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航海タイム

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第十三章 旅の理由

1

 遥か遠き地、イスラムにて一つの目的を達成したものの、代償として失ったものも多かった。
 ずっと行動を共にしてきた水夫達を失い、彼等がまだ生きていた頃の思い出と現在を行ったり来たりしながら、船はそれでも海を進む。
 鼻骨を折られたフェレットを始め負傷者も多く、不衛生な船上では正しく治療も出来ないと、船団はアレクサンドリアから北の、カンディアの町へと立ち寄ることにした。
 ここはイスラム圏から程なく近い距離にあるが、ポルトガルの領地となっている。
 ずっと羽織っていた暑苦しい変装具をようやく脱ぎ捨てることが出来て、訪れた町の気候はやけに涼しく思えるのであった。
 船団の次の目的地はまだ決まっておらず、カンディアに辿り付いたその日の夜から、船長達の間で話し合いが行われている。
 会合の場所は例によって酒場であり、そのせいで話は全くもって纏まる気配を見せず。
 町についてから四日目が経過して、その日も夜が訪れた。
 今日は会合も休みのようで、まだ時間も早いのに既に船員の大半が宿で眠りについている。
 ”フォスベリー”の副官ロッティーナもベッドで横になっていたが、眠れずにいた。
 時々、何処からか獣の呻き声のようなものが響いてきているような気がして、それが気になっていたのだ。
(狼? な訳は無いわよね……)
 彼女もこの間のイスラム兵との戦いで大怪我を負っており、傷口から熱が出て治まらず、未だに安静が必要な状態であった。
 無理に動こうとせず、何処かで響いているそれはとりあえず耳鳴りとして処理しようとしたものの。
 本物の耳鳴りの如く繰り返し繰り返し聞こえて来て、このままでは眠れそうにない。
 結局無視することが出来ず、他の船員に確かめてみることにした。
「つっ!」
 半身を起こすと、軋むような痛みが身体に走った。
 さっさと終わらせて、寝よう。
 ゆっくりと歩いて部屋を出て、隣室のほうへと行ってみる。
 すると。
(何……?)
 その奇声、直ぐ隣の部屋から聞こえて来ていたのであった。
 一瞬何が起きているのかとロッティーナは唖然としたが、
「船長!」
 直ぐにそう声を上げて、部屋のドアを大きく開いた。
 隣の部屋にいるのは船長であるフェレットのはずで、彼もまた怪我人なのだ。
「船長、大丈夫ですか! 傷口が痛むのですか?」
 部屋の灯りは落ちている。
 ロッティーナはベッドの方へと駆け寄り、フェレットの体を大きく揺すった。
 揺する速度よりも早く、その体は音を立てて暴れ。
 ベッドから転げ落ちそうになって、辛うじてロッティーナに支えられる。
「船長?」
「ロッティか。どうしたの?」
「いえ、どうしたって……」
 フェレットの顔面は未だ、その半分くらいが包帯に覆われたままだ。
 バンテージで鼻を固定していて、放つ声も口から空気が漏れる音のよう。
「この部屋から何か、奇声の様なものが聞こえて来たので」
「奇声だって?」
 フェレットは寝惚け眼で一瞬考える仕草を見せたが、
「ああ……もしかしたら、それ、僕の声だったのかも」
寸分悩んだあと、ぽそりとそう言った。
「実はここ数日、ずっと悪夢を見ていてね。それも毎回同じ内容なんだよ……」
「どんな内容なんです?」
「自分の鼻からピサの斜塔が生えてくる夢だよ」
 本当に嫌そうに吐かれたその言葉を聞いて、ロッティーナは思わず吹き出すのだった。
「そんなに鼻の形が変わってしまうが怖いんですか?」
「当たり前だろ。男ってのは鼻の形が何より重要なんだって、聞いたこと無いか?」
「聞いたことないですね。でも、鼻からピサの斜塔が生えてくるのなら、そちらのほうが案外元々の鼻よりも素晴らしかったりするのでは?」
「……あのな、夢で見るともう、怖いなんてもんじゃないんだからな」
 ロッティーナはまだ、くすくすと笑っている。
「あ、そうだ。ロッティ」
「はい?」
「怪我はもう平気なのか?」
「ええ。まだちょっと痛みますけど、後ニ、三日もすれば完治すると思います」
「そうか。悪かったな、何だか……」
「気にすること無いですわ。夢は誰だって見るものですから」
「いや、そうじゃなくてさ」
 フェレットはそう言って、少し間を置いた。
「僕がもう少しちゃんとしてたら、そんな大怪我はしなかったはずだからな。船長として面目ないと言うか、何と言うか」
 ぼそり、ぼそりと独り言みたいに続けるのは、本心から申し訳ないと思っているからなのか、照れの気持ちからなのか。
「それも、お気になさらずに」
 ロッティーナは平然と、流すようにして声を出した。
「でもさ、仮にあそこにいたのが僕じゃなくて、かおるさんだったら……とか思うとね。情けなく思えるよ、自分が」
「私はそのかおるさんと言う方、知りませんから」
 ――あれ?
 フェレットは首を傾げた。
 ロッティーナの声がほんの僅かに、冷たいものへと変わった気がしたからだ。
「それじゃ、失礼しますね。船長もひとまず無事だったようですし」
「うん……おやすみ」
 ぽかんとしながらも、フェレットは挨拶をした。
 彼女が部屋を出て行く動作を見つめていて、
「ロッティ、ちょっと待って」
ベッドから立ち上がり、彼女の方に近付いて行き。
「はい?」
 彼女が振り向きざま、フェレットはその額に右手を触れさせた。
「まだよろよろしてるけど、熱有るんじゃないのか? 顔色も良くないし」
「……平気です」
 額にほんのりとした温もりが触れて、思わず咄嗟にそう返してしまった。
 他の言葉を返そうとする余裕を失ってしまって。
 自分は今、上手く表情を取り繕えているのだろうか? と心配をする。
「とにかく安静にして置きなよ」
 部屋を出る直前にもう一度声が響いてきて、ロッティーナは小声ではい、と呟きを返した。
 半開きになっていたドアから、宿の廊下へと出ると。
「よぉ」
 そこには”シャルトリューズ”の船員の一人、グラフコスが立っていた。
 ロッティーナはまだ開いていたままのドアを閉じてから、
「どうしたのよ、こんな所で。元盗賊」
 ほんの少しだけぶっきらぼうになった声で、そう応じた。
「出かけた帰りだ。寝ようと思ってたんだが、面白いモンに遭遇しちまってな」
「面白いものって?」
「気の強さが有名な某女船員の、思わぬ弱味を発見したってトコかな」
「ちょっとっ、何よそれ!」
 思わずグラフコスの腕を掴みそうになるロッティーナ。
 ……他人に見られていたとは。
 さっきまで必死で抑えていたのに、頬が紅潮するのを自分でも感じた。
「弱味も何も、やましいことなんて何も無いわ。出歯亀行為をするなんて、男らしくないわよ!」
「……ドアが開いてたんだよ」
 たった一言でここまで過剰に反応されるとは、と、グラフコスは驚いている様子だ。
「それに今も、あんまりでかい声出すと船長さんに聞こえるんじゃないか?」
「あ!」
 ロッティーナは慌ててドアが開いていないか確認する。
 ちゃんと閉じていたものの、まさか中まで聞こえやしなかったろうかと、目に見えて狼狽える。
 途中でいきなり隣にいる男の視線が気になったらしく、また平静を装っているが。
「なぁ、飲み行かねえか? これから」
「貴方と? そんなに親しかったかしら、私達」
「そう目くじら立てるなって。たまにゃあ自分のペースで酒を飲むのも良いと思ってな」
「たまには、って……」
 グラフコスはもう決定とばかりに、宿の入り口の方へと歩いて行こうとしている。
「うちの船長のせいで、いつもはそうもいかねえんだよ」
 そうして、ロッティーナに着いてくるよう促した。
(平気かしら)
 この男は元、ギリシャムーンズ。
 今は船団の一員であるとは言え、信用出来るとは言い切れない。
 あれこれと疑いながらも付いて行くロッティーナに比べて、グラフコスは全く普段と変わらぬ素振りで。
 珍しい組み合わせの二人は酒場へと繰り出して行った。

2

「てっきり船長も来てると思ったんだが……いねえな」
 店内に入って直ぐ、グラフコスは周囲をきょろきょろと見回した。
 意外にも船団の面子は一人として来ていない様だ。
「ここに着てから三日間連続で酒場に来てたそうじゃないの。どんな酒好きだって、四日はきついんじゃないのかしら」
「あんたは分かってない。言っとくがうちの船長はな、あんたのとこの坊ちゃんとは器が違うんだ」
「ふうん」
 ここで過剰な反応をしてはまた勘繰られると、ロッティーナは自分に言い聞かせた。
「ま、酒を入れる器の話だけどな」
 やっぱりね。
 心の中で、少しだけ勝ち誇る。
 二人はカウンターにつき、距離を置いた会話をしながら注文をした。
「貴方も随分馴染んだものね。この船団に来てからまだ一月と経っていないのに」
「ちょっと驚いてるんだ、俺もな」
 てっきりもっと風当たりが強いと思ったぜ。
 グラフコスはそう続けた。
「表面には出さないものよ。普通そう言うのはね」
「あんたが必死に隠してるようにか」
「何なのよ、いちいちっ!」
 両手でカウンターを叩き、ロッティーナは思わず立ち上がった。
 酒場の店主にじろりと見られ、一言謝ってからまた席につく。
「別に、そんなんじゃないわ。私は。ただ……」
「話は飲みながらにしようぜ」
「……ええ」
 そうして、二人は盃を交わした。
 しかしその後に場には沈黙が落ちる。
 元々、今までまともに会話をしたことさえあまりない組み合わせだ。
 言葉少なにワインを口に運び、料理を頬張っていたが、やがてロッティーナの方から口を開いた。
「別に船長とは……船長のことが好きだとか、そんなんじゃないわ」
 グラフコスは横目でちらりと見やっただけだ。
「ただ……アイデンティティなのよ。あの人は、私の」
「悪いが、無学なもんで言ってる意味が……」
 返事が来るより前に、ロッティーナはワイングラスを大きく飲み干した。
「自我同一性、自己同一性のことよ。私が一体どんな存在なのか、それを確立させてくれる存在なの。あの人が」
 またワインを注ぎながら、つらつらと説明をする。
 液体が注がれたはずのグラスも、見る見るうちにまた中空だけを映し出すようになった。
(こりゃ、相当鬱憤が溜まってたのかもな)
 どうやら今夜も、マイペースで飲むことは出来そうにない。
 グラフコスは思った。

 ロッティーナが話し始めたその光景は、このカンディアよりも遥か北、倫敦の町の灰景色。
「今から、四年半も前の話よ……」
 ぼそり、ぼそりと、他人に言っているのか独り言なのかすらわからない、曖昧な声。
 飲み始めてまだ一時間と経っていないのに、相当酒が回っている。
「私は元々、イングランド人でね。倫敦で、海軍の士官学校に通ってたの。兄が一人いるんだけど、その兄も軍人をしてたわ」
 まだしてるけどね、と小さな声で付け加える。
「海軍か。そりゃ恐ろしい」
 聞こえていないだろうと思って、グラフコスは適当な相槌を打った。
 確かに、ロッティーナには届いていない。
 彼女の目は何処か遠くの方を見つめていて、頭はもう過去へと飛んでいた。
 ――そう、あの人に会った時の第一印象は”変な人”であった。
 今もまだ、変な人であることには何の変わりも無いのだけれど。
 出会った時のことは、今でもよく覚えている。
 ブリテン島の周辺で多発している追いはぎを取り締まったり、沿岸の小海賊の元へ送られたりと、まだ海軍候補生で有るにも関わらず、忙しい日々を送っていた時期の……ある日のことだった。
 季節は秋だったな、そう言えば。
 倫敦らしからぬ、恐ろしいほど眩しく一点の曇りも無く晴れ渡った日の、夕方。
 そうだ。あの時も確か、ドーバーの辺りで暴れ回っている奴等がいると聞かされて、出掛けた帰りだったんだわ……。
 ロッティーナの声は最早ただの独白と化している。
 グラフコスの耳に向けられたものではなく、彼は何とか食い下がって聞いているものの。
「荒れてるのはけっして、ブリテン島だけじゃなかったわ。アムステルダムにも駆り出されたしね。それに倫敦の町だって、変な輩が多くいたのよ。そう、丁度あんたみたいのが……」
「一言多いぜ」
 独り言かと思いきや、最後の声ではちゃんとグラフコスのことを指しているのだった。
 それもあまり宜しくない登場の仕方だ。
「その日にね。家に帰る途中、色々な店に寄ったりして……大分遅くなっちゃったのよ。帰るのが」
「それで?」
「たまたま、本当にたまたまね。道具屋の裏を通りかかった時に、丁度そこから荷物を盗み出そうとしている集団に遭遇したの」
「やれ、物騒なもんだな」
 グラフコスの声が少しだけぶっきらぼうになる。
 自分がその時倫敦にいたなら、間違い無くその盗っ人側に回っていただろうから、あまり笑えない話だ。
 いや……昔の俺だったら笑えなかった、か。
 ぼんやりと、そう思う。
「で、あんたはどうしたんだ?」
「その頃は血気盛んでね。……今もそうだろ、とか言わないでよ。海事の依頼を受ける事を始めて直ぐのことだったからね。簡単な依頼を幾つも成功させて、強気になってたのよ」
「ああ」
 ちなみにグラフコスは聞き手に徹しながらも、着実にワイングラスを開けていっている。
 ロッティーナと違い、顔色は未だ平然としたままだ。
 彼女はと言えば、顔は熟れた林檎のように真っ赤で、視線は覚束無い状態。
(こりゃ、話が終わった後が大変だな)
 もう少し大人の女なのかと思ってたが、とグラフコスはほんの僅かだけ、寂しそうに浮かべた。
 酒を飲むペースを知らんのも、今日だけが特別と言う訳でもないだろう。
「こっちは独りで、相手は確か……五人は居たわ。剣術も今に比べるとまだまだ未熟だったのに、私は向かって行って……散々な目に遭わされたわ」
「……おい、ちょっと待て。酒が不味くなるような展開になるのか?」
 元盗賊の発言とも覚えないと、グラフコスは自分で思った。
「ならないわよ。まぁ、数発は殴られたりしたんだけどね。けど、そこであの人が現れたの」
「ああ、あの坊ちゃん船長な」
「たまたま通り掛かったのよ。もう、凄く驚いちゃってね。人気の無い所に連れて行かれそうになって、本当に助からないと思ったの。本当に何かの物語を見ている様だと思ったわ」
 ロッティーナがやけに砕けた口調になっているのは、別に打ち解けたからではないだろう。
(こいつ……普段から相当、あの船長に良い所を見せようとしてんだろうな)
 やたら良識派ぶったり、船長に説教食らわせたりしてるのも、全て。
 これだから良いトコのお嬢ちゃんってのは。
「で、その船長が盗っ人どもを格好良く仕留めて、話は終わりか?」
「ううん」
 ――あの時の船長は、今よりも少し身長が低くて、もっと子供っぽい顔つきをしていた。
 当然今に比べれば剣術もまだまだだったろうし、喧嘩だって強くなかったのだ。
 結局僅か数分足らずの間にぼこぼこにされて、人目を恐れて、盗っ人達は逃げて行った。
「ちっ……たく、あの人は何処行ったんだよ……」
 仰向けになって倒れたまま天を見上げている少年に、ロッティーナは駆け寄った。
「大丈夫? 巻き添えを食わせてしまって、ごめんなさい……」
「いや、僕が勝手に割り込んだから」
 はははと笑うその顔は、興奮しているのが、やけに赤くなっている。
「それに、もう少し僕が強かったら、君もこんな酷い目に遭わなかったはずなのに。余計な手出しして悪かったね」
 そう言った後、案外平気そうな様子で立ち上がって、そしてそのまま行こうとした。
「待って」
「いいよ、治療してくれなくても」
「そうもいかないわ」
「気持ちは嬉しいけど、急いでるんだ」
 少年は差し伸べた手を振り切ろうとする。
 一度振り切ったそれを、ロッティーナはさらに掴んだ。
「私にも面目って言うものがあるの。仮にも軍職についている私が、何処の誰だかわからない人に助けられて、それで終わりには出来ないわ。今急いでるんだったら、後日お詫びに窺わせて貰う。それで良いかしら?」
 何故だか強い剣幕でそんなことを言われて、少年は思わず目を白黒とさせる。
 助けに入っておきながら、何故自分は責められているのだ……と。
「だから住んでいる場所と、名前を教えて」
「名前はフェレットだけど。……住んでる所かあ。そうだな、まあ各地に恋人はいるな」
 言葉を受けて、今度怪訝な顔になったのはロッティーナの方だ。
 しかしフェレットからすれば、これはまだ言葉の途中らしく。
「住所はこの海だね。北海も地中海もインド洋も何もかも、全部ひっくるめて。イルカやらウミガメやらと同棲してる」
「はぁ?」
「まあ、そう言うことだよ。だから気が向いた時にでも、海までお詫びに来てくれれば良いよ。それじゃ」
「ちょっと……待って!」
 ロッティーナは再び引き止めようとしたが、フェレットと名乗った少年は、そのまま行ってしまった。
(何なの……?)
 ぽかんとしたまま、その場に取り残されるロッティーナ。
 全く訳が解らないが、フェレットと言うその名前と口にした言葉、風に靡いていたその緑色の髪だけが、頭の中をぐるんぐるんと回っていた。
 フェレットの姿はもう見えなくなったと思いきや、
「あぁかおるさん! もう、何処で油売ってたんですか!」
さっきよりずっと大きな彼の声が、直ぐそこの角を曲がったところから響いてきた。
 相変わらず唖然としたままのロッティーナは、ただそこに立ったままで、そのやかましいやり取りを黙って聞いていた。
 聞こうと思わずとも、響いてきたのだ。
「アー悪いフェレット君、倫敦は初なんで迷っちゃったよ」
「出身、倫敦じゃないんですかっ!?」
 怪我のせいもあって、現れた男に対するフェレットの返事は荒々しかった。
「倫敦だったような気がしてならん。そうそう、ロンドン橋がフォーリン・ダウンしたせいで迷った」
「もう、訳分らないですよ。お陰でこっちはとんでもない目に遭ったんだから」
 荒々しさを越えて、呆れた声に変わるのも早かった。
「そう言えば色々人生経験を積んできた様な、男の顔になってるね」
「……いいから、もう。それよりかおるさん、カリタスさんとの約束の時刻、もう大分過ぎてるでしょ。早く行きましょうよ、全く」
「元はと言えば、フェレッチ君が倫敦の酒を先に味わっときたいって、酒場に行ったせいで遅れたんじゃ」
「まあ、そうだけど……」
 ああ、とロッティーナは小さく頷いた。
 さっき彼の顔が赤くなっていたのは照れていた訳じゃなく、酒に酔っていたのか。
 ……そう考えれば、あの妙な言動も納得が行かなくもない。
 そうして、会話はもう聞こえなくなった。
 どかどかと言うやたらやかましい足音だけをその場に置いて、彼は行ってしまったのだ。
(にしても、変な人だったわ)
 ロッティーナ自身も軽傷を負っている。
 一人になった今、わざわざ此処で立ち止まっている理由はない。
 ぼんやりと今さっきの出来事を思いながら、帰路へとつくことにした。

 その記憶の中に、確かにかおると言う人物は登場をしている。
 今のところは名前だけであるけれど、この先の回想でその姿も登場することになる。
 船長に”知らない”と言っているのは……昔からあの人を知っていたことがばれてしまうのが、怖いからだ。
(あの時、私は幾つだったっけ? 四年半前だから……十六?)
 十代の頃の私の記憶には、あの人はたった一度しか登場をしない。
 秋の夜長の変な出来事など直ぐに頭から消えてしまいそうな程、それからも忙しい日々が続いた。
 それでも時々、ふと思い出したりすることがあって、数ヶ月にいっぺんくらい、記憶の片隅から引っ張り出されたり、またしまわれたりして。
 そんな風にして、四年の歳月が流れた。

「久しぶりね、アンジェラ」
「あら、ロッティ。本当に久しぶりね。また仕事が忙しかったの?」
 倫敦の酒場で働いているアンジェラと言う女性は、ロッティーナとは旧知の仲であった。
 そんな理由から以前はちょくちょくこの酒場に来ていたが、ここ数日間は海軍の仕事でボルドーの方まで赴いていて不在にしていたのだ。
 やって来たのはロッティーナだけでなく、彼女の兄であるヘンリーも一緒だ。
「しかし兄と一緒に酒を飲むなんてな。お前、一緒に酒を酌み交わしたりするような男性とかいないのか?」
 運ばれてきたワインで乾杯するなり、ヘンリーがそんなことを言ってきた。
 余計な御世話、と言葉を返す。
「別に恋愛なんて、必要性に駆られてやるものでもないし。それに私は軍人なんですからね、そんなことに現を抜かしている暇なんて無いの」
「いや……俺も軍人なんだがな」
「けど兄さんには、アナベルさんがいるものね」
 ロッティーナが口にしたのは、ヘンリーが既に十年もの間、恋人として付き合っている女性の名である。
「にしても何だか今日、やけに活気が有るわね」
 一つのテーブルで会話していると言うのに、互いの声がよく聞こえない。
 それもそのはずだ、普段から繁盛しているこの店に、今日はさらに二倍する人が入っているのだから。
「最近ずっとこうなのよ。店の方としては嬉しい悲鳴と言う所かしらね」
 アンジェラに説明されて、ロッティーナは不思議そうな顔をした。
「ずっとこう? いきなり人気が出るような、何かがあったの?」
「ええ」
 アンジェラは頷く。
「うちの店が何かしたって訳じゃないのよ。ただ最近、この店にちょっとした有名人が来るようになってね」
「有名人?」
「ええ。ロッティ、この間の事件のことは知らないかしら? バルト海の辺りで、冒険者と海賊が結構な規模の艦隊戦をしたって言う……」
「知らないはずないわ。アムステルダムの軍も、冒険者側の援護をしてたって話だしね。えっ? もしかして有名人って、その冒険者の人なの?」
「ええ。今日は来てないみたいだけれど、その冒険者達の方々が最近よくここに来るようになったの。と言うより以前から来て下さってたんだけど、名前が知れたせいで、その人達を目当てに酒場に来る御客様が増えたみたいでね……」
「不純な目的ね。酒場に酒を飲む以外の目的で来てどうするのよ」
 ロッティーナは小声でそう毒を吐くのだった。
 店内の喧騒に掻き消されつつも、しっかりアンジェラには届いている。
「お酒も料理も、ちゃんと頼んでくれているんだから問題は無いわ。それにその冒険者の方達も、素敵な人ばかりよ」
「貴方がそんなこと口にするなんて、珍しいわね」
「だから、ロッティも一度位、その人達を見てみると良いわ。良い人が見つかるかもしれないもの」
「あのね、アンジェラ……」
「ふふっ。だってお兄さんも心配してるじゃない」
「余計な御世話!」
 先程と同じ台詞をまた口にして、ロッティは横を向いてしまった。
 これ以上何を言われようとも、応じる気は無いと言った表情で。
 ヘンリーとアンジェラは顔を見合わせ、二人して苦い笑いをする。
 その後ヘンリーだけは深い溜息を続けた。
「まあ、恋愛話とは関係ないとしてもな。その冒険者の人達ってのは何でもとても砕けた人達らしくてな、見てて面白かったぞ。お前も少しくらい見習ったらどうだ」
 溜息を吐いたその後に、ヘンリーが口にした。
 どうやらロッティーナが不在の間にも、何度かここを訪れていたようである。
「砕けたって、何がよ?」
「ああ……口ではちょっと上手く言えないがな。しかしああ言う奴等を見てて思ったよ。俺は一応軍人をやってるが、でも自分の中ではあんまり、軍人気質みたいなものを表面には出さないようにしていたつもりだったんだ。……堅い人間だと思われるのも嫌なんでな」
 心配しなくても、誰も兄さんを堅い人間だなんて思わないわよ。
 ロッティーナはそう、小声で毒を呟いた。
 ヘンリーは一瞬顔をしかめつつも、しかし言葉を止めない。
「そう言うがな。上には上がいるって言うだろう? その冒険者の奴等みたいに自由気ままにはなれないなって、俺はそう思わされたんだよ」
「ふーん。兄さんがそこまで他人のことを誉めるのも珍しいわね」
「誉めると言うか、良くも悪くもって感じだがな。……あっおい、噂をすれば何とやらって奴だぜ」
 と、ヘンリーは入り口のほうを指で差した。
 ぞろぞろと、店内へとやってくる影がそこにはある。
 まず一人目、どう見てもこの辺りの人間ではなさそうな、もっさりとした衣服を羽織った大男。
 特に表情を取り繕っている訳でもなさそうだが、一見して眠そうに見える。
 その次に続いて入ってきたのは――およそ冒険者らしくない、清楚な雰囲気を醸し出した女性。
 服装も深い緑を基調としていて、更に落ち付いた雰囲気を際立たせている。
 二人の周りを囲むようにして、いかにも水夫と言った感じの男達が数人。
「アー。マシターはおるかね」
 大男はずかずかと歩いてきて、マスターの元で、無色透明な声を放った。
「いらっしゃい。今日も来てくれたのかい?」
「そこの棚のAからZまでを全部頼む」
「あいよ」
 たったそれだけのやり取りを経て、その集団は纏まってテーブルへとついた。
「……何、あれ?」
 その様子を黙って眺めていたものの、頭に浮かぶのは疑問符ばかり。
 ロッティーナは小声でアンジェラに訊ねた。
「あの方達が、例の冒険者達よ。正確には、今回の事件を解決したカリタスさんって言う方が、助っ人として呼んだ人達ね」
 確かにカリタスと言う名前は、倫敦でも何度か耳にしたことがある。
 だが、問題はそこではない。
「いや……棚のAからZまでって、何よ? あんな注文で解るものなの?」
「最初は戸惑ってたけど、マスターも慣れちゃったみたい。今じゃあの人達と話すのが日課みたいになってるもの。なんでもああする事を、印度では”大人買い”って言うそうよ」
「オトナガイ? ふーん……」
 意味そのものはさっぱり分からないままだが、ロッティーナはとりあえずその単語を覚えておく事にした。
 これからの長い人生の上で、何時か役に立つ機会があるかもしれない。
「どう? ロッティ」
 アンジェラがくすくすと笑いながら訊ねた。
 ロッティーナが戸惑っている様子を見るのが面白いらしい。
「どうって……変な人達だってのは、見て取れるけど」
「変だけど、エスニックな魅力を持ってるって思わない?」
「全然」
 ロッティーナの返事は素で全く興味が無さそうなものであった。
 あの奇怪な面々はそう遠くない場所で飲んでいるのだが、大して気にも留めていない。
「貴方はもう……。ああ、でもね。あの船団にはもう一人、私達と同じ位の年齢の男の子がいるの」
 ロッティーナは「だから?」とも言わんばかりの表情だけを返す。
「この間、店内でリュートを演奏してくれたんだけど、結構上手かったわよ。色んな国を回ってきたんだって、様々な曲を演奏してくれてね」
「これから海軍の仕事で各地に回る機会もあるだろうから、わざわざここで聞かなくても本場で聴くから、いいわ」
 本当につれない返事ばかり。
 昔からの友人として、アンジェラが説教をしてやろうと思ったそんな時。
 店内に、大きなくしゃみが響いて渡った。
 それだけでは当然、ロッティーナが関心をよせるはずも無かったのだが、
「ちょっとフェレさん、宿で休んでなきゃ駄目じゃない。風邪、まだ治ってないんでしょう?」
しっとりとした女性の声。
 フェレさん、と言う単語だけではまだ、何も引っ掛かるものはなかった。
 しかしその次に届いてきた声。
「ちゃんと治す為に、此処に来たんですよ」
 それがロッティーナの記憶を、つんと突いた。
「酒が無きゃ治らないって、またそんなアイさんみたいなことを」
「そうよ、フェレさんらしくない……って。またそう言うことを……で、一体どうしたの? フェレさん」
 交互に響いてくる男女の声。
 ロッティーナに耳に、それは正しく聞こえていない。
 彼の声では、ないからだ。
「どうしたもこうしたも、リィにあんなこと教えたの、かおるさんでしょう!」
 割と本気で怒っている声が聞こえて来て、ロッティーナは思わず体全身をそちらへと振り向かせた。
 飛び込んできたのはまず、黄緑色をしたその髪。
 女性のもののように柔らかくて、淡い。
 片耳だけに赤いピアスがつけられていて、それが遠目にも映えている。
(あ……)
 目に入ったその青年の姿を見て、全ての言葉が失われてしまう。
 この場の空気も、喧騒も。
 みな、感覚からシャットアウトされていく。
「私がやりました」
「……そんなあっさり認められても張り合いがないけど。リィのやつ、タマネギを首に巻いたら風邪が治るって信じ切ってて、お陰で宿で寝てたら、気付いたら裂いたタマネギで首を絞められてたんだぜ! 本当に危うく死ぬところだったんだから!」
「生まれ故郷ではそう伝わってるんだよ」
 かおるさん、と呼ばれたその男は、あくまでも自分の非を認めないらしい。
「故郷……イングランドじゃないの?」
「印度」
「ウソつけっ! おまけにルーファさんやらパング君とかも、面白がってタマネギをたくさん持ってきやがるし! あんなことされるくらいなら、ここで酒気という布団に包まれて寝てた方がずっとマシだよ」
 大男と、その青年のやり取り。
 それだけで既に辺りの客は笑いを堪えに堪えており、たった一人、ロッティーナだけがそれを真剣な表情で見ていた。
 ……何故、ここまで?
 ロッティーナはそう、自らの記憶に問い掛けた。
 あの時たった一瞬だけ目にした姿であるのに。
 それからだって、何時も胸に抱いていた……なんて訳ではない。
 それなのにどうして――あの姿が、私の心をここまで刺激するのだろう?
「あれで中々の面白い船長だって噂だぜ。あそこの船員の一人が『うちの船長はこの世界の魅力的な光景を誰よりも知ってるんだ』って、自慢気に話してたぞ」
 ヘンリーがそう、ロッティーナの思考に言葉を割り込ませる。
「南でドラゴンの骨を探したり、亀やイルカを海で見付けたりしたんですって。ああ言う人達を見てると、私も海に出てみたくなるわ」
 アンジェラの声も。
「お、ロッティちゃん、あの集団に興味を持ったのかい? 何なら紹介位してやるけど」
 そう、酒場のマスターもがロッティーナに話し掛ける。
 彼らの言葉が過去の記憶と入り混じり、ぐちゃぐちゃになる。
 そうなった後、それはひどく澄み切ったものへと変わった。
「ねえ、兄さん。私、海軍辞めるわ」
「ん。ああ」
 ヘンリーは返事をしたが、言葉の意味をよく理解し切れなかった。
 表情がそれから数秒を掛けて、徐々に変わっていく。
「海軍を……え? ちょっと待てロッティーナ! どう言うことだ!」
 驚きに彩られた顔になって、ヘンリーは声を上げた。
 妹の口からそんな言葉が出るとは、考えた事も無かったのだ。
「前からちょっとね、考えてたの。決めたからには早いほうが良いし。帰って、父さん達にも説明して来るわね」
 ロッティーナはすっくと立ちあがり、毅然とした動作で入り口の方へと歩いて行った。
 途中、ちらりとだけ緑髪の青年の方を見やる。
 彼は、こちらへと振り向きはしない。
「ちょっと、ロッティ!」
 アンジェラが声を送ったが、ロッティーナの姿はもうそこからいなくなっていた。

 海軍は国の未来を担う重要な仕事。
 勿論、そう簡単に抜けられる訳などなく、結局家を飛び出したような形になってしまったけれど。
 それからしばらくの時を経て、その船団へと加わることが出来た。
 あの人は過去に私と出会ったことなんてすっかり忘れていて、それはちょっと残念だったけど。
 ドーバーの町で船長の過去の話を聞いて、あの人も自分と似た境遇なんだと知った。
 過去に出会った時も、それから数年後に再会した時も、自分はずっとあの人のことを求める側で――これからも、そうなのかもしれない。
 深く考えると寂しくなるし、辛い。
 けれどこのままこんな風に、幻想を抱いていられれば、それでも良いのかもしれない。
 ……このままずっと私に幻想を抱かせていて欲しいのです、船長……。

3

「何がなんだかさっぱりだったな。最後まで……」
 隣の席でぐっすりと眠っている女性を見て、グラフコスはぼやいた。
 一からじっくり話してくれるのかと思いきや……最初はそのつもりだったんだろうが、途中から全て自分の中だけで話が進んで行ったようで。
 結局詳しい事情は殆ど知ることが出来なかった。
(ま、辛い立場なんだろうな)
 こんな酔い方をしている時点で、それは窺い知れる。
 整った顔立ちは酒色に染まり、瞳は今にも泣き出しそうなほどに潤んでいる。
(あの坊ちゃん船長の何処に惹かれたんだか、よく分からねえが。……問題はこいつをこの後どうするかだな)
 あれこれと思いながら、グラフコスは自分のペースを崩さずに、酒を口にしている。
 良い気分で酔えているし、今ここでこの気分を断ち切りたくはない。
 グラフコスが悩んでいるそこに丁度良く、二人の来客が現れて。
「お二人さん、こんな時間によくもまあ」
 二人の船長に向かい、グラフコスはそんな言葉を投げかけた。
 しかしよくよく考えてみれば、飲み始めてからまだそんなに時間が経っていない。
「何だか寝付けない夜だったんでね。たまにはアイさんの寝酒を真似てみるのも悪くないと思って」
「……まあ、そんな理由よ」
 現れた二人はフェレットとアイであった。
 今日この酒場はやけに落ち付いた雰囲気で、店に居る客も皆、自らの世界に入り込むようにしてゆっくりと酒に浸っている。
 これなら落ち付いて飲めそうだな……と、フェレットは僅かに相好を崩すのだった。
 その後改めてグラフコスらの方を見るなり、目の色を変える。
「君ら、そう言う仲だったのかい?」
 言われてグラフコスもまた、慌てて弁解をする。
「独りで飲みに来たら、たまたまいたんだよ。まともに話すような仲でもない」
「へぇ……。まあ、確かにウマが合わなさそうな気もするけど」
 正直な言葉を口にするフェレット。
 彼の中ではまだ、ロッティーナのイメージは毒舌でありつつも真面目一辺倒な女性である。
 この先もきっと、そのイメージは変わることが無いのかもしれない。
「しかし、まだ怪我してるってのに。そんなに酒が好きだったかな、ロッティって」
「あんた、こいつの船の船長だろ? 責任持って連れて帰ってやんなよ」
「え? でも、今来たばっかなんだけど」
 フェレットがぽかんとする中、グラフコスはアイへと視線を飛ばした。
 それを見て、アイは何かを察する。
「そうね。私はか弱いから、ちょっと送ってくのは無理だし。それにお酒も飲みたいしね」
「は? か弱いって……」
 フェレットは怪訝な顔をしたが、つまり損な役回りは自分のところに回って来たのだと、そう理解をさせられる。
 損だと言ってしまってはいけないのかもしれないが、お陰で今日は酒を口にする事は出来そうにない。

「……じゃ、二人とも。達者で」
「ええ。また明日ね」
 酒場に残っているアイとグラフコスのほうに何度か振り返りつつ、フェレットは来て数分で酒場を後にした。
 背中にはロッティーナをおぶっている。
 彼女の体は重くないが、それでも宿まで運ぶのは幾らかの体力が要りそうで、これなら寝酒の必要もなくぐっすりと眠れそうだ。
 そうして宿までの道のりを、フェレットは夜空に見送られながら歩いた。
 海の波音が、時々まるでじゃれ合うかのように響いてくる。
(アイさんも、何時の間にかすっかりあのグラフコスとか言う奴と仲良くなっちゃって……。悪い奴じゃなさそうだけどさ)
 星空にも、海に話し掛けるでもなく、独りぼんやりとそんなことを浮かべていた。
(それに……ロッティって、こんなに潰れるまで飲むような人だったっけ?)
 他の船員が毎度のように潰れているのを、何時も律儀に介抱してくれている、そんなイメージを持っていたのだが。
(やっぱり、日頃の僕らのあんまりなやる気の無さっぷりに、不満を抱いてたりとかするのかなぁ……。それで今日はヤケ飲みをしてたとか)
 冗談のように思ってはみたものの、有り得なくは無さそうな気もする。
 日頃から怒られてばっかりだし、よくも我慢して船に乗ってくれているものだと、思うこともある。
 考えてみれば、男ばかりの船に女一人で乗り込むと言うのは並のストレスじゃないだろう。
 ……それはリィの時も思っていたことだけれど。
(き、嫌われて無いかなぁ……僕)
 今更ながらにそんなことを不安に感じる。
 そんな時、背中におぶさっている体が、僅かに揺れ動き。
 フェレットはびくりとして、バランスを崩しそうになった。
 変に誤解をされて、怒られたりしないだろうかと。
 案の定、ロッティーナの第一声は驚きに満ちたものであった。
「えっ、ちょ、ちょっと! 下ろし……」
「ごめん! どうしても連れてけって言うから」
 フェレットは慌てて、どう対応すべきなのか判らずにあたふたとする。
 ロッティーナも同じだ。
 だが、自分をおぶってくれている人間が誰なのか、直ぐに気付き。
「っ船長?」
「うん。酔いは大丈夫?」
「……はい」
 別の種の驚きが浮かび、彼女は何とかそれを隠そう、隠そうとする。
 フェレットはフェレットで、どうして良いものかと焦りを浮かべつつ。
 そんな風にして、一つになった影はゆっくりと、カンディアの町を行く。
「次はとりあえず、ヴェネツィアへと向かおうと思うよ。さっき酒場に来る時にアイさんと話してて、一応そんな方向で決まった。ロッティはヴェネツィアには行ったことあるかい」
「いえ、無いです」
「実はね、僕も初めてなんだ。”カナル・グランテ”(大運河)に日が没していくその光景が叙情的で素晴らしいんだって、同じ船乗りの人から聞いたことがあるだけで」
「日没ですか」
 その言葉を聞き、ロッティーナの脳裏には幾つもの光景が浮かんだ。
 船長ならきっと、私の想像なんかよりももっともっと素敵な景色を浮かべられるんだろうなと、そう思う。
「倫敦の日没も、リスボンでも、セビリアでも……。日が落ちていく光景は町毎に違っていて、けれどどれもとても美しくて、綺麗でした。ヴェネツィアは一体、どんななんでしょうね」
 その口調はしっかりとしたものだ。
 さっきと変わらず酔っているままなのに、こうしていると何故だろうか、胸の鼓動が全てを掻き消して、正常心を取り戻させてくれる。
 この人の前で、変な姿は見せられないと。
 ……ああ。
 この高鳴りを、もしも彼が同じように感じていたとしたら、どんなに素敵だろう。
 けれど、それは私だけが抱いている――叶わない夢でしかないのだと、知っている。
「ロッティ。頬、傷が残らなくて良かったな」
「はい……」
 この人の視線は何時だって海を見ていて、愛する人のほうを見ている。
 そんなこの船長のことを、私はただ護ることくらいしか出来ない。
 けれど、今はそれで良いのだ。
「ヴェネツィアでは多分、今回みたいな荒事にはならないと思うけど。もし何かあった時は、また力になって貰えるか?」
「はい! 勿論です」
 私には……この人の体も、心も、癒してあげることは出来ない。
 だから私はこの人の剣となり、盾となるのだ――。
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  1. 2005/07/24(日) 07:46:52|
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