた水夫達はまだ、船団とは馴染みが薄い。
 彼らと親交を図ると言う目的も、この酒宴にはあった。
「悪いわね、クリスティナさん。きっと今日は狂騒夜になると思うわ」
「いえいえ、折角久々に来て下さったんですから。楽しんで行ってください」
 そう言葉を交わすアイと、船乗り達に絶大な人気を誇るというこの酒場の看板娘、クリスティナ。
 以前彼女に頼まれごとをされた経験もあって、それだけに今回のこの暴挙に対しても店は寛容に応じてくれた。
 ちなみにクリスティナと一緒に店を手伝っていた少女、カルロータは今はもう働いていないのだとか。
「それにしても、出来上がった船はみんな本当に素晴らしいものばっかだったな。特にあの新生”フォスベリー”の美しさと言ったら最高だ」
 思い出しただけで、うっとりしているフェレット。
 空きっ腹に酒を入れたせいもあって、彼の脳裏に浮かぶ船の姿はさらに魅力を増している。
 そう。
 一昨日かおるの乗るアラビアンガレー船、新生”永久機関”が誕生したのを最後に、船団の船は全て新しく生まれ変わったのだ。
 フェレットの乗る”フォスベリー”は大型キャラベル船に、アイの乗る”シャルトリューズ”はサムブークへと変わった。
 リィの”コンスタンティア”もまたフリゲート船になり、ルーファの船”ヴェレーノ・プリンシペッサ(毒の姫)”は商用のサムブーク船に。
 カリタスもまた”オールド・ブラック・マジック”を大型キャラック船として新造した。
「”フォスベリー”も確かに良いっすけど、新生”嵐を呼ぶ鹿号”は本当に最高の出来っすよ。大型キャラベル船みたいなずんぐりむっくりの形とは違って、ピンネースはシンプルながらも美しくて……」
 同じテーブルについている、パングの声。
 一瞬にしてフェレットのこめかみが引きつる。
 しかしそれでもここは目出度い酒宴の席だと、何とか堪えることに成功する。
「君はまだ子供だからしょうがないな。大人になってようやく、あのデザインの……言わばぽっちゃり系の魅力が解ってくるってもんさ」
「フェレさんはおじさんっすもんね」
 容赦なく言葉を突き入れるパングであった。
 フェレットのこめかみはさらにニ、三回もひきつったが、
(そうだ。僕はおじさ……いや、大人なんだ。こんな事で腹を立てては大人気ない。あの……あのクソガキの言動は、全て水に流してやろう)
顔面を俯かせて、すんでのところで全てを飲み込んだようだった。
 いや、まだ全身をわなわなと震わせてはいるが。
 酒宴が始まってから僅か一時間で、アイの予想した狂った夜が現実のものとなりつつあった。
 むしろそれを先陣を切って体現し出したのは、他でもならぬ彼女自身。
 そしてやはりと言うか、その手中には彼女にとっての最高の玩具が握られていた。
「ほーらレティちゃん、折角のめでたい日なんだから、今日は吐くまで飲みまくろうね!」
 言葉を吐くとほぼ同時に、膝に乗せている少女の口に酒を流し込んでいる。
 いや、流し込むと同時に、左手では新たな酒瓶を手にしている。
 少女の顔と唇は、既に青白さを超えて青黒くなっていた。
「死ぬんじゃないのか? アレ」
「あれで死ぬ位なら今までの道程でとっくに死んでるぜ。五体満足でいられるかは危ういけどな」
 テーブルを囲む”シャルトリューズ”の船員達が口々に噂する。
「ま、お陰で俺達が無事でいられてんだからな。こう言う時ばっかはあのガキに感謝するぜ」
 ”シャルトリューズ”の船員の一人である、グラフコスは我関せずと言った様子で笑っていた。
 しかし。
「ねぇ、グラフ。ちょっと来て貰えるかしら?」
(なっ……俺もかよ)
 全く予想だにしていなかった、鬼の声。
「俺がいなくても、そのガ……レティシアがいれば良いんじゃ」
「玩具、壊れたの。おいで」
 成る程、アイの隣で確かにその玩具はガラクタと化していた。
 グラフコスは他の船員を見回したが、皆やはり関わらないようにして、視線を逸らしている。
「おいで」
「……くっ」
 仕方なく、アイの席の隣に移動する。
 グラフコスはそれでもまだ、自身が殉教者となることを受け入れられなかった。
「口を開けなさい」
「い、いや」
 口を開けたらどうなるか。
 酒を流し込まれるのだろう……この息の根が止まるまで。
「ジ……ジツは俺、その、顎をちょっと病んでましてね。ほんとにちょっとだけしか、口を開けられねえんですわ……。さっきまでは喋ってられたけど、もう限界でして」
 気取られまいとばかりに、辛うじて呼吸が出来る位だけ、グラフコスは口を開けた。
 その僅かな隙間からでも酒を入れられやしないかと危惧したが、
「そうかぁ。じゃあしょうがないわねえ」
 意外にも、返ってきたのは優しい言葉。
 しかしそれすらもやはり、巧妙に仕掛けられた罠であった。
 ……罠と言うか、単に強行突破に切り替えただけだったが。
「ガボァッ!?」
 アイは形振り構わず、彼の体内へと酒を流し込んだ。
 口が開いていないとなれば……と、選んだ場所は――鼻。
「せ、船長! それは本当に洒落にならないですぜ!」
 慌てて駆け寄る他の船員。
 すると、鬼はそちらにも興味を示した。
「あら。玩具がたくさん」
「船長! 正気に戻って下せぇ!」
「私は何時でも正気よ。だってまだ、宴は始まったばかりじゃない?」
 そんなやり取りをしている最中でも、酒瓶はまだ新たな玩具へと差し込まれたまま。
 当然、グラフコスは既に白目を剥いていた。
 危険な遊戯はこれからも夜が明けるまで……夜が明けてもまだ、続いた。

 さてこちらは、船団の女性ばかりが集まったテーブル。
 リィを始めとする”コンスタンティア”の船員達、アスナ、それにロッティーナやルーファなどもこのテーブルで女同士の会話を楽しんでいた。
 何気にウォルターも婚約者と共に、ちゃっかり席に混じっていたりするのだが。
「……向こう、大変なことになってる。大丈夫なのかな……」
 阿鼻叫喚の酒宴、それは最早日常茶飯事。
 しかしそれを見慣れていないアスナはおろおろとしていた。
「アイさん達のほうなら大丈夫だよ、アスナちゃん。あの人達は宴会が始まると何時もああで、けれど数日後にはまだ平常に戻ってるから」
 リィが優しく説明をしてあげる。
「私も最初は驚いたけど、でも直ぐに慣れるよ」
「そっ、そうなんだ……」
 それでもアスナの視線はまだ落ち着かない。
 彼女はそもそも酒の味そのものを知らず、宴会のこの雰囲気自体に対応しかねていたのだ。
 リィはそのことに気付き、場に並べられている酒の種類などを一から説明してあげた。
 彼女自身酒に強い訳ではないが、この船団で過ごす内、自然に知識が身に付いてしまったらしい。
「お酒はね、楽しむ為に飲むものなんだよ。だからアスナちゃんも今日は飲もう」
「うん。ありがとう、リィちゃん」
「あ……そう言えば、船、大丈夫だった?」
 リィは訊ねた。
 彼女は過去の事件の記憶のせいで、船に乗ることに恐怖を抱くようになってしまったと、かおるから聞かされていた。
 しかしルアンダから出発して、既にもう数十日の航海を終えた後だ。
「うん。恐いと思ったけど、乗ってみたら楽しかった」
「そう。良かった……。うん、航海は楽しいものなんだよ」
「うん……。この船団の人達と一緒にいるとね、そんな風に思えてくるの。みんな本当に心から楽しそうにしてるから」
「うん!」
 ――この幸せな雰囲気を、あの子達にも味わわせてあげたかったな。
 アスナは静かにそう思って、けれど言葉には出さなかった。
 壊したくなかったから、今のこの感じを。
「にしても、アイさん達はともかくとして……フェレさん達は大丈夫なのかしらね」
 ルーファが言う。
 このテーブルはフェレット達がついているテーブルから一番遠い位置にあり、彼らのやり取りは見えない。
「さっき、言い争いしてたわよね。殴り合いにまで発展してるんじゃない?」
「いえ、ルーファさん」
 至って真剣な声を挟んだのは”フォスベリー”の副官、ロッティーナ。
「うちの船長に限って、そんな野蛮なことはしません。あの人はあれで、ちゃんと場の雰囲気というものを考慮して下さる、聡い方ですから」
 きっぱりとそう否定する。
 何と素晴らしい信頼関係だ、とルーファは感銘すら覚えた。
 そこで終わっていれば、美談として処理されていただろう。
 しかし。
「ロッティさん! ロッティさんいやすか!」
 こちらに数人の男がどかどかと音を立てて走ってきた。
 皆”フォスベリー”の乗組員達である。
 野蛮な、とロッティーナは顔をしかめている。
「……どうしたのよ?」
「大変でやす! 船長がいきなり脱ぎ始めて!」
 そのフレーズを耳にした瞬間、ロッティーナは思わずすっ転んでテーブルに激突しそうになった。
 ルーファら話を聞いていた面々も、皆表情が氷のように固まっている。
「脱……どうして、そんなことに」
「それが……パングさんと言い争いをして、互いの船のどっちが戦闘能力が優れているかという話になりまして。パングさんのピンネースにはラムが付いてるから、その分自分の船のが強いと主張をし始めまして。そうしたら、その……フェ、フェレット船長が」
 この先を口にして良いものかと、その水夫は口篭ってしまった。
「言いなさい!」
「……ラム(衝角)なら、自分の下半身にもついていると」
 瞬間、とてつもなく冷え込んだ空気がテーブルに流れた。
 それは遥か北、ストックホルム周辺の空気にも似て、寒々しく。
「で、パングさんも自分のラムの方が鋭いと、反論をして……」
「被害状況は」
「は、被害状況?」
 ロッティーナが問う。
 唖然とするその水夫。
「答えろと言っているの! 被害状況は!」
「はっ……全裸です」
「あんんんのバカ船長があぁっ!」
 数分と保たなかった信頼関係であった。
 憤怒の形相になっているロッティーナ。
 その隣に、もう一人いた。
 彼女もまた、振り向くなりロッティーナが視線を固める程の形相をして。

「オラァ! これで”フォスベリー”の方が何たら馬鹿号よりも優れてるって事が実証されただろうが! 船だけじゃなく、船長の質もなァ!」
「なーに言ってんすかァ! 破壊力と言いデザインと言い、自分の方がそっちよりも遥かに上っすよォ!」
 相対する男二人。ともに全裸。
 この瞬間において、彼ら二人はリスボンで――いや、この海で最も醜い二人であったことは疑う余地が無いだろう。
「ならっ、船員の質ではどうだ! まぁ船長の格においても明らかに僕のが上だがなぁ! ”フォスベリー”は船員も最高に素晴らしいんだぞォ!」
 ゆっくりと、フェレットの視線が水夫達へと向く。
「船長命令だ。脱げ」
「へっ?」
「断ったら今後当分、船上での食事はビスケットだけにするぞ。そしてそれだけでも君達は『こいつはうめぇ! 元気百倍でさぁ!』としか言っちゃいけない……そんな罰ゲームを与えるからな」
 フェレットは前後不覚のまま、そう言葉を吐き続けていた。
 最早相手の声がどのような響きを持っているかすらも、判別出来なくなっている。
「船長。いい加減にしてらして」
「いーや! あのクソガキに一泡吹かせてやるまではやめないぞ! 僕は!」
 背後から響く声。
 それは他の人間達を一瞬にして恐怖に包み込むほど、怒りに満ちていたものだった。
 たった一人、フェレットだけ気付いていない。
「それより、君も身をもってラムの威力を見せてやるんだ! 僕らと同じように脱っ……」
 フェレットは言いながら、振り返った。
 そして彼は表情を固めた。
 感覚がことごとく麻痺していても、さすがに視線に入れば解った。
「……ぐのは、無理ですよね。レ、レディですもんね」
 その凄まじい剣幕は、彼の身体に溜まっていた酒気を何処かへと吹き飛ばした。
「船長?」
「はい」
 フェレットは瞬く間に、ロッティーナに対して従順になった。
 しかしそれでもまだ、彼女の怒りは収まらない。
 収まっていないはずなのに、彼女はにこりと笑った。
 その瞬間の、恐ろしさと言ったら。
 フェレットはその恐怖を正面から浴びて、大口を開いたままで動けなくなった。
「ラムの威力を見せ付けてやる手が一つだけ有ります。私の進言を受け入れて頂けますか?」
「う、うん……。勿論」
「ラムというモノは本来、海上で他の船にぶつける為に使うものですよね。ならば陸上でそれをひけらかしているのは、ラムからしても不本意でしょう」
「……そ、そうですかね。やっぱり」
「そんなにその威力がご自慢でしたら、別の船に対して御使用なさるのが良いと思いますわ」
 ぎくり、とフェレットは身を震わせた。
 いや、まさかそんなはずはあるまい。
 浮かんだイメージを必死に掻き消そうとする。
「何なら私もお手伝いしてあげますけど?」
「い、いや……すいませんでした」
 フェレットはもう一度、改めてロッティーナの顔を見やった。
 紅く染まっている。
 怒りか、照れか……後者は多分、無いとして。
 こんな彼女の顔色を見たことは、今までに何度か有る。
 既に彼女とも航海を共にして長い。
 だから、知っていた。
 ”フォスベリー”の副官、ロッティーナ・フォゼリンガムはそう酒に強い方では無いと言うことを。
「あの、ロッティさんも結構酔ってるみたいだから。その……向こうでゆっくりしてらした方が」
「いえ。”フォスベリー”の副官として、果たさねばならない責務であると承知しておりますから。貴方が本来の棲み処に戻るのを、私が手伝って差し上げます」
 部下に対して敬語を使う船長。
 彼女の機嫌は、何も変わらない。
 ロッティーナは更に近付いてきて、そしてフェレットの身体を持ち上げた。
「ちょっと待て! 正気に戻って!」
 泣き叫びながら彼女を止めようとするフェレット。
 しかし如何ともし難い体勢にある。
 全裸の彼を抱えたまま、ロッティーナは酒場の入り口のほうへと走って行った。
「いやいや、待った! それだけは! この寒空の中!」
「港に停泊しているバルシャにでも突撃して来なさいな!」
 船団の面々が唖然としている中、フェレットとロッティーナの二人は闇夜へと消えて行った。
 いや、ただ一人、アイだけはそれを見て心から楽しそうに笑っている。
 対抗勢力であったパングは自らの勝利を確信したが、その瞬間。
「れッ?」
 彼もまた、中空へと持ち上げられた。
 何とか首だけ振り返らせると、そこにはルーファがいる。
 たった片腕で、パングの身体を持ち上げていた。
「行こうか。パング」
「は……はいっす」
 パングは笑って応じた。
 人は本当に怖い時は笑うしかないと言うが、それは事実だった。
 そして彼らもまたゆっくりと外に――海に歩いていく。
 その後、宴会は”シャルトリューズ”の面々が座るテーブルを除いて、とても和やかな雰囲気で続けられたと言う。

3

「気のせいかしら。今、何かが海に落ちる音が……」
 そう独り言を呟いた瞬間に、もう一度同じ音が鳴り渡る。
 気のせいではなかったらしい。
「一体何が?」
 リィは海の方角を眺めてみたが、夜の闇に阻まれて殆ど何も見えない。
 仕方が無いから気にしないようにして、リィはそのまま目的の場所へと向かうことにした。
(フェレさん達、楽しんでるかな)
 彼女は思いを一瞬酒場へと飛ばして、けれどそれは直ぐに戻って来た。
 少し歩くと、船団の面々が泊まっている宿に辿り着いた。
 一足先に戻ってきたのは、別にもう酒に酔って潰れてしまったからではない。
 自分よりもさらに一歩先に宿に戻って来ているはずの、その人物に会う為だ。
 緊張を隠しきれずに、僅かに足を震わせながら。
 リィは宿屋へと入り、そしてその中の一室へと急いだ。
 がちゃり。
 ドアを開くと、彼は起きていた。
 飲んだのは少量だけだが、極端に酒に弱い性質だそうだからてっきり ベッドに伏していると思ったのに。
「来たか」
 静まり返ったその部屋で、彼は一言そう口にした。
「すいません。折角部屋で休んでいた所を」
 そう、ここにいるのは”永久機関”の船長、かおる。
 何故戻って来ているかと言えば、あの場にいたら皆に酒を飲まされまくって大変なことになるからだ。
 普段ならともかく、今日の酒宴は本当に、酒で人を殺しかねない空気が漂っていた。
「かおるさんにずっと訊こうとしてた事が有って……今しかないと思って、来ました」
「ああ」
 アフリカで経験した、幾つもの悲しい出来事。
 特にかおるに取っては何よりも辛いことだったに違いない。
 その証拠に、普段何時でもとぼけた顔をしている……とぼけた振りを装うのが彼の信条で有るはずなのに、アフリカでの彼はずっと真摯な表情をしていた。
 しかしその反動だろうか――リスボンに到着してからの彼は、まるで呆けた老人のようになっているのだが。
 だけど今は、違う。
 彼は確かに何時にない真剣な表情をして、リィのことを出迎えた。
 失礼します、と小声で言い、リィはかおるがいる場所の向かい側にある椅子へと座った。
「来ると思っていたよ」
 さて話をしようかと思ったその時に、そう言葉が口にされた。
「かおるさん……」
 やはり、この人は知っているのだ。
 私の――記憶のことを。
 そう意識すると、途端に言葉を口にすることに、躊躇いの気持ちを抱くようになった。
 けれどそれでも、今ここで訊かなければ何も進まない。
「あの、クライドさんは」
 何とか口に出した言葉も、直ぐにつっかえてしまった。
 落ち着くんだ、と心にそう強く言い聞かせる。
「クライドさんはどうなされたのですか。あの時に……」
 アフリカで、かおるが独りで海賊団と雌雄を決したあの日。
 クライドは海賊団の一員として立ちはだかった。
 リィもそれを見ていたけれど、結局その後に起こった全ての出来事を把握することは出来なかった。
「クライド?」
「ええ」
 何故そこで疑問系になる。
 リィは心からそう思ったが、言わない。
「ああ、HIGEのことか」
「ええ」
 何故いちいち言い直すのだ。
 リィもそう、いちいち細かいことが気になってならなかった。
「散ったよ。HIGEは」
 しかし次に吐かれた言葉を聞いて、リィの表情には悲しみが浮かんだ。
 その声が、あまりに無感情な響きをしていたからだ。
 元々感情の起伏があまり表に出ない人だけど、その一言だけは、意図的に感情を取り去ったようにして聞こえた。
 まだ、悲しみが生々しいからなのだろう。
「ごめんなさい。こんなこと、訊いてしまって」
「構わん。それでどうした?」
 ぶっきらぼうな返事を受けて、リィは早めに会話を進めてしまおうと思った。
 そうした方がきっと、互いの為にも良いだろうから。
「かおるさんは知らないかもしれないけど……私達、ルアンダで一度あの人に会ってるんです。その時はアスナさんも一緒にいて」
「ふむ」
「その時、クライドさんは去り際に……私に、言ったんです」
「だっふんだ、と」
「違います」
 少し嫌な流れを感じたリィであったが、気にしないようにして自分のペースで会話を続けようとする。
「あんたの中にある未知の部分を、無理に求めようとするな。今を大切に生きろ……と、あの人はそう言いました。……きっとあの人は、私の記憶のことを知っていたんだと思います」
 そう、砂漠で倒れていて――フェレット達に助けられて、そして一緒に旅をすることになった。
 求めてやまない、それよりも以前の記憶。
「かおるさん」
「プォ」
「真剣に聞いて下さい!」
 かおるが思わず飛び跳ねるほどの剣幕で、リィは言った。
「あ……ごめんなさい。つい……」
 はっとして、そう謝罪の声を口にして。
 そして彼女は再び、正面からかおるのことを見据えた。
「かおるさんはクライドさんと仲が良かったって、聞いてます。クライドさんが私のことを知ってるのなら、もしかしてかおるさんだって、私の記憶のことを何か御存知なのではないでしょうか?」
 それは疑問系だ。
 しかし彼女の中では確信があった。
 この人ならば、普段のあのポーカーフェイスの中に何を隠していてもおかしくない。
 現に、自らの過去のことも隠していた。
「ギャル」
 相変わらずの無表情。
 しかしリィは唇を噛んでいて、その表情はさらに真剣味を帯びていく。
 数秒、その場の時間が止まったかのように思えた。
 二人とも何も言わず、ただその空間を形成するモノの一部として、そこにいた。
 ――そして。
「はっはっはっは」
 かおるは笑い出した。
 リィは驚きのあまりに、椅子から転げ落ちそうになった。
 辛うじて持ち堪えたものの、心臓がけたたましく鳴り続けていて、神経が全てそちらに向けられている。
「スマンスマン」
 まだ、笑っている。
「正直なーんも知らん」
「え……」
 リィは再び仰天した。
「えええっ! 知らないんですか、何もっ?」
 今度は逆に眼前に有るテーブルに両手をついて、かおるのほうへと大きく身を乗り出す。
「だっ、だってクライドさんと仲良かったんでしょう! それなのに何も知らないんですかあっ!?」
「まぁ仲は悪くなかったが、私は奴とは相容れん部分があった」
「えっ!」
「あのヒゲの生え方だけは、何時だって腹が立ってならなかったよ」
 その一言は、ついにリィから全ての気力を完全に奪い去った。
 べしゃり、と彼女はテーブルに潰れた。
 いや、最後に一言だけ、辛うじて言葉を放つ。
「じゃあ……どうしてさっき『来ると思っていた』なんて、意味深なことを言ったんですか……?」
「私なりに場の空気を読んだ結果だ」
 その最後の一言は、完全に無駄な労力となって終わった。
「そ、そう、か……」
 よろめきながらも、リィは立ち上がった。
 そして覚束ない動作で踵を返して、ドアの方へと歩いていく。
「ごめんなさい、余計な手間を取らせてしまって。私、帰って寝ます」
「ギャル」
「はい?」
 既にドアのノブへと手を触れさせていたリィに、かおるが声を掛けた。
「記憶のことが、そんなに気になるか」
「気になります。すっきりしないですもの、やっぱり。……そう言ったら、何か教えてくれるんですか?」
「いや、なーんも」
「……失礼します」
 そうしてリィは扉を開き、帰って行った。

(記憶――か)
 誰も居なくなった部屋で、かおるは一人、昔の風景へと思いを巡らせる。
 自らの過去のことを。
 それはずっと、引き出しの中に閉まわれていた。
 一端閉じてしまったそれは中々開けられず、数年間も放ったままになっていたが、最近ではすっかり出し入れが自由になっている。
 誰にも言っていない様々なことを、脳裏に浮かべた。
 印度で過ごした記憶、アフリカでの、他にも様々な場所での記憶を――。
 目を細めて、そしてかおるは考えた。
 考えたが、
(やっぱ何も知らんわ)
 そこにある光景に、あの少女の名は刻まれていない。
 あっさりと諦めて、彼はベッドに入って寝た。

4

 直ぐに寝てしまおうと思っていたが、リィは帰りに何となしにフェレットの部屋を横切った。
 不思議なことに、そこには明かりが点いていた。
(もう帰ってるのかな? 早過ぎるような……)
 そう思いながらもドアを開くと、そこにはやはりフェレットがいた。
 いや、それよりもまず視線に入ったのは、赤い髪を持つ女性の姿だった。
「ロッティさん?」
「あっ!」
 フェレットはベッドに寝ていて、直ぐ傍に寄り添うようにして彼女がいる。
 リィはそれを見ても別に何も思わなかったが、ロッティーナの方はあからさまに表情を変えていた。
「ごっ、ごめんなさい! 私っ、その、別に何かしようとした訳ではないんですが……」
「何か有ったんですか?」
「いえっ、その!」
 彼女は何故か顔を赤らめて俯いている。
 酒に酔っているせいなのだろうか?
 そして何故だろうか、対照的にフェレットの顔は蒼ざめていた。
 それもまた、酔いのせいなのかはわからない。
「ちょっと、体調を崩されたみたいでして……。私が看ていたんですが……やっぱり、邪魔をしてしまいますよね。私、帰ります! それでは!」
「えっ? ちょっと、ロッティさん」
 リィが見送る暇さえなく、彼女は立ち上がって早々に部屋を出て行ってしまった。
 ばたん、とドアが閉じられて、場には二人だけが残される。
「どうしたのかしら……一体」
 それにしても面倒見の良い人だなぁと、リィはそんな感想だけを抱くのであった。
 そうした後改めてフェレットの方を見やる。
 最早人間の顔とは思えない程、顔色が悪くなっている。
「フェレさん。フェレさん、大丈夫ですか?」
 呼びかけても、返事が来ない。
 いや、数秒した後にようやく、ぽそりと声が届いてきた。
「リ……リィ、か」
「フェレさん?」
「僕は、もう……死ぬ」
「何大袈裟なこと言ってるんです。飲み過ぎただけでしょう?」
「ちっ、違う。海に投げ落とされ……いや、僕の不手際で、落ちたんだ」
「海に?」
 道理で、顔色がまるで海のようになっている。
 よく分からないながらも、リィはそんなことを思った。
「ラムが……もっと、大きいのを搭載しないと、歯が立たないと、実感……させられた」
「相当重症ですね。ずっと居てあげますから、じっくり休んで下さい」
「う、ん……」
 ぎりぎりの声を放つと、フェレットはもう口を開かなくなった。
 事情はよく解らないが、本当に辛そうだということは見て取れる。
(まったく)
 反応が完全に無くなったと見て、リィは彼の髪に触れて、優しくさすった。
 そうして暫くの間、彼女はただフェレットのことを見つめていた。
 ただそうやっているだけで何故だろうか、疲れ切った心が見る見るうちに安らいでいく。
(フェレさん)
 言葉には出さずに、心の中で彼の名を呼んだ。
 たまに、信じられなくなる時がある。
 この人が今まで、ずっと私のことを見ていてくれたということが。
 だってそれは、並大抵の苦労では無いはずなのに。
 この人が私を海に連れ出してくれて……大切な日々を、私にくれた。
 身体だってそんなに強くないし、別に取り立てて何か天才的な要素を持っている訳でもない。
 なのにこの人は、私の何もかもを受け入れてくれた。
 こんな幸せを、私に教えてくれた。
”かおるさんはなぁっ、僕らの想像もつかないスーパーマンなんだよ! だから絶対に生きて帰る!”
 あの時――アフリカの海で、かおるさんの安否を祈りながら、この人はそう叫んだ。
 ……スーパーマン、か。
(私にとっては、貴方だって)
 貴方のほうが……貴方こそが。
 心の中で思っているだけなのに、そう浮かべるだけで頬が紅潮するのが分かった。
「リィ?」
 不意に放たれた言葉。
 フェレットの瞳はまた閉じていたが、それがゆっくりと開いて。
 そしてリィのほうへと、向けられた。
「記憶のこと……気になるか?」
「どうしたんですか? 急に」
 本当に急だ、とリィは思った。
 アフリカではそんなこと、一度も訊かなかったのに。
「ん。いや……ね」
 声を口にしている最中、二人の視線はずっと互いだけを見ていた。
「かおるさん……隠してただろ、僕らに。昔のことを……」
「ええ」
「アフリカで、色々経験して……それで思ったんだ。あの人が過去のことを喋らなかったのは……隠したくなるほど、忌まわしい過去だったから……じゃなくて。本当に大事な、大事な日々だったから、だって。だから大切に、そっと閉まっておきたかったのかなって、思ったんだ」
 ゆっくりとだが、フェレットは確かな意思をもって言葉を連ねていった。
 リィはそれに頷くことも出来ず、ただ聞いている。
「本当に大切なものほど、迂闊に人には言えなくなるもんだ。君は暫く、自分の記憶のことを何も口に出さなかった。……僕がかおるさんを追おうとして君に呼び止められた、あの時までは」
 それもまたアフリカの、ルアンダの町外れでの出来事だ。
 かおるを追おうとするフェレットのことをリィは強引に捕まえて、そして心からの声を彼にぶつけた。
 直接記憶のことに関して台詞を口にした訳ではないが、しかし。
 フェレットはふうと音をさせて、大きく息を吐いた。
「記憶は戻りそうなのか?」
「今はまだ……分かりません」
 ようやく、絡んでいた二人の視線が外れる。
 リィはただ下だけを向いてしまった。
「けど少しずつ、何かが変わってきている気がするんです。私はそのことをもっと知りたいけれど、でも、恐くて……」
「リィ」
 再び名前を呼びかける声。
 それはリィの言葉を止めた。
「僕が、絶対に君の記憶を戻させてやるからな」
「フェレさん……」
「恐いかもしれないけど……恐さも、僕と分けよう。そうして一緒に味わおう。そしたら、少しは恐くなくなるだろ」
 ああ、何故だろうか。
 どうしてこの人は不意にこんなことを口にするのだろう。
 誰も入って来れないと思っていた、心の底に優しく触れてくれるのだろう。
 リィはその瞳から、涙が溢れていることに気が付かなかった。
「それで……それで、さ」
「はい」
「何もかもが判って……それでも君がまだ、僕と一緒に居ようって思えていたなら。――その時は、僕と」
 どきり――。
 その言葉は、リィの心臓を弾ませた。
 まずそうなってから、彼女はようやく言葉の意味を把握した。
 彼が何を言おうとしているのかを理解して……そして、その続きを待った。
 それなのに、続かない。
 数秒も待ったけれど、彼は何も言わなかった。
「フェレ、さん……?」
 逸らしていた視線を再び戻すと、フェレットはもう眠りについていた。
 振りをしているのかとも思ったが、一瞬にして寝息を掻きはじめている。
「しっ、信じられない。人間、そんなタイミングで眠ってしまえるものなの……?」
 愕然とするリィ。
 再び、どっと疲れが沸いてくる。
 けれど彼女は今、幸せ心地でいられていた。
 疲れと幸せが同居する、変な気分。
「ありがとう、フェレさん」
 眠っている青年の髪を撫でて、そう口にする。
「でも、今はまだ……。だからもう一度言って欲しい。私が何もかもを思い出した、その時に」
 大丈夫だ、私は。
 私の知らない私がどんなに恐ろしく、忌まわしい存在だとしても。
 この人を愛する気持ちだけは絶対に変わらないと、そう誓える。
 ――ああ、なんて幸せな日。
 幸せな時間を過ごしているのだろう。
 この瞬間のこの気持ちを、きっと私は一生忘れはしない。
「ありがとう。フェレさん……」
 言葉をもう一度口にして、彼女は泣き続けた。
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  1. 2006/01/03(火) 03:04:14|
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  4. | コメント:2
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初めまして

どうもはじめまして。実はポータルサイトというもの自体利用したためしがさっぱりありませんでして、いまいち内容を掴みかねております。これからじっくり見させてもらおうと思っております。こちらからもリンクさせていただきましたので、よろしくお願いしますね。
  1. 2006/01/10(火) 22:50:11 |
  2. URL |
  3. フェレット #-
  4. [ 編集]

リンクさせてもらいましたー

初めまして、Euros鯖でプレイしているSparksMonkeyと申します。

私が運営しているオンラインゲームポータルサイト内でこちらのHPがリンクとして登録されましたので、ご報告させていただきます。

もしよろしければ、相互していただければありがたいのですが、如何でしょうか。

当サイトのURLは http://tacomon.com/ になります。
是非一度お越しくださいませ^^
  1. 2006/01/10(火) 01:16:26 |
  2. URL |
  3. SparksMonkey #SFo5/nok
  4. [ 編集]

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