1
フォスベリー、永久機関、シャルトリューズ。
倫敦で幾らかの時を過ごした後、三隻はまた海へと出ることにした。
船乗りたるもの陸に長く居るべきではないというのがこの船団の持論でもあるし、何より今回は明確な目的があった。
倫敦の遥か北東、ベルゲンの町に向けて、船は只管海を行っていた。
(そんな馬鹿な……有り得ない)
ここは倫敦の町の港。
海の先に消えて行った三隻の船。
それをただぽかんと見つめながら、一人の青年はそこに立ち尽くしていた。
「……オイ」
寒風に吹かれながら暫く海を無言で見つめていたが、青年はついに叫び声を上げた。
「っ待てぇ! 待ってくれ!」
しかしながら叫んだタイミングは既に大分遅い。
船団の姿はもう、水平線の彼方に消えてしまっているのだから。
それでも青年は声を上げ続けた。
納得がいかないのも当然の話である。
海の彼方に消えた三隻のうち一隻、”フォスベリー”の船長をつとめているのはこの青年、フェレットなのだから。
「僕はまだ此処に居るぞ! 船長を置いていってどうすんだ! 君等それでも僕の船の船員かっ」
(確かに……)
涙混じりの声を聞きながら、後ろの方から青年をぼんやりと見つめている女性の名はルーファ。
しかし彼女は悲しんでいる様子はなく、むしろ薄ら笑いすら浮かべている。
フェレットの声にはやがて、怒りの色も混じってきた。
「コラァ、帰ってきたら覚えてろよ船員ども! それに発案者! 寝酒の中に毒を流し込んどいてやるからなっ!」
正しく負け犬の遠吠えだ、とルーファは思った。
「……フェレさん。あの人達なりに気を遣ってくれてるんだから……。帰ってまた寝た方が良いわよ、そろそろ」
この場に衛兵がいたら逮捕されかねないなあと、ルーファは顔をしかめている。
それほど、やかましい。
「いや、だって!」
フェレットは何か言いかけたが、喉から出た咳によって口に出来ずに終わった。
彼の意思とは無関係に、何度もごほ、ごほと繰り返し咳き込む。
ここ数日、フェレットは極度の風邪に冒されており、殆どベッドから立ち上がれないような状況だったのだ。
(く、くそう……!)
全身の力が抜けて行くのを感じる。
声を上げただけでも疲労困憊になる程、体力が落ちているらしい。
(このままじゃ……あいつが船長になってしまう)
置いて行かれた事にも確かに腹を立ててはいる。
現在自分の船を操縦しているのは別の人間であり、勝手知ったる他人の家とばかりに他人が船長をつとめているのも、許せないものがある。
それもまあ心配ではあったが、大した心配ではなかった。
あの人なら安心して船長を任せられると言う確信があったからだ。
なら、何処に問題が有るというのか?
……最大の問題、それは船旅の目的が”リィの船を買いに行くこと”であると言うこと。
――話は少し前、倫敦で開かれた酒宴の際、アイの提案に端を発す。
ちなみに例の祝勝会とはまた別に催されたもの。
「ねぇ、今回の任務をこなしたことで大分船団の貯金も増えたでしょう。それで私から提案があるんだけど」
”シャルトリューズ”の船長であるアイ、残る二隻の船長の耳に向かって囁くように言う。
フェレットと”永久機関”の船長かおるも、興味深々に耳を傾けるのだった――が、次の瞬間。
「なッ……何言ってんの! そんなの駄目ですよ! 駄目に決まってるじゃないか! 無理無理っ、禁止禁止!」
提案内容を聞いた瞬間、フェレットは頭ごなしに却下しようとするのであった。
「何でよ。リィちゃんなら絶対、務まると思うわ。聞けばこの間の戦いじゃ、彼女も大きく勝利に貢献したって言うじゃない」
「銃の腕が凄いからって、船長が出来るとは限らないでしょ。僕だってほら、こんなに魅力的だけどここ最近は女性にとんと縁が無いんだから。それと一緒だよ」
「でもね。私正直、思うのよ」
後半の科白をアイは素直に無視した。
「リィちゃんは以前にも船乗りをしていた経験があるんじゃないかしら。だって、初めてには思えないもの」
「でも駄目だよ、いくらなんでも。確証は無いんだ」
アイの提案。
それは、今現在”フォスベリー”の一船員である少女リィに、船をプレゼントしてあげようというものであった。
「どうしてそんなに拒否するのかしら? フェレさん」
「どうしても何も、彼女はまだ新参だよ。リィを船長になんて言ったら、うちの船員が反乱を起こすよ」
ちなみに二人の会話は酒場内で、割と大きな声で行われている。
直ぐ後ろにいた三船の船員の耳にも当然のように届いていた。
「リィさんだったら、俺達は全然構わないですぜ」
「優しいし可愛らしいし、リィさんが船長になったらきっと、華やかな船になるでしょうねぇ」
「お、俺そうしたらフォスベリーを降りてリィさんの船に行っちゃおうかな」
(君ら……)
顔に怒りを滲ませながら、がくりと項垂れるフェレットであった。
意外や意外、満場一致。
彼女に船長が務まるのか? と危惧するものは誰一人としていなかったのだ。たった一人を除いては、だが。
そのたった一人であるフェレットにしても、実際のところ彼女に船長が務まらないとは思っていない。
過去の記憶を一切失っているとリィは言うが、彼女は明らかに航海の経験を持っている。
それは今まで同じ船で旅をしてきたフェレットが一番よく知っていた。
あの銃の腕から判断しても、彼女がただの町人だったとは考え難い。
(しかし、やっぱり駄目だ。だってそしたら……)
フェレットが意地でも反対意見で通そうとする理由、それは。
(あいつが船長になるってことはつまり、フォスベリーから降りるわけだろ? そうしてあいつの船の船員を別にまたたくさん雇って……そんなこと許せるわけがない。リィは僕の船にいて……航海中に色々……話し相手になったりとか……)
要は彼女を手元に置いておきたいと言う邪まな考えであった。
しかしそんなことを口に出せるわけもなく、只管遠まわしな反対意見を口にしている。
自分の本心など、アイにはすっかり見抜かれているかもしれないと思いつつも。
「と……ともかく。何も今急いで買うことは無いじゃないですか。今度リィにはフォスベリーの船長を一日体験学習でもさせるとして。それからでも遅くは無いでしょ?」
「何処の誰かさんが言ってたわ。船乗りにとって、人生は決して長いものじゃないってね」
フェレットはぎくりとした。
アイがにこりと笑っている……その意味をなんとなく理解したからだ。
「航海をしていれば月日はあっという間に過ぎて行くから、思い立ったらすぐ行動に移すべきだって……緑色の髪をした人が言ってた気がするわね、以前に」
「……あ」
この船団で、緑色の髪をした人間。
考えるまでもなく、一人しかいない。
どうやら彼女は、こちらを一突きに出来る必殺の武器を手にしたらしい。
そう解っていながらも、
「……そ……の緑色の髪の人、素敵でした?」
「とても素敵だったわ。自分が言ったことはちゃんと守ってくれる、本当に素敵な人だったわねぇ」
「……そうですよね」
気付けば術中にはまって、フェレットはもう断る手段をなくしていた。
苛立って緑色の髪を弄くっても、事態は何も変わらない。
さらにとんとん拍子でカリタスの耳にも入ることとなり。
「船、新造するの?」
「ええ、折角ですから新たに造ってもらおうかと」
「ふむ。だったらベルゲンに行ってみると良い。あそこには造船業を営んでいる私の友人が住んでいてな。腕も立つって評判だ」
「本当ですか! それは丁度良かった!」
「出来るだけ安くするよう、紹介状でも書いておくよ」
アイとカリタスの会話に入ることも出来ず、気付けばすっかり話は進んでいた。
このままではまずいとフェレットは必死で策を巡らしたが、思い浮かばず、その場限りの言い訳を考える。
「アイさんてば。大体、リィ本人にこのことはまだ伝えてないんでしょ? あいつの性格から言って絶対、断るに違いないですって」
「確かに、まだ言ってないけど……それじゃあ今訊いてみる? おーいリィちゃーん!」
「さっき気持ち悪いって言って出て行きましたけど」
「……介抱してあげなさいよ、あなた」
ちなみに二人の隣では、何時の間にか酒を口にして、体全身が真っ青になっているかおるがいる。
今のところ、誰も介抱しようとする気配はない。
「あ、帰ってきたわ」
丁度タイミング良く、よれよれとしながらも、リィが酒場内に戻ってきた。
顔色はいつも以上に真っ白く、酒がまだ抜け切ってないらしい。
「リィ、大丈夫か?」
「はい……。宿に戻って寝てたんですけど、手袋を忘れちゃったんで取りに来ました」
フェレットの隣にある椅子から、リィはひょいと手袋を掴み上げた。
「それじゃあ、戻りますね……」
「あ、ちょっと待った」
手袋を持ったリィの右手を、フェレットがぐいと引っ張る。
前後不覚になっているリィ、それだけで思わず転倒しかかった。
「まず最初にアドバイスしておく。これから何を言われても『いいえ』と答えるんだ。そうしないときっと、君には思わぬ災難が降りかかることに……」
「せこいわよ、フェレさん」
アイどころか他の船員にまで絶対零度の視線を向けられて、仕方なくフェレットははぐらかすのをやめにした。
リィは何が何だか判るずに、ぼうっとしてその場に立っている。
「リィ。ちょっと提案があるんだ。聞いてくれるか?」
先程急いで結論をだすことは無いと言ったフェレットだったが、自ら先んじて彼女に言おうとするのだった。
気分が落ちている今なら彼女はきっと断るに違いないと、そう判断したからだ。
(大体船長になるってことは……今までずっと一緒にいたフォスベリーの船員や……何より僕と離れることになるんだ。彼女がそれを望む訳がない!)
確信をもって、フェレットは彼女に説明をした。
「船長ですか? 面白そうですね、やります」
二つ返事で承諾され、フェレットは酔っ払いのようにその場に崩れ落ちたのだった。
酔っているせいで、逆に深く考えずに承諾してしまったらしい。
それからもフェレットはまだ駄々をこねていたのだが、風邪を引いてまともに意見を言えなくなり、挙句今朝起きてみたら船がなくなっていた。
今現在”フォスベリー”を操っているのはカリタス。
アイもかおるもベルゲンの場所を詳しく知らず、カリタスに案内を頼むことになったのだ。
彼の本来の船である”オールド・ブラック・マジック”はこの間の戦いでの損傷が激しく、現在改修を行っている最中。
それに昨日カリタスに「風邪を引いている間だけ、ちょっと君の船貸してくれん? 同じキャラック船だし、ちょっと借りるだけだからさ」と言われ、何と無しに了解した覚えも有る。
――何時の間にか、話は何もかもが出来あがっていたのだ。
フェレットは尚も孤軍奮闘をしたがったが、万策はとっくに尽きていた。
(リィが船長になることは避けられないのか。だけどそうなったら……)
リィが船長を務めるその船の船員に、もしも格好良い奴が入って来て、彼女にちょっかいをかけたら……それどころか、恋に落ちてしまったら……。
風邪のせいもあって気が滅入っており、そんな最悪のシナリオが頭の中を駆け巡る。
(こうなったらかおるさんが船員選びに口出しして、ヒゲ面の船員ばっか選ぶことを期待するしかない。いや、でももしリィが髭ダンディーを好みだったとしたら……。恋に落ちて、それで……)
さらに回り続け、感情を掻き乱す。
思い浮かぶことの何もかもが、暗く深い闇に閉ざされていた。
それが風邪からくるものだと、本人は気付かない。
「ルーファさん、僕、もしかして」
「何かしら?」
「主人公、下ろされちゃったんですかね」
「寝てなさいな、大人しく」
結局それから暫くの間、フェレットは倫敦で出来た友人達に囲まれて、不安ながらも楽しい日々を過ごすことになるのであった。
2
フェレットの思っていたこともあながち外れていた訳ではなかった。
リィは突然の提案を受けて承諾したは良かったものの、それからずっと悩んでいたのだ。
「リィちゃん、本当に良いのかしら?」
ベルゲンの町を間近にして、アイは最後の確認を取る。
これで彼女が断ったなら、単純に観光旅行として楽しむことにしよう。
アイはそんな風に割り切ることも出来る女性であった。
「……はい」
その声にはまだ、迷いがあるように思えた。
自分が船長なんて務められるのかも不安であったが、何より航海中に、フェレットを始めとする”フォスベリー”の船員の顔が見られなくなることが嫌だった。
一緒の航路を進んでいても、船と船は海という障害物によって遠ざけられている。
大声を出せば船同士で話せないこともないが、今まで通りにフェレット達と会話する事は難しくなる。
それなら何故、悩んだ末に「はい」と言ったのか。
記憶を取り戻す為、この海の上で、様々なことを経験してみた方が良いのではないかと思ったからだ。
彼女自身も感じていたのだ。
自分が陸よりも、海に慣れた人間だと言うことを。
(フェレさんは優しいし、フォスベリーも皆も良い人達ばかりだから……私はきっとあの人達に甘えて、このまま一歩も前に進めないかもしれない。それどころか、自分が辿ってきた道を振り返ることさえ出来ないままで……)
このままではいけない。
新たな刺激を受けることで、何か思い出すこともあるに違いないと、彼女は自分にそう言い聞かせていた。
およそ十日余りの航海を経て、船団はベルゲンへと辿り付いた。
北海側の峡湾の奥にある港町は、木造の家が立ち並ぶ美しい景観をもった場所だ。
”シャルトリューズ”から陸へと続くタラップが下ろされ、皆順々に町へと降りて行く。
「リィちゃん?」
船員の半数は船に残して行くのだが、リィは当然町に出る側だ。
金は船団の貯金から払われるものの、細かい種類を選ぶのは彼女自身なのだから。
「どうしたの……」
船から降りようとしないリィを不思議に思い、アイは駆け寄った。
「酔ったかしら?」
アイは少女の額に手をあてた。
熱い。
驚いて、思わず手を離してしまった。
「リィちゃん……大丈夫?」
「ごめんなさい、なんだか急に、気分が……」
喉から辛うじて絞り出した声で言うと、リィはふらりと前面に倒れ掛かった。
アイが体を差し出し、彼女のことを支える。
「すごい熱だわ。……移ったのかもしれないわね、誰かさんのが。遠くにいても繋がってると言うか」
「……そうかもしれないです」
まだ倫敦にいるであろう青年の顔を思い浮かべ、リィは力なく笑った。
カリタスやかおるらも気付き、同じように駆け寄ってくる。
「ギャル、平気か?」
かおるが平淡な声で言う。
彼は決して冷淡な人間ではなく、単にぶっきらぼうなのだ。
「はい……。ごめんなさい、迷惑掛けてしまって」
「何、病気の間はあまり物が食べられんから、食費が浮いてむしろ助かると言うものだ」
「よくわからんフォローをするな、君は」
カリタスが疲れた顔でそう口を挟んだ。
「しかしこれじゃ、今日は船選びをするのは無理だな。宿に行って休んでいた方が良いと思うよ」
「はい」
リィ以外の三人の船長は、顔を見合わせた。
「ま、お陰で長く観光をする時間が取れると言うものだ。私も久々だしな。かおるさんとアイさんも、ここのことはそう知らんだろう?」
「ええ。殆ど初めてみたいなものですよ」
カリタスの声にアイがそう返す。
かおるは返事をしなかった。
(ベルゲンか。良い町だ)
倫敦よりも、のどかな雰囲気に包まれた町。
心地の良い空気は、彼に安らぎと、僅かな寂寥感を与えた。
(――彼らが、喜びそうな場所だ)
壊れて開かなくなった引き出しがギシギシと揺れて、顔を覗かせるものがある。
(いや、向いてないか。曇り空だからな――この町も)
覗かせたそれに、かおるは躊躇いながらも手を伸ばして。
けれど直ぐに、それを強引に閉まい込んだ。
全てはもう終わったことだ、と。
「私らだけで、先に造船所に行くとすっか。ギャルはその間に船の名前でも決めてるってことで」
普段と変わらぬ調子で、かおるは声を吐いた。
「あっ、そうか! 名前……」
半分目を閉じかけていたリィが、はっとして声を出した。
「リィちゃんったら、忘れてたわね。それに船員もね、ちゃんと選んで雇わないとね」
「うむ」
アイの声に、かおるが大きく頷く。
「とりあえず船名は漢気溢れるやつで頼む」
「……女ですもん。私」
こうしてリィを宿屋に残し、かおる達は三人だけで造船所に向かうこととなった。
「本来なら私の仲間にも一人、造船を生業としてる男がいるんだがな。イスラムの方に出かけたまま、帰って着てないんだよ」
「イスラムですか……」
遥か南方の地、イスラム。
カリタスからその名を聞かされて、かつてフェレットらとアラブを旅した記憶が甦る。
イングランドからすれば向こうは敵地。
下手に侵入しようものなら即座に命を落としかねない危険な地域。そもそも普通なら侵入を考えたりはしない。
それでも忍び込むことになったのは、かおるの「気が向いたから」という一言のためだった。
そしてそのたった一度の旅で、自分がイスラムに抱いていたイメージは何もかもが覆った。
イングランドのような洗練された町並みはそこには無かったが、砂漠性の乾燥した気候の元で見るものは何もかもが新鮮であった。
リィちゃんが船を持ったなら、みんなでまた行ってみるのも悪くないな、とアイは思った。
ベルゲンは倫敦に比べれば町の規模は小さい。
それでも慣れない場所だけあって、目的地に辿り付くまでは大分時間を要した。
造船所も倫敦のそれに比べると幾分か規模が小さく、かおる達は多少の不安に駆られる。
「大丈夫大丈夫、親方は並の腕じゃないって評判なんだ。それより、どんな船を造ってもらうかは決まってるの?」
「あー……どうでしょう」
アイとかおるは顔を見合わせた。
そう言えばまだ、一度も話し合っていない。
「ガレーで良いんじゃ」
かおるの声はなげやり気味に思えたが、本心から吐いたものだ。
数少ない漕船仲間を増やしたいらしい。
「にしても、リィちゃん本人に聞いてみないとね。どうしましょう、やっぱり宿まで戻りましょうか……」
「先に親方に会いたいな。ちゃんとした技術者の意見も聞いた方が良いだろう」
カリタスが言う。
造船所はもう目と鼻の先だし、ここまできてむざむざ引き返すこともない。
既に辺りでは何人もの人間が、船の修理、製造にあたっている。
「うーむ。見た感じ、ここらにはいないな」
ぐるりと見まわした後、カリタスは呟いた。
「他の方に訊ねてみたらどうですか?」
「……親方以外に知り合いはいないんだが、訊いてみるか」
と、カリタスは付近にいた若い造船師に近付いて、
「ここでウォルターと言う人が働いてないか?」
そう訊ねた。
顔にたくさんのにきびがあるその造船師は、ああ……と浮かぬ表情に変わる。
「ウォルターさんのお知り合いの方ですか? ご用件は?」
「船を造ってもらいたいと思ってるんだが」
「申し訳無いですが、今はちょっと難しいと思います」
「どうしてだ? 私はあの人とは以前からの知り合いなんだ。会わせてもらえないだろうか」
「そう言うことでしたら。ウォルターさんは今、あそこにいますよ」
その若者が指差した先には桟橋があって、男が釣りをしているのが見えた。
ああ休憩中なのか、とカリタスはぽんと手を打つ。
若い男に軽く礼を言い、一行は桟橋のほうへと歩いて行った。
三人が傍まで駆け寄っても、そこにいる釣り人は振り返ろうともしない。気付いていないのだろうか。
「親方、お久しぶりです。カリタスです」
背後から呼びかけると、ひどくゆったりとした動作で、その男は振り返った。
年齢は一行より大分上、五十歳に差し掛かろうかというあたりで、精悍な顔つきをした男だった。
一目見て、頑固そうだ、とアイは単純な感想を抱いた。
男はしかし振り返りはしたものの、カリタスのほうを見てぽかんとしている。
もしかして、覚えられていなかったのだろうか。
「ああ、以前倫敦で会った……久しぶりだね」
覚えていない訳ではなかったようだ。
それなのに、やたら反応が鈍い。
「幾度と無く会って、酒を酌み交わしたりしたではありませんか。親方、元気そうで何よりです」
「これでも元気なんだ」
後方からかおるがぽそりと響かせ、アイに横腹を小突かれる。
幸いウォルターには聞こえてなかったようだ。
「よくわざわざ、こんな所まで来たね。一体何の用があってベルゲンを訪れたんだい?」
眼光は鋭いのに、穏やかな口ぶりであった。
それがまた、余計に怠惰な雰囲気を増長させている。
「実は、親方に船を造ってもらおうと思って……」
「ああスマン。今は出来んのだ」
カリタスが口にするや否や、ウォルターはきっぱりと言った。
「ど、どうしてです?」
「ワシはもう、一つの船を造りあげる気力なぞ、持ち合わせてはおらんよ」
言葉の意味、腑に落ちなくはない。その場にいる三人の誰もがそう思った。
かと言ってそれを受け入れては、本当にただの観光旅行で終わってしまうことになる。
「親方、以前に会ったのはたった一年前のことじゃないですか。この一年の間に何があったんです? 傍目には、衰えなど全く感じませんよ」
どうにか食い下がろうと、カリタスは息をつかずに話し続けた。
だが、次の一言は三人の気力をも失わせるほど、絶大の破壊力を持っていたのだった。
「女にフラれたんだ」
唖然とする一行。
互いの顔を見合わせて、再び正面に向き直って、表情はまだ固まったまま。
「ふうむ……」
反論の声を失いつつも、カリタスは思い出すのだった。
そう言えばこの人はかつて倫敦で造船業を営んでいた時から、女好きとして有名だった。
元々は別の町で働いていて、町中の女性に手を出した挙句に男女両方から激しく恨まれることとなり、倫敦に移らざるを得なくなったのだとか――酒を酌み交わした時に、本人からそんな昔話を聞いたことがあった。
好きな女がいて、その女性をイメージすることにより、一つの芸術として船を造りあげるのだ……とも言っていたような。
3
ベルゲンの町は、落日を迎える。
その日、三人は意気消沈したまま宿へと帰りついた。
数人の船員と共に宿で休んでいたリィ、事情を聞くなりどうともつかぬ微妙な表情になるのだった。
どちらかと言うと、ちょっと怒っているように見える。
「女の人の敵ですね。振られたからって船が造れなくなるなんて、身勝手な事情だわ……」
風邪のせいで枯れ気味の声で、ぼそぼそと言うリィであった。
「確かに言う通りでは有るわね。でもそんな人のほうが素晴らしいものを造れるんじゃないかなって、私思うのよ」
「……そうですか?」
アイの言葉に、リィは心からの疑問の声を投げかけるのだった。
「イメージでしかないんだけどね。それになんか、そんな訳のわからない自分なりのポリシーを持ってる辺り、フェレさんと被っちゃってね」
「そうですかぁ……?」
「うん。そうよ」
アイはふふふ、と笑った。
自分の想いを見透かされたのだろうかと、リィは思わず顔を赤くする。
「しかし腕は確かだよ、親方は。かつて倫敦で作ったキャラベル船を、一般価格の三倍の値段で買った客がいた程だ」
カリタスが言う。
「三倍! どうしてそんなに高くなったんですか?」
「それだけ出来が良かったってことだろう。おそらく」
カリタスの答えは曖昧だった。
自分が買ったわけでもないので、そこまで詳しくは知らないらしい。
「リィちゃん、どうする? いっそ倫敦まで戻って、そこで普通の造船師の人に造ってもらうって手段もあるけど」
アイに訊ねられて、リィはベッドから天井を見上げて、考えた。
「私、風邪が直ったら会いに行ってみます。造って頂くんですから、やっぱり一度挨拶しないと」
「じゃあ、ウォルターさんで良いのね? 造ってもらう人は」
「会って失望しない限りは、ですね」
「そうね。会えば全部わかるわね…ところで、かおるさんは?」
「部屋には来てませんけど?」
「あら、おかしいわね。……また”永久機関”の船員達に、酒場に連れてかれたのかしら」
アイの予想は外れていた。
かおるはその頃、宿から少し離れた場所にて、一人の男と遭っていたのだ。
この町の夜風に吹かれてみるのも悪くないと、独りで町中をぶらぶらしていた、そんな時だった。
もしも此処にフェレットがいたなら、アイがいたなら。
彼らが同じことを思ったであろうことは間違いない。
”こんな表情をしたかおるさんは、今までに見たことがない”と――。
「お前が、何故此処に居る……?」
彼が普段、心の奥底に閉じ込めて、決して覗かせようとしないもの。
彼自身、けっして振り向きたくはない過去の記憶。
目の前にいる男の顔を見たことによって、それらが全て溢れ出て行こうとする。
本人の意とは別に、溢れ出て行く。
「久しぶりだな、俺の顔を覚えてるか」
「ああ。忘れる訳がない」
お前の名は……、
かおるは声の後、少しの間を置いた。
「――HIGEだ」
「変わってねぇな、貴様」
男の顔面の下半分は、まるで生い茂る雑草の如くに髭が覆い尽くしている。
左のこめかみの辺りから頬にかけて、そこには髭は無いが……白い肌を、酷い火傷の痕が黒色へと変貌させていた。
そこだけ見れば、人種そのものを見間違えかねない程に。
「ウルフガングとか言う海賊をやっつけたらしいじゃねぇか。お前、何時から正義の味方なんぞやるようになった?」
かおるにHIGE、と呼ばれたその男の表情が、僅かに厳しいものに変わる。
年齢はかおるより十近くも上に見えるが、その視線は対等。
「成り行き上だ。」
「まさかあんなチンケな海賊を殺して好い気になってるんじゃねぇだろうな。”海狼”よ」
「アー、ここより北に住んでるインド人が付けた名前だっけ、それ」
「その異名がついた理由を詳しく説明してやろうか? 一から解りやすくな」
「よせ」
かおるの瞳に、刃気が帯びる。
ここが町中じゃなかったなら、本当に刃を取り出していただろう。
だが、不穏な空気が漂ったのはほんの一瞬のこと。
殺気を自らの力で制御し、落ち付いて言葉を続ける。
「……なんでオッサンがここにいるのか知らんが、私はもう一緒に行く気はないよ。終わった話だ、もう」
「まあ、待てよ。たまたま会ったのも縁って奴だろう。せめて話をもう少し聞くんだな。きっと後悔はせんどころか、まず間違い無く俺様に感謝する事になるぜ」
「カンシャ、ね」
かおるはそれ以上何も返そうとはしなかった。
封じ込めていた記憶――この男と会話するだけで、それは瞬く間に甦っていく。
記憶が、生々しいものへと変わっていく。
ここで止まれば、何かを思い出した代わりに、何かを忘れてしまうかもわからない。
だが、この男は嘘を口にする人間ではない。
「酒でも飲みながら……と言いたい所だが、今のお仲間さんに勘付かれると厄介だろう。お前に取ってもな」
くくく、と男は笑う。
”仲間”というその言葉に、見下したような響きが混じっていた。
(……私は、大丈夫だ)
蓋をしておいたその中身が溢れ出ても……それは過去の記憶でしかない。
今自分の傍にある大切なものは、失われはしない。
男に言われるがまま、かおるは海岸線のほうへとゆっくり歩いて行った。
頭には何人かの、仲間の顔が浮かんでいる。
ああ、またそんなに酒を飲んだりして。
あの二人は結局のところ、どう転ぶんだかなぁ。
年月を経て、自分に取って欠かせぬ存在となった愛しき仲間達。
彼等の顔が浮かんで、そして消えた。
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- 2005/07/04(月) 03:47:00|
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