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航海タイム

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第十七章 憧憬ふたつ(後編)

5

「それじゃあな。悪かったな、遊んでたとこの邪魔しちゃって」
 四人でわいわいと走っていく子供達に、フェレットは手を振りながら言った。
 その言葉も通じてはいないだろうが、彼らも手を振ってくれている。
 全てが片付いたらもう一度彼らに話しかけてみようと、フェレットはそんなことを思うのだった。
 直ぐに思考を切り替えて、セルマのほうへと視線を落とす。
「君にも、お世話になったね。見たところ白人みたいだけど、この辺りの言葉を話せるなんて凄いな」
「……話せないのに、なんでここにいるの?」
 少女の純粋な言葉はしかし、槍のような鋭さでフェレットを突いた。
 彼女の言うことはもっともだが、少しやるせない。
「仕方無いだろ。僕はスペイン人なんだ……」
 フェレットはそうぼやいて、肩を竦めた。
 そうした後、少し考える。
 自分達が人探しをしているということを、あまりべらべら言いふらす訳にはいかない。
 だが、この少女になら話しても大丈夫だろうか。
 何より自分がまともに会話出来るのは多分、この少女くらいしかいないのだ。
「フェレさーん!」
 そんな悩みを吹き飛ばすかのような清々しい声が、後ろから響いてきた。
 続いてぞろぞろと足音が鳴り渡り、たくさんの人間がこちらへと歩いてきたのだ。
「アイさん、それにリィも。そうか、皆無事だったんだな」
 フェレットは素直な声をアイへと向けて放ったが、彼女の方は渋い顔つきをしている。
「皆無事だったって……私達は今まで出航所で手続きをしてたんだから、当然よ。フェレさんこそ、言葉の壁にぶつかって泣いているんじゃないかと心配してたわ」
「どうしてわかったんです?」
「出航所の方が、西アフリカ諸語を使ってたから。そう言えばフェレさんは喋れないんじゃないかなぁと思って」
「成る程」
 フェレットは感心してぽんと手を打った。
 とは言え、本来ヨーロッパに住む者が西アフリカ諸語を知っていることはまずないのだ。
 数ヶ国の言葉に精通しているアイはともかくとしても、船団の中でも西アフリカ諸語を話せるものは殆どいないのであった。
「まともに話せるのは私と、後はルーファちゃん、カリタスさんくらいね。これから色々と大変だわ……」
「こんなことなら少しくらい勉強しておくんだったなぁ」
 今更ながらに倫敦での怠惰な半年間を呪ったが、それは大した後悔ではない。
 アフリカにいる最中、アイやルーファ達におんぶにだっこでいようと誓うのであった。
 ふとあることに気付いて、フェレットは小首を傾げる。
「ありゃ? リィも話せないんだっけ?」
「私は……」
 何故だか顔を沈ませているリィを見て、フェレットは不思議に思った。
「ほら何時だったか、君が一体どれだけの言語が話せるのか、試したことがあっただろ。あの時、結構色々な言葉を話してた気がするけど」
「はい……。多分、私も話せると思います……」
「えっ?」
 横で聞いていたアイがきょとんとする。
「なんだ、リィちゃんったら。話せるんだったら謙遜しないで言ってくれれば良いのに……」
「えぇ、別に謙遜した訳じゃぁ無いんですけど……」
 自分は西アフリカ諸語を耳にした覚えがあって、幾らかは喋ることが出来る。
 リィはそう気付いていたが、英語やスペイン語に比べると、解らない単語が多いことにも気付いていた。
 だから黙っていたのではない。
 何故自分がこの辺りの言葉を話せるのか、改めて考えると不思議で――怖くてならなかったのだ。
「あの、あたし、戻らないと……」
  気弱な声が何処からか吐かれた。
 それはリィのものではなく、セルマの声だ。
 突如現れた大勢の人間を前にして、圧倒されているようである。
「大丈夫だよ。皆僕の仲間だから」
 踵を返そうとしていたセルマの腕を、がっと掴んだ。
 思いのほか力が入ってしまい、すぐにその手を離したが……。
「あ、ごめん」
 セルマは少し怯えた表情になっており、フェレットは素直に謝罪をする。
「……でも、どうしても君に一つだけ、訊きたいことがあるんだ。もう少しだけ付き合って貰えないかな」
「訊きたいことって?」
「僕ら、人を探して此処まで来たんだ。僕らの船にずっと乗ってた人が突然いなくなっちゃってね。で、ルアンダにいるって聞いたからここまでやって来たんだよ」
「なんて人なの?」
「かおるさん、って言うんだ」
 フェレットは躊躇うことなく言った。
 当然だ。
 その名前がセルマをどれだけ驚かせるのか、彼は知らない。
 まだ何処かに疑いのあったセルマの顔が、春風を帯びたようにぱっと明るくなった。
「かおるさんのこと、知ってるのっ!?」
 今度は両手を思いっきり握られて、フェレットのほうがたじたじとなった。
「あたし、かおるさんと一緒に暮らしてるんだよ。毎日すっごく楽しそうにしてるよ、かおるさん」
「一緒に暮らしてるっ!?」
 フェレットもまた意識せずして大声を上げた。
 予期できぬ言葉を聞き、耳を疑うことさえ出来なかったのだ。
「じゃ……じゃあ、やっぱりここに住んでるのか! 何処に、何処にいるんだ?」
 フェレットはセルマの手を握り返した。
 セルマが顔をしかめる程、力が篭っていて、今度はそれを離す様子もない。
「……今、休憩所に来てるの。かおるさんもみんなも休憩所にいるよ」
「案内してくれないか!」
「うん、いいけど、でも……」
「でも?」
 勢いが止まらないフェレット、既に足は歩き始めようとしている。
 しかしセルマは対照的だ。
 春風のようだった笑顔は曇り空に覆い隠されて、その暖かさを失っていた。
 一旦承諾はしたものの、その胸の内に躊躇いの気持ちが生まれていた。
「かおるさんのこと、連れてっちゃったりしないよね……?」
「え……」
 逸る気持ち、心の中に混在する幾つもの思い。
 セルマの一声だけで、それらが一瞬、無に帰った。
 フェレット達一行は顔を見合わせた。誰もが同じことを思っていた。
 ――連れて行ったりしないよね?
 何故そんなことを問うんだ?
「ねぇ、連れて行かないよね?」
 連れて行くよ、連れて行くに決まってる。
 その為に僕らは長い時間をかけて此処まで来たんだ。
 ……さっきこの子はかおるさんと一緒に暮らしていると言った。
 どうしてだ?
 かおるさんはどうして僕らの処から去って、この子達と一緒に?
 脳の中をまた、不安が渦のようになって回り始めた。
「……案内してあげる。けど、かおるさんはあたし達の家族だよ。連れて行かないでよ、絶対」
 この子がどれだけかおるさんのことを大切に思っているのか、少ない会話の中でも簡単に掴み取れた。
 だからフェレットは返事を言えなくて、無言で小さく頷くことしか出来なかったのだ。
(連れて行くよ)
 その頷きも決して本心からではないと、知りつつも。

 出航所から休憩所まで、歩いてそう時間はかからない。
 セルマの案内で、フェレットとアイ、そしてリィの三人は逸る気持ちを抑えながら歩いていた。
 他の船員達は出航所の付近に残ったまま。
 久々の再会だからと、無理を言って遠慮してもらったのだ。
 元々かおるの船であった”永久機関”の船員達には散々渋られたが、今回ばかりは譲れない。
「私も付いてきちゃって良かったんでしょうか……?」
 皆より少し後ろを歩いていたリィ、心配そうにそう問いかけた。
「フェレさんとアイさんに比べたらかおるさんとの付き合いも浅いし、私より”永久機関”のみんなのほうが……」
「良いんだよ!」
 フェレットは少し足を止め、リィが自分の横に並んだ所で、いきなり彼女の肩をがっと抱きかかえた。
 そのまま右手で、彼女の金色の髪を弄くる。
 突然のことにリィはぽっと顔を赤らめ、アイは何時ものこと、と流している。
 セルマは気付いていながら、敢えて見ないようにしていた。
「かおるさんに報告しなきゃいけないことがあるだろう、僕らは。なっ?」
「はい……」
 満面の笑顔を投げ掛けてくるフェレットに対して、リィは恥ずかしそうに目を逸らしている。
 二つの顔は今にもくっついてしまいそうなほど、近くにあるのに。
「まあ報告してもどうせ『おう』とか『そうか』とか、無愛想な一言で済まされそうな気もするけどさ。でも」
 心の底ではきっと喜んでくれる。あの人はそんな人なんだ。
 言葉を聞いていたアイも、心の中で静かに頷きをした。
 そしてまた、足音が数回響き渡る。
 他人に見られてやしないだろうかと、リィはきょろきょろとしていた。
 今更恥ずかしがることでもないだろう、とフェレットの視線はそう言っているが、やはり彼ほど明け透けにはなれそうもない。
「……そうかぁ、かおるさんは知らないんですよね。なんか意外だなぁ……」
 そう言うと、リィは照れ笑いを浮かべた。
 まだ、フェレットの腕は肩に回ったままだ。
 セルマは相変わらず見ない振りをしていたが、彼ら二人の姿はしつこく視線に飛び込んで来る。
 先導していて彼らは後ろにいるはずなのに、現れたり消えたりする。
 考えないようにしていたはずなのに、やがて”うらやましいな”とそんな思いが浮かんだ。
 自分にはまだ早いかもしれないけど、でもうらやましい。
 セルマが想像する図――彼女の隣には勿論かおるがいる。
 かおるが自分の肩に手を回して……と、とても有り得ない光景が浮かんでくる。
 今までに感じたことのないくすぐったい気持ちを覚えて、セルマは頬を赤らめ、うつむいた。
(……せめて、あと三年か四年くらい。そうしたら……かおるさん、もうおじさんだけど)
 改めて思い浮かべたその景色には、ほんのちょっと背伸びをした自分と、変わらぬ姿のままのかおるがいた。
 訪れればいいな。
 素直にそう思って、その景色を疑う理由は一つとして無かった。
 それから少し、四人は無言のままで道を歩き。
 夕闇は徐々に黒色によって侵食されて行き、たった数分の間に空は、殆どが黒色で埋め尽くされてしまった。
 そう言えば寝る場所も決まってないな、とふとフェレットが思い始めた頃、只管地面ばかりが続いていた視線の先に、一つの建物が飛び込んできた。
「あそこだよ、休憩所」
 セルマが言うと、フェレット達はその足を止めた。
 無意識に止まってしまって、石のようになって固まった。
(あそこにかおるさんが)
 たったそれだけの思いがまじないのように繰り返し流れて、それが意識を攫っていた。
「待っててね。あたしが先に、かおるさん達に言ってくるから。もしかしたらかおるさんは貴方たちのこと、知らないかもしれないもん」
 そんなことあるか、とフェレットは言いたかったが、子供相手に怒っては大人気無さ過ぎる。
「かおるさん達……って、他に誰がいるんだ?」
「家族だよ。かおるさんの」
 少し無理をした低い声を出し、返事すら聞かずに走っていってしまった。
 たったっと響く足音が消えていくと、短い沈黙がそこに訪れた。
 彼女はかおるさんのことをあんなに慕っている。
 自分達が知らない所で何があったのだろうか……?
「ああ!」
 沈黙をばっさりと断ち切ったのは、リィが突如として放った大声。
 フェレットとアイがびくりと肩を震わせたのは、言うまでもない。
「驚かせるなよ……どうした?」
「あれっ、あれ!」
 リィがフェレットの袖をぐいぐいと引っ張って、何事かとフェレットが振り向くと。
 袖を引っ張っていた手は、今度は休憩所のほうを指差した。
「あそこ……建物の隅っこから、見えてるのって……」
 休憩所の席が並べられている場所から、フェレット達はまだ離れた位置に居る。
 そこに何人が居るのかすら判らないが、建物が隠していない足が一つだけ、向こうにはみ出ていた。
 何処の誰の者かさえわからない足を見ていちいち勘繰るのも妙な話だが、その足は特徴ある靴を履いていたのだ。
 アラビアンシューズ。
 金色の決して良い趣味とは言えないその靴は、つま先が斜めに立っているという特徴ある形をしている。
「あれ……かおるさんが履いてたわよね」
 興奮気味に呟くアイ。
 この辺りで、かおる以外にあの靴を履く人間がいるのだろうか。
 絶対いない、いる訳ない。
 そう、強引に決め付ける。
 ――居るんだ、確かに。
 あそこに、かおるさんが。
 思えば思う程、待ち遠しくなる。
(遅い!)
 セルマが休憩所の方に行ってから一分は経った。
 何かを準備する時間など要らないだろう?
 フェレットなど、足が勝手に半歩程進み出ている。
「待ってないでこのまま行っちゃおうか……?」
 そう提案したところでようやく、セルマがこちらへと戻ってきた。
「お待たせ」
 やって来るなり小声で一言、そう呟くがフェレット達は聞いていない。
 待ちきれないとばかりに進んでいこうとするが、
「待って、待って!」
 セルマが三人の前に進み出て、両手を広げて彼らのことを制止した。
「もういいだろう!」
 耐え切れずにフェレットは声を上げたが、セルマはどこうとしない。
 何故なのか、その意味は直ぐに説明された。
「ごめんね。かおるさん、やっぱりもう、あそこにはいなかったの。他に移動しちゃったって……」
 それはセルマのついた嘘。
 フェレットにはそうとしか思えなかった。
 その証拠に、建物の端から見えているアラビアンシューズは確かにかおるさんのものだ。
「この目で見ないで信じられるか!」
 フェレットはするりとセルマの横を通り抜け、そのまま休憩所のほうへと一歩一歩、重い足音を踏み鳴らしていった。
 アイとリィもそれに続く。
 セルマは制止しきれない。
「ちょっと待ってぇ!」
 彼女がそう叫んだ時には、三人は既に休憩所の直ぐ傍まで到達していた。
 アラビアンシューズを履いた主はまだ、その姿を確認できない。
「かおるさん! いるんでしょ!?」
 怒鳴り声を上げながらフェレットはさらに近づいていった。
 薄暗くなっている建物の奥へと入っていく。
 アラビアンシューズを履いた人間の傍まで、近付いた。
 薄暗闇のせいで寸前まで行かないと姿が確認出来ない。
 確認出来る位置まで、さらに近付いた。
「かおるさん!」
 三人の視線が一斉に、その男を捉えた。
 ――そこにあったのはとにかく胡散臭い顔。
 目は細長く、まるで半分閉じかかっているよう。
 無表情だが、見方によっては薄ら笑いを浮かべている風にも取れる。
 特徴は確かに、かおるのそれとほぼ一致していた。
 しかしたった二つ、あまりに大きな違い。
 顔が異常にでかい。そして、頂点から葉っぱがたくさん生えている。
「……?」
 かおるさんの顔……じゃない。
 違う――初めて見る、人種だ。
 アフリカの、もっと別の世界の人種か?
 その不気味な迫力に圧倒され、リィなどは意識さえ失いそうになった。
 だがそんなごまかしは、たった数秒しか通用しない。
 どんな変てこな顔になっていようとも、全身から醸し出す雰囲気が、あまりにらしすぎた。
 何より纏っている服装が、金色刺繍のドルマンにアラビアンシューズと、かつて行方が知れなくなった時と同じものであった。
「かおるさん……何やってるの? そんなマスク被って……」
 アイがそう、呼びかける。
 かおる、という単語に彼はぴくりと反応をした。
 何ともわかりやすい習性だろうか。
 かおるが居るその席の周囲には、子供達が数人座っているが、今のフェレット達には全く見えていない。
 変てこな仮面を被っているけれど、この人は間違いなくかおるさんなんだ。
 むしろその奇妙ささえ彼らしい。
 三人はただ、その仮面だけをじっくりと見据えていた。
「かおるさん……」
 万感の思いを込めて、アイが呟く。
「ずっと探してたのよ。だって、いきなりいなくなっちゃうんだもの。北海を探して東地中海を探して、それでようやくここまで辿り着いたの。お土産話、たくさんあるのよ」
 仮面に向かって、アイは言葉をたくさん贈った。
 表情のない顔のその奥に、同じくらい表情のない人がいるのだと知っているから。
「フェレさんとリィちゃん、恋人になったのよ。かおるさんがいなくなってから直ぐに、ね。……ねぇ、早く顔を見せてよ」
 溢れ出て行く言葉を抑えられず、言葉が漏れていく。
 フェレットはと言うと、感極まって何も言えなくなっているようだった。
 私はやっぱりお邪魔だったのかも、とリィは思った。
 フェレットとアイ、二人を見ているだけでそう感じずにはいられない。
「かおるさん……」
 こんなに二人は待っていてくれたのに、かおるさんは何で仮面なんか被ってるの?
 どうして何も言わないの?
「……アー……」
 彼らの思いに急かされる様にして。
 奇妙なマスクを被った男は、一言だけ発した。
 一言というかただの奇声、あまりにもそれらしい声。
 こほんと聞こえよがしな咳払いをした。
 そうして、
「ワタシの友人かおるはたったさっき、印度へと向かう船に乗って出かけてったね。だからもうここにはいないから、さっさと彼の行方を追うといいね」
無機質な声で、つらつらとそう言葉を並べた。
 その声がフェレット達を納得させる訳などない。
「何言ってるの、かおるさん」
 アイは笑った。
 温かな笑みは一瞬で氷のような冷たさを帯び、かおるに問いかける。
 確かにあなたは、冗談がドルマンを羽織って二本の足で歩いているような存在だけど。
 こんな時に冗談はやめて。
 そう、彼女の声は言っていた。
「ワタシはかおるではない。印度出身のトンドル・ズラトゥコフ二世だよ。」
 反復運動の如く、言葉は同じ響きをもって繰り返された。
 つこうとする嘘とは裏腹に、会話はさっきから全て英語で行われている。
「かおるさん……?」
 数年間も待ち望んでいたその思いは段々と行き場を見失い始めて、少しずつ、それは腹立たしさへと変わっていく。
「かおるさん、変な嘘はよして下さいよ。どっから見てもかおるさんだって、バレバレなんだからさ」
 フェレットが震えた声で言う。
「かおる氏はもう、ここにはいない」
 なおも返事は変わらない。
「いい加減にしてください。皆待ってたんだから、これ以上じらしても何も面白いことなんか無いよ」
 僕らが抱いているこの思い、わからないのか。
 ……二年近くもの間、僕らがどれだけ貴方のことを探したか。
 どれだけ苦労したか。
 フェレットはやがてそう、思いを押し付け始めた。
 彼じゃなくてもきっとそうしたであろう。
「ワタシは」
 だが、その珍妙なマスクから吐かれた言葉は変わらずに、寂しいもので。
 それでいて、別の人間へと向けられた暖かさを抱いていた。
 フェレット達が眼前にいるというのに、彼の視線は他所を向いたのだ。
 仮面に覆われた瞳が見つめるのは、アスナ達少年少女の姿。
「――私は、この子供達の親だ。君達の知っている男とは、違う」
 決定的な言葉だった。
 最も言って欲しくない、聞きたくない言葉を吐いたのだ。
 その声が、ずっと堪えていたフェレットの何かを寸断した。
「馬鹿なことを!!」
 椅子に座っていたマスク男の胸倉を、フェレットは強引に掴み上げた。
 殆ど無抵抗のまま、男は中空にぶら下げられる。
「違う訳ない! そんなことすら判らないほど、あんたのことを気にしてないとでも思ってたのかよ!」
 睨み付ける男の顔はただ無表情。
 それすら腹立たしくてならない。
「まだっ、旅してないところが幾つも有るでしょう! こんな子供達なんて知るかよ、あんたは僕と一緒に旅をしてたかおるさんだろ! ねぇ、そうでしょう!?」
「フェレさん、やめて!」
「カリブにも行こうって言ってたでしょ、宝の地図がたっくさん溜まってるんだから!」
「フェレさん……」
 リィが声を上げて制止するが、止まらない。
 フェレットは今にも殴りかかりそうな勢いで、凄まじい形相で仮面の男を睨み付けている。
 怒りと、それ以上の悲しみをその瞳に秘めて。
「僕らが……僕らが、どんな思いをしてここまで来たと……」
 声は、そこまでで止まった。
 それは今まで一言も発していなかった少年による仕業だ。
 言葉で止めたのではなく、強引に力で。
「ぐぁあっ!?」
 フェレットの後頭部に向けて、その少年はいきなり飛び蹴りをお見舞いしたのだ。
 子供の力とは言え予期できぬ攻撃を受けて、フェレットは地面に転がった。
 マスク男もまた、同じように転がるが、直ぐに立ち上がる。
 寸分遅れてフェレットも立とうとしたが、そこにさらにもう一撃、少年の蹴りが叩き込まれた。
「何しやがる!」
 所詮子供の力だ、痛みは殆どない。
 フェレットは立ち上がるなり、今度は少年に食ってかかった。
「かおるさんは俺達の親なんだ! お前みたいなオカマ野郎とは知り合いでも何でもないんだ!」
 さらに何度も蹴りを入れてくるが、フェレットはもうそっちは気にしなかった。
「親だと?」
「ああっ親だよ! 俺達みんな、赤ん坊の頃からかおるさんに面倒見て貰ってたんだ!」
 ――赤ん坊の頃からだって?
 僕達より……長い付き合いだってのか?
 いきなり現実世界に戻されたようになって、フェレットははっと周囲を見回した。
 セルマもこの少年も、十代前半であることは間違いない。
 この子らが赤子の頃から、かおるさんが世話していたって……?
 子供が好きか嫌いかはよく解らないけど、他人の面倒なんて絶対に見れなさそうな、あの人が。
「お前らなんか、かおるさんがたまたま気まぐれで付き合ってやってただけなんだよ。それを勝手に勘違いしやがって……。連れ戻しに来たのか何だか知らないけど、ここが本来のかおるさんの居場所なんだ! わかったらさっさと帰れよぉ!」
 思いは混乱し、混沌の渦へと吸い込まれていく。
 耐え切れず、フェレットの思考はただ逆上することを選んだ。
「このガキ、言わせておけば!」
 フェレットが少年に殴りかかろうとするのを見て、リィは咄嗟にフェレットの背中に飛びついた。
「やめてっ、フェレさん!」
「離せ、リィ!」
 彼のことを羽交い絞めにして、何とか動けなくさせる。
 すかさずアイが割って入り、フェレットの姿を完全に遮った。
「……ねぇ、マテウスもやめて。やめてよぅ……」
 涙に侵されたセルマの声、それがマテウスの動きをも止める。
 その場にいたマテウス以外の子供達はずっと、動くことも出来ずに怖がっていた。
 セルマはずっと泣きじゃくっていて、彼女の傍に居た穏やかそうな顔をした少年も、同じように涙で顔を腫らしていた。
 彼らはただ眼前の光景が怖くて堪らなかったのだろう。
 かおるを除けば最年長の少女、アスナはもまた怯えて立ち尽くしていたが、彼女の思惑はセルマ達とは違った。
 もしかしたらこの人達が、かおるさんを連れて行ってしまうかもしれない。
 ――私達の、かおるさんの大切な居場所を、取り去ってしまうかもしれない。
 彼女はただそれを恐れ、言いようのない悪寒に囚われていた。
(家族…家族だって? この子供達が。僕らじゃなく?)
 フェレットはまだ、その光景の何もかもが信じられずにいた。
 かおるが子供達と一緒にこの町にいると、そう知らされていたはずなのに。
(かおるさんは僕らと会うより前からこの子達を知っていて……僕等より大事なのか? この子達が……)
 そんなこと、認められるものか。
 僕達の旅にはかおるさんが必要なんだ。
 かおるさんがいて、アイさんがいて、みんながいて。
 直ぐ傍らに、リィがいる。
 一つでさえ欠かすことが出来ない、幸せの光景なんだ。
 ……何を言えばいい? 何を言えばこの子達が納得してくれて……かおるさんが船団に戻ってくるのだ?
「かおるさん」
 フェレットを思いを遮って、アイがそう呼び掛ける。
 彼女は何処か落ち着き払っていて、フェレットにはそれが、望みを諦めたかのような顔に映った。
「私達と一緒に来れないの? フェレさんも私もリィちゃんも、ずっとそれだけを待ち望んでたんだよ」
「ワタシはかおるではなく、トンデル・ズラヌコフ三世だよ」
 全く的外れのようなその返事。
 だがそれを聞いて、怒る人間はもう誰もいなかった。
 ただ悲しみを湛えている。
 訣別の意味を含んだ言葉だと、そう受け取るしかなかった。
 今の彼にとって何より大切なもの、それは私達ではなく、この子達なのだと。
 そう、判断するしかなかった。
「行こう、フェレさん。リィちゃん」
「アイさん……」
 アイの声は至って平然としたままなのに、フェレットには叙情の旋律のように物哀しく響いた。
 抑えているのだ、彼女も。
 際限なく溢れ出る感情を、言葉を。
 フェレットはそう思って、その思いは悲しみをさらに倍増させた。
 ”どうしようもない”と言い訳して、全て封じ込めている。
「……セルマちゃん、世話になったな。……ごめんな、邪魔しちゃって」
 フェレットは小さな声でそう、自分達をここまで案内してくれた少女に謝った。
 あたしこそ、ごめん。
 そう、か細い声が返ってくる。
 白い雪のような色をした顔を、真っ赤に泣き腫らして。
(こんな子供を泣かせてしまって、僕は何をやってる。何をやってるんだ……?)
 フェレットは俯いて、正面を見ることが出来なかった。
 彼等が一悶着起こしたせいで、賑わっていた休憩所内はすっかり静まり返っている。
「……ねぇ、かおるさん」
 去り際にもう一度、アイは諦め切れずに仲間の名前を呼んだ。
「私達、あと五日位したらケープに行くわ。そこで海賊達と戦わなきゃいけないの。……あと五日、ここにいる」
 気が変わったら来て。
 変わらなかったとしても――せめて、会いに来て。
 静かにそう言い残し、彼らはもう、そこから去るしかなかった。

6

 それから一日が経って、またルアンダの町に夜が降ってきた。
 エメラルドの海に静かに揺られる船の中に、船員の大半は戻って来ていて、それぞれの時間を過ごしている。
 数年間も掲げてきた目標が無くなってしまったのだ。
 彼等は折れた矢のように地面に突き刺さって、そこから動けずにいた。
 フェレットやアイ達はともかくとしても”永久機関”の船員達は話を聞かされただけで収まるはずがなく。
 フェレット達から事情を聞くと直ぐ、彼等は一斉に休憩所へと向かった。
 だが、かおると子供達の姿は既にそこから消えていたのだ。
 その後も必死にルアンダの町を探したけれど、彼等の姿はもう、完全に消えて無くなっていた。
(何でだよ……)
 船室に備え付けられているベッドに寝そべり、フェレットは呆けて天井を見上げていた。
 時々ごろりと寝返りをうったりしながら、もう数時間もそうして意識を保っている。
「船長、気晴らしに町へ行きませんか? ずっと暗い部屋にいるだけじゃ、体を悪くしてしまいますわ」
 途中”フォスベリー”の副官ロッティーナがそうして誘いに来た が、”だるいからいい”という簡潔で怠惰な理由で断ってしまい。
 ロッティーナは溜息をついた後、独りでルアンダへと行ってしまった。
 それから、誰も船室を訪れることはなく。
 暗い部屋で孤独に物事を考えて、それが良い方向に行くことなど有り得なかった。
(かおるさんは元々、あの子達と一緒にいたんだ。それが何かのキッカケで離れ離れになってしまったとかで、たまたま僕と出会ったから時間つなぎとして僕らと一緒にいた。たったそれだけの話だったのか。かおるさんは僕らのことを騙してたのか……?)
 それが事実だったとしても、彼が騙していたということにはならない。
 解っているけれど、裏切られた気持ちになる。
(にしても、誰も来ないな)
 そりゃあ今この部屋を誰が訪れようとも、何も話すことなんかないし、誰に慰められようとも心が安らぎはしないだろう。
 そう知りつつも、この孤独さが腹立たしくて仕方が無かった。
 広き世界、果て無き大海原のその全てに拒絶されたような気さえする。
 そんな独りぼっちの場所に長く居たが、やがてかちゃりと音がして、ドアが開かれた。
 控えめな歩みで姿を現したのは、長い髪をした女性。
「なんだいリィ、遅かったなあ。待ってたんだよ、ずっと」
 機嫌悪げに、じゃれつくような声をフェレットは放った。
 失策だったと直ぐに気付いたが、もう訂正は出来ない。
「リィさんじゃなくて悪かったわね」
 確かに髪の毛はリィと同じくらい長いが、鮮やかな金色ではなく、茶色い。
「ゲッ……ルーファ、さん」
「今『ゲッ』って言ったかしら?」
「んや、息が喉に詰まっただけだよ」
 かなりの驚きだったらしく、フェレットはごほごほと咳を繰り返した。
「どうしてルーファさんが此処に……」
 もしかして慰めに来てくれたとか? と、フェレットは虫の羽音みたいな声で続けた。
「私に慰められて、それで立ち直ってくれるんならそうするわね」
 鋭い切れ味をした返事が来ると思っていたのに、ルーファの声は予想よりずっと優しいものだった。
 ずっと強張っていたフェレットの表情が、少しだけ和らいだ。
 しかしそうじゃなかったら何の用で来たのだろう?
 思い当たる節は、たった一つ。
「っもしかして、かおるさんが来たとか?」
「ええ。ただしかおるさんじゃなくて、かおるさんの知り合いがいらしたの」
「知り合いって……」
 ベッドから半身を起こしていたフェレットだったが、その声を境にまた仰向けになって転がった。
「本人は来ないのか。せめて一言くらい、謝るなり何なりしに来れば良いのに」
 機嫌の悪さに任せてフェレットは言う。
「まだわからないわ。とにかく、貴方に会いに来てるそうだから、行って上げて」
「……どうせ子供達でしょ? 案内してくれた女の子か、或いは僕を蹴り飛ばしたガキが謝りに来たか、どっちか」
「四十歳位のおじさんと、二十歳前くらいの綺麗な女の子だったわよ?」
「……あの子らとは別か」
 その組み合わせに魅力を感じたわけではないが、フェレットはなんとなく、出て行くことにした。

 夜風に吹かれながら立っている二人を見て、血縁関係があると思うものはまずいないだろう。
 年齢的には親子程も離れているとは言え、一目見てあまりに似ていない部分が多すぎる。
「クライドさん、わざわざありがとうね。来てくれて」
 小麦色の肌をした少女アスナ。
 その姿には健康的な美、ガラスの様な繊細さが同居している。
 対するクライドはと言えば、四方八方何処から切り取ってみても”美”の欠片もない。
 熊のような姿としか形容できない男のその顔には、黒色の火傷痕が刻まれていた。
「俺しかいねぇってしつこく言われちゃ、断れねえよ。ガキどもは来たがらねぇし、かおるの奴ぁここ数日、あのいかれたマスクを被ったままなんだろ?」
「うん……」
「ついに気を違えたな、あのアホは」
「そんなこと言わないで。きっと辛いんだ、かおるさん」
「ふん」
 相変わらず、強く見せておいて弱い男だぜ。
 クライドはそう、心の中で舌打ちをした。
「で、なんて言う気なんだ? あいつの昔のお仲間とやらによ」
「それは、言えない……」
 アスナは弱々しい声音で言った。
「ま、俺は口出しはしねぇよ。お前らの御家事情はお前らで解決するんだな」
 言うとクライドは、居心地悪そうに巨躯を揺すった。
「にしても遅えな。連れて来るって言ったっきり、もう二十分は待たされてるが」
 二人の眼前には、数隻の船が連なって並んでいる。
 その内の一隻からようやく数人の人間が姿を現し、そしてこちらへと走ってきた。
 一人はさっきここにいた船員で、もう一人は、
「あ! あの人だわ……」
青を基調とした服装、緑色の長い髪。
 この間かおるさんに会いに来た人の内の一人だ。
 彼等がやって来たのより少しだけ遅れて、また他の船からも人がやって来る。
 しかしとりあえず、アスナ達の視線は眼前の二人へと向いていた。
「……君は、確か」
 ちゃんとした挨拶をするのも忘れて、緑色の髪をした男、フェレットは真顔でアスナを見やった。
 ――かおるさんと一緒にいた子か。
 子供だと思っていたけれど、よく見れば僕らとそう変わらない。
「あの時は迷惑を掛けちゃって、悪かったね。その、興奮してたもんでつい……」
「もう、いいんです。こっちも失礼なことをしてしまいましたから」
 アスナは頭を下げて、釣られるようにしてフェレットも下げた。
 クライドはわざとらしくそっぽを向いている。
 場が静まり返って、さて何を話そうかと言う時に、割り込んでくる声があった。
「あら、フェレさん。ようやく出てくる気になったのね」
 別の方角から聞こえてきた声、それはアイのものだ。
 彼女の隣にはパングとリィの二人もいる。
 最初アスナ達が訊ねてきた時にはパングとルーファの二人だけが船の前にいて、フェレット達を呼んできてもらうよう彼等に頼んだのだ。
「リィ……アイさんとこの船にいたのか」
 先に声を掛けたのに返事を貰えず、アイは少しむっとした顔になったが、フェレットはそれすら見ていない。
「はい。かおるさんの御知り合いの方が来ているってパングさんから聞いて……」
「そう言う事っす」
 パングは何故だか得意げに口にした。
 そのまま居座って話を聞くつもりでいたが、
「込み入った話になりそうだから、私達は中に入ってるわね。ほら、行くわよパング」
ルーファに首根っこを掴まれて、それは無理そうだと察した。
「……んじゃ、そう言う事っすから」
「うん。ルーファさん、色々ありがとう」
 既に姿が遠ざかっている二人に向かい、フェレットが声を投げ掛ける。
「早く元気出しなよ」
 ルーファはそれだけ言い、去って行った。
 何気ないそんなやり取りが、アスナの胸をきつく締め付ける。
 ――ようやく、その場には当事者だけが残された。
「さて、僕等には訊きたいことが色々ある。けど、まずは君らがどうしてここに来たのかを教えてくれないか」
 フェレットは何もかもを知りたいとは思っていなかった。
 かおるさんがこの人達とどんな風にして知り合い、どんな風にして時を過ごしていたのか。
 そんなこと、聞きたくない。
 知ったところでどうにもならないし、辛い思いをするだけだと解っているから。
「私がここに来たのは……貴方達に、言おうとしていたことがあったからです」
 何故だ?
 そう言ったこの少女の顔が、苦しそうに、哀しそうに歪んでいる。
 フェレットは生唾を飲み込んだ。
「……私、アスナって言います。フェレットさん、ですよね。隣にいるお二人はリィさんとアイさん」
「ああ。かおるさんから聞いたのか?」
「いえ」
 きっぱりとアスナは言った。
「かおるさんは貴方達のこと、一言も口にしていません。あれから家に帰って、何時も通りに暮らしています」
「じゃあどうして知ってるんだ……?」
「休憩所でそう名前を呼び合っているのを、聞きましたから」
「ああ、そう」
 吹いてくる風が冷たく感じる。
 ザザザッ。
 音を立てて木々が揺れて、静かに波音が響く。
「かおるさんは……私達と一緒に暮らし始めてから、毎日本当に楽しそうにしてます。もう一年以上も、そうなんです」
 一年以上。
 あの時ベルゲンで姿を消して、それからずっとと言うことか……?
「それなのに、この間貴方達と会ったとき……かおるさん、本当に辛そうだった。辛かったから、貴方達のこと知らない振りをしたんです。自分はかおるじゃないって、そう、言い張って」
「……何が言いたい?」
 アスナはずっと躊躇いがちに、俯いて地面だけを見ていた。
 こんなことを言ったら彼等は怒るに違いない。
 そう思っても言葉は滝のように流れ出して、止まらなかった。
「お願いします、もう二度とあの人に会わないでください。あの人は私や子供達の支えなんです。あの人を連れて行かないでください、お願いします。お願いします」
 アスナはそう、繰り返し懇願した。
 途中から言葉には涙が交じり、ぐすり、ぐすりと音を立てながら、何度も。
 誰もが返す言葉を失った。
 クライドは相変わらずそっぽを向いたままで、フェレット達はアスナのほうを向いているけれど、何も言えない。
 皆、もどかしさだけを感じながらそこにいた。
(……あの人は、何をしてるんだよ。……ったく)
 フェレットは目を閉じた。
(女の子に、こんなに涙を流させて。まるで僕らが人攫いか何かみたいじゃないかよ。これじゃあ)
 男にしては長い睫毛が肌へと影を落とし、それがゆらゆらと震えている。
 こんなに嘆願されて、何を言えば良い?
 どうあっても、悪者になってしまうのはこちらだ。
 ……この少女からも、あのセルマという女の子からも、残る数人の子供達からも、僕は悪者に映ってるんだろう。
 かおるさんも、そんな風に僕達のことを見ているのだろうか。
「わかったよ」
 何かに突き動かされるようにして、フェレットは言った。
 この場で非情にはなれない。
 僕らが去ればそれで済むことなのだと、すっきりした面持ちになって。
「五日後と言わず、今直ぐにでもここを出てく。どうせもうこんな場所には何の用も無いんだ」
 怒鳴られるのではないかと思っていたアスナ、ただ呆気に取られてフェレットを眺めた。
「つまりあの人には、僕らの船団より大事な場所があったってことなんだろ? それだけ解ったから、もういいよ」
 そうだ、そう認めてしまえば楽になれる。
 自分もかおるさんも、この子達も。
 フェレットはさっと踵を返した。
 さっさとここからいなくなって、全部忘れてしまおうと思って。
 そうして歩いて行った。
 自分の船ではなく、砂浜のほうへゆっくりと。
 ずっと無言でやり取りを聞いていたアイ、彼女も同じようにして砂浜へと歩いて行った。
(フェレさん……)
 リィだけがその場に取り残されて、どうして良いのかわからなくなって佇む。
 再び静まり返ったその場で、アスナは顔を上げると、クライドのほうに向き直った。
「行こ……クライドさん」
「ああ」
 アスナはリィに向けてぺこりと一礼し、ゆっくりと、その場を去って行った。
 クライドも彼女の後ろに続いていたが、途中何かを思い出したように、ぴたりと足を止める。
「アスナ、俺はちょっとした用を思い出した。大したことじゃねぇから先に町の出口の辺りまで行ってろ。直ぐ追う」
「……? わかった」
 この場においてどんな用事を思い出したと言うのか。
 アスナは疑わしく思ったが、彼のことを信用して帰って行った。
 クライドとリィの二人だけが、夜空だけに見守られてそこにいる。
「あんた、名前はリィと言ったか」
「……はい」
 私達が知らないかおるさんのことを、伝えてくれるのだろうか。
 リィはそう一縷の希望を抱いていた。
 何もかもがうまく繋がって、またみんなが幸せで居られるような。
 そんな魔法を、この人が掛けてくれるのではないかと思っていた。
 だが、違った。
 言うなれば、彼が知っているのは魔法を解くその方法。
「あんたは今、幸せか?」
 全く予期できぬ言葉を投げ掛けられて、リィは呆然とした。
 私は今幸せなのか?
 考えるまでもなく、答えは出る。
「かおるさんが居てくれたら、本当に心から幸せだと思えます。きっと」
「あいつが居なきゃ不幸せか? それこそ死にたくなるくらい不幸だと思ってるか?」
 どうしてこの人はこんなことを訊くんだろう。
 不思議に思いながらも、言われるがままにリィは答えた。
「一つ、大事なものが欠けてるとは思うけれど……。それでも、幸せです。どうしてそんなことを訊かれるのですか?」
 リィのことを見下ろすその黒い瞳に、微かな憐憫が揺れていた。
 辺りは暗闇に包まれていて、彼女はそれに気付かない。
「いや、ならいい。手間取らせて悪かったな」
 リィが忙しく瞬きをしている中、クライドは向きを変えて、そしてゆっくりと歩みを始める。
 ……何も知らねぇ、か。
 もしやとは思ったが。
 振り向きざま、その表情は刃のように鋭いものへと変わった。
(あのバカ、何故教えねぇでいた? 面倒臭かったのか、あいつも覚えてなかったのか、どっちだ)
 どちらも同程度の確率で有り得る、とクライドは思った。
 そのまま居なくなるつもりでいたようだが、気まぐれか、最後に一言だけ言葉を残す。
「あんたの中にある未知の部分を、無理に求めようとするな。今を大切に生きろよ、お嬢ちゃん」
 ようやくリィは気付く。
 この男の言葉が何を指しているのか――。
 ”今”があれば、その以前には”過去”が存在し、そこには未踏の場所である”未来”も存在する。
 けれど、”未来”は考えたってどうにもならないことだ。
 自分が立っているこの風景こそが”今”。
 それでいて、心は失われた”過去”を求めてやもうとしない。
「もしかして、貴方は私の過去を!」
「ちったぁな。けど、教えねえぞ。俺は生きてる人間に恨まれるのはゴメンだからな」
(恨まれる……ですって?)
 何故、恨むことになると言うの?
 リィはその意味を判りかねた。
 元々の白面から、さらに色が失われていく。
「世の中、知らねぇ方が良いことって有るもんだぜ。知らねぇで幸せでいられるんなら、それで良いじゃねえか」
(待って!)
 リィの声は、喉から外に出て行こうとはしなかった。
 無理に問い詰めれば、彼はもしかしたら洗い浚い話してくれるかもしれない。
 けれど、真実に近づくのが怖かった。
 クライドが去っていくのを、追うことが出来なかった。
(フェレさん、アイさん、みんな。私はどうしたら)
 真実を知ることによって失われる幸せなら、何も知らない振りをして、幸せに浸っていたい……。
 大切な人達と、幸せなままでずうっと一緒に居たい。
 幾つも浮かび上がってくる、幸せの風景。
 この身体に残った、大切な人の温もり。
 このままずっとここにいて。
 私から去って行かないで。
 そう、強く願った。
(ずっと一緒に居たいよ、フェレさん)
 誰もいなくなったその場で、リィは襲い来る不安に身を震わせていた。
 夜に吹く風は不穏な気配を孕み始め、冷たくなろうとしていた。


 背後に広がる景色はずっと後ろ髪を引いている。
 ――振り返ればまた裏切るのだろう?
 だからもう、振り返るものか。
 たった二日で見た、アフリカの、ルアンダの景色。
 そこには北海や地中海にあったような豪華な装飾は無いけれど。
 日々の生活にいそしむ、堅実な人々の生活の風景があった。
 もっと間近で見てみたいけれど……でも、今はいい。
 砂浜に腰掛けて、フェレットはぼんやりと海の光景を眺めていた。
 アイはその少し後ろで、海と彼のことを同時に見やっている。
 ずっと黙ったままでそうしていたが、やがてフェレットが口を開いた。
「明日、ケープに向かおう。そろそろ、依頼を受けた冒険者達も集まり始めてる頃だろうし」
「かおるさんはどうするの?」
 アイは静かに唇を動かした。
 その名前は聞きたくない、と彼がそう思っていることを知りつつも。
「……僕らなんか居ないほうが良いんでしょう」
 そう口にしただけで、息苦しささえ感じる。
「フェレさん、本心からそう思う?」
 アイの口調は何時もの通り落ち着いていて、それがまた腹立たしい。
 苛立って、フェレットは自前の髪を掻き上げた。
 服が汚れることも厭わずに、砂浜にばっと寝転がる。
「思うわけない! 僕らと会ってかおるさんが辛そうだったって、つまりそれは後ろめたい気持ちが有るからってことでしょう! あの人は僕らのことを忘れたわけじゃない、それどころかまだ仲間だって思ってくれてる。そうに違いないよ……」
 改めて冷静になって考えてみれば、そうだ。
 ――かおるさんが僕達のことを邪魔に思っている?
 有り得ないと、自信を持って言える。
「うん、私もそう思うわ。今は辛抱強く待ちましょう」
「待つって、ルアンダで?」
「ううん。やっぱり『もう会わないでくれ』って言われちゃったものねぇ」
 アイは少しだけ困った表情になった。
「ケープに行きましょう。そしたらかおるさん、慌てて私達のこと追ってくるかもよ?」
「あはは」
 フェレットは薄く笑った。
 だが、アイの言葉は確かに気分を和らげてくれた。
「かもしれないですね。無愛想で俗世間離れした雰囲気があるけど、あれで構って貰えないと悲しむ単純なヒトですからね」
「うん。」
 フェレットは寝そべったまま、海ではなく空を見つめている。
 上空は風が強いのか、巨大な塊りの雲が幾つもたくさん、空を滑って行く。
「しかし上手くいかないものね。東地中海でも散々苦労したし……楽しかったけど。やっとの思いでアフリカに来たかと思えば、まだやる事は山積みのようだしね」
 それはアイの声だったが、全くだ、とフェレットも溜息をついた。
 そうした後、さらに長い息を吐いて。
「まあでも、そりゃ冒険者としては恵まれてるってことですよ。人に語って聞かせられるような出来事が、至る場所で起こってるんですから。なんて素晴らしい航海なんだ、これは。うん、そう思うことにしよう」
「元気出てきたわね、フェレさん」
 アイさんのお陰だよ、とフェレットは心の中で呟いた。
 と言うよりそれもまた、海のお陰ということになるのだろうか?
 そうだ、こんなに素晴らしき仲間達を与えてくれた、この煌びやかで美しい色をした海は。
 海だけは絶対に、僕らを裏切りはしない。
 エメラルド色をしたこの海がきっと、かおるさんをまた連れて来てくれるさ。
 思考は段々ゆったりとし始めて。
 希望という名の船に乗って揺られるまま、フェレットは何時しか夢見心地になっていた。
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  1. 2005/09/08(木) 04:57:04|
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