航海タイム

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。




  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

第二十二章 永い夢(後編)

4

 嵐の最中、”コンスタンティア”は陸にも降りることが出来ず、海中に取り残されていた。
 ”フォスベリー”を始めとした船達がまとまって移動していったのは、辛うじて確認出来てはいた。
 しかし運悪く、交戦していた敵船に阻まれてしまい、それを追うことが出来なかった。
 とは言え向こうは向こうで、これ以上戦闘を続けるつもりはないらしい。
 嵐の中で戦いを続けることは自殺行為にも等しいとわかっているのだろう。
 暗闇に包まれた視界の中、その船団は何処かへと去って行った。
 この海域から姿を消したのは敵の船だけでなく、”コンスタンティア”を除く全ての船だ。
 まるで闇の中に落とされてしまったかのように、辺りには何も見えない。
 方向感覚さえも狂わされてしまい、仲間の向かった先はもう完全に見失ってしまった。
(フェレさん達は、何処へ向かったのかしら?)
 落ち続ける、鉛色の粒。
 重々しいその調べは、何もかもをも押し潰してしまいそうな程。
 とりあえず嵐が静まるまで、帆をたたんでこの場で待つべきか。
 しかしもう食料の残りも心許なくなっている。
 嵐が直ぐに止むとは言い切れないし、ゆっくりでも町を探して進むべきか。
 それでも、今直ぐには進めないだろう。
 下手に動けば帆が千切れてしまいそうな程に、風は激しい。
 思えば今までの航海で、たった一隻残されたこどなど無かった。
 ”フォスベリー”が、”シャルトリューズ”が何時だって傍にいたのだ。
 リィは今再び、長く味わっていなかった孤独感に苛まれていた。
 長く味わっていなかった?
 この空虚さをそう表現した自らの心に、リィは疑問を抱いた。
 違う……違うはずだ。
(フェレさん達と出会ってから、自分のことを孤独だなんて思ったことはなかったはず)
 それなのに……覚えがある。
 長い時間雨に打たれ続けた後のような、凍えてしまいそうなこの気持ちに。
 なら――彼らと出会う、その前の記憶か?
 震えて止まないその肩を、リィは自らの両手で強く握った。
(大体……失礼な話だわ。フェレさん達がいなくても、こんなにたくさんの仲間がこの船にはいるのに)
 そう、このたくさんの仲間達が乗る船の長は私。
 今私がしっかりしなくて、誰が正しい道を示すことが出来ると言うのだ。
「帆を畳んだまま、嵐が静まるまでここで待ちましょう」
 リィはそう指示を送った。
 食料が減ってきているとは言え、まだ数日分はある。
 嵐は幾ら長引いても一、二日だろうし、危険が去った後でゆっくりと陸の探索をすれば良い。
 フェレット達も陸に沿って進んでいるのはまず間違いないのだから、陸の探索は同時に彼らの行方を追うことにも繋がる。
 そのリィの判断に、反対意見を口にするものは一人としていなかった。
 決して間違った判断ではなかったのだ。
 しかしそこに一つの偶然が重なって――。

5

 嵐が収まったのはそれから二日後のことであった。
 ”コンスタンティア”の副官を務める女性、リズウィー。
 彼女が目を覚まし、甲板へ向かうと――異変はそこに、目に見えて現れていた。
 水夫達は交代で休みを取りながら航行をしているのだが、甲板には数えられるだけの人数しかいなかった。
 二十人に満たない数だ。
 これではぎりぎり船を動かせはしても、極端に速度が落ちてしまう。
「どうしたの? 他のみんなは船室に行っているの?」
 付近に居たメレディアと言う名の船員に訊ねる。
 彼女は倫敦で一緒にこの船団に加わった、同期の仲間だ。
「リズウィー! あなたは平気なの!?」
 大きな声を返されて、リズウィーは半開きだった瞳を思わず見開いた。
「平気って、何が?」
「身体の具合は何ともないのっ」
 重ねて疑問系の響きを持った言葉。
「何ともって……」
 リズウィーは両手で、自らの身体にぺたぺたと触れてみた。
「別に何も?」
 きょとんとした顔で言う。
「良かった」
 メレディアは本当に心から安心したようで、リズウィーの両肩にその両手を触れさせると、ふうっと長い息を吐いた。
「大変なことになってるのよ……。みんな、急に熱を出して、倒れちゃって……」
「えっ」
 本来の居場所に皆がいないのはその為か。
 のほほんとしていたリズウィーの顔は、一瞬にして不安に侵食された。
「メレディは平気なの?」
「今のところは。けど、わからないわ」
「わからない?」
「だって、いきなりみんな倒れたのよ。伝染病の類かもしれない。だとしたら……」
「伝染病……」
 その言葉を聞き、リズウィーは身の毛を弥立たせた。
 たった一隻の船の中で、病人を隔離することは難しいだろう。
 このまま病気が皆に感染していき、そうして――。
 最悪の光景が脳裏に浮かんで、リズウィーは思わずつぶらなその瞳を閉じてしまう。
「船長は……船長は何処に居るの?」
「自分の部屋で眠ってるわ」
 まさか船長もっ?
 リズウィーはそう声を上げようとした。
 しかしそうする前に、メレディア?はこくりと頷く。
「船長が一番、症状が酷いの。ずっと寒気がしているみたいで……。何を食べても吐き出してしまって」
 平静を保っていた声が少しずつ、震えを帯びていく。
 それは症状の深刻さを物語っていた。
「私、行って来る!」
 即座に振り返って、リズウィーは船長室へと走って行こうとする。
「駄目! 今行ってもどうにもならないわ!」
 引き止める声も聞かずに、彼女は揺れる船の上を疾走していった。
 思い立つと冷静さが吹き飛んでしまう性質らしく、そのままどかどかと船室へと入って行き。
 木のドアをがちゃりと開くなり、リズウィーは愕然として場に固まった。
「あ――」
 ベッドに眠っているのは、毎日の様に顔をあわせているこの船の長だ。
 眠っていながら、ぜえ、ぜえと大きく音を経てて、息を切らしている。
 白く美しい色をしたはずの顔は熟れた林檎のように赤く染まっていて、一目で症状の重さが見て取れた。
 ベッドの傍に、嘔吐物の溜められた手桶がある。
 海まで吐きに向かう余裕など、とても無いのだ。
「せ……船長」
 リズウィーは色を失ったまま、ただそこに立っている。
 せめて声を聞こうと思って、ここまで来た。
 けれど、こんな状態の人間に下手に話しかけることなど出来やしない。
 ……船長だけじゃなく、他の船員も皆同じ様子だと言うのか。
 この船の状況を改めて認識し、リズウィーは絶望感に駆られた。
 私がちゃんとしなければ……けれど一体、何が出来ると言うの?
 この船にはちゃんとした医者はいないし、病気を治してくれる救世主など存在しない。
 絶望、不安と共に襲い来るのは混乱。
 何もかもを諦めて、その場にしゃがみ込んでしまおうと思った。
 そうしただろう、声が聞こえなかったなら。
「無事、だったのね。良かった」
「船長……」
 僅かに届いたか細い声。
 少し口にしただけで、命の灯火はゆらゆらと揺れた。
「平気ですか、船長……。し、しっかりして下さい」
 しっかりしなければいけないのは私だ、とリズウィーは思った。
 冷静でいなければならないのに、意に反して、瞳からはぽろぽろと涙が零れる。
「病気……伝染るかも、しれないわ。直ぐ……外に、出て」
「けれどこのままじゃ、船長が……」
 会話をしている最中でも、リィの顔は全く動こうとしなかった。
 ただ真上、天井を見上げたままで固まっている。
「私は……」
 あまりに弱々しい声だった。
 しかし、それでも。
「大丈夫、だから。……だから」
 傍目には感じられなくても、そこには決して折れることの無い強い意思が込められていたのだ。
 大好きなあの人に、あの人達に再び会うまでは、死ぬことなんか出来ないと。
 まだ記憶だって、何も戻っていない。
 こんな何もかもが中途半端な場所で終わる訳にはいかない――と。
 その想いこそが、今にも消えそうな命の灯火を強く支えていた。
「リズウィー。お願い、このまま陸沿いに進んで……。みんなが無事で居られるうちに、何としても町を……」
 力を振り絞り、リィはその瞳を副官の少女へと向けた。
 リズウィーは瞳を潤ませながら、自らが慕う船長の手を取る。
「解りました。絶対に……町まで辿り着いてみせます。船長は安心して休んでらして下さい」
 絶対に。
 絶対にだ。
 心の中で彼女はそう何度も言葉を反芻させた。
 自分が今やらなければ、二度と取り返しのつかないことになってしまう。
「一度、みんなの様子を見てきます。船長のことも度々見に来るようにしますから」
「うん……」
「頑張ってくださいっ、船長!」
 リズウィーは言うと、踵を返して再び甲板のほうへと走っていった。
 誰もいなくなった空間で、リィはゆっくりと瞳を閉じた。
 そして考える。
 大切な人々のことを、改めて。
 それが自らの力と変わることを彼女はよく理解していた。
 しかしそれでも、症状は一向に軽くなる様子を見せなかった。

 時間が経っても、空が明るくなって暗くなっても、まるで何もかもが氷に閉ざされてしまったかのように、寒気がひかない。
 体内の何もかもを吐き出しても、まだ吐き気がやまない。
 そして全身の軋むような痛み。
 ゆっくりとだが確かに、意志の力が押し戻されていくのを感じていた。
 絶対に、こんな所で……そう思っていた心がやがて”もしかしたら”と変わり行く。
 かつて無い程の苦しみ。
 全てが渦の中に吸い込まれていくような、そんな印象であった。
 ある線を越えたところで、痛みがふっと消え失せる。
 それさえも、吸い込まれてしまったのだろうか。
(私は――)
 その渦はこの幸せな記憶をも奪い去ってしまいそうで、
(死ぬ。死ぬのかしら?)
 そして最後には命さえも飲み込んでしまうのだ。
 微かな意識の中でリィはそう思い、心から恐怖した。
 いっそここでこの命が失われてしまっても……彼らとの幸せな思いを胸に抱いて死ねるのならば、それは最悪の出来事ではない、のかもしれない。
 けれど、まるで何もかもが失われていく様で。
 ――初めて彼らと出会ってから、北海に向かうまでの間で半年。
 かおるさんが居なくなって……それでも半年の時間を、倫敦で過ごした。
 そしてかおるさんを捜す為に東地中海へと赴き、いよいよ彼の行方をつかんで今度はアフリカへ。
 全て合わせても、時間にしてみれば僅か二年間だ。
(嫌だ。忘れたくない)
 そう、強く願った。
 何故ならその二年間が、私にとっての全てなのだから。
 それさえも失って、そして死すのなら……本当に、何も残らない。
 失くしたくないと、リィは必死に、薄れていく思い出を手繰り寄せようとした。
 今も船にいるかけがえの無い仲間達の顔を。
 航海の途中に命を落とした、大切な人達の姿を駆け巡らせた。
 何故そうしたのか、やがてその理由すらも忘れてしまい、ただ思い出だけに全てを委ねて。
 自らの意思を抜け出して、思い出を求める心は中空を彷徨い続けた。
 迷路のようになった思考を潜り抜けて、それは辿り着いたのだ。
 ずっと開かれずにいた、一つの扉に。
(何……?)
 ゆらゆらと揺れる船の上、その船室。
 自分は重い病に侵されて、立つ事も出来ずにただ、船室の天井だけを見上げている。
 この光景に見覚えがある気がしたのだ。
 既視感というやつだろうか。
 それを抱いて、リィは不思議に思った。
 まだそこまで体力が残っていることにも驚いたが。
(こんなこと、二度と経験したくないことなのにね)
 思いながらも、奇妙な感覚はそのまま続く。
 まるで自分が今ここで寝ていて……もう一人、別の場所にいる自分を眺めているような気分だ。
 もっともそのもう一人も、同じようにベッドで寝ているのだけど。
同じように?
 いや、僅かに違う。
 眠っているその姿……今の自分よりも、髪が短い。
 服装だって違う。
(昔の……私?)
 一縷の希望を込めて、リィはそう判断する。
(あっ)
 眠っていたそのもう一人の自分が、立ち上がった。
 彼女を見つめる視線もそれを追って、船室の外へと向かう。
 そこで、一人の少年の姿を見つけた。
 直ぐ外で待っていた少年。
 大きく優しい瞳を持っていて、髪の毛はもう少しで肩に付きそうな程の長さ。
(フェレさんに少し似てる……)
 髪の色は金髪だ。そうでなければ、本当に彼とそっくりだっただろう。
 私はその少年のところへと、ゆっくり近付いていく。
 立ち止まって、何かを話している。
 何も聞こえない。
 ただ一つ、解ったのは。
 優しい顔をしていた少年の顔が――歪んだ、ということ。
 笑ったのではない。
 醜く歪んだ、と今の彼女の心はそう表現をした。
 湛えているのは怒りだろうか?
 そうして、少年の手が伸びる。
 その場所にいる私の体を掴んだ。
 やめて、とリィの心は叫ぶも、何も効果を及ぼさない。
 取っ組み合いを始める、二人。
 私と……その少年だ。
 やはり男だけあって、少年のほうが力が強いのだろうか。
 最初、海を背にしていたのは少年のほうだったのに、体勢が入れ替わる。
 直ぐ真後ろには海、というところまで追い詰められた。
 それでも少年は力を緩めない。
 このまま、海へと落とすつもりなのだ。
(誰もいないの? 他に……)
 思っても、視線を動かすことは出来ない。
 そして。
 動かせなかったはずの視線が、ふっと替わった。
 一瞬灰色になって――それは恐らく空だ。
 空から視線が降る。
 次に飛び込んできたのは、黒ささえも入り混じらせた濃紺色。
(ああ)
 視界を満たしたのは海。
 つまり……落とされたのだ。
「あぁっ!」
 視点はまたそこで、切り替わった。
 目の前に有るのは、船長室の扉。
 はっとして、リィは四方を見回そうとする。
 だが、激しい痛みに見舞われてそれが出来ずに、再びベッドに倒れ伏してしまった。
(――夢?)
 自分は今、ベッドから跳ね起きたのだ。
 海に落とされてはいないし、この部屋には誰もいない。
「なん、て……嫌な夢、なの」
 それにリアル過ぎた。
 何もかもが、まるで本当に起こったことであるかのように。
 ふと気付いて、右手をその瞳に触れさせる。
 そこからは涙が溢れていた。
(最近、泣いてばっかりだわ。私は)
 嫌なことばかりが続いたから? そうではない。
 あの時リスボンで流した涙は、嬉しさのあまりに溢れたものだった。
けど、この涙は違う……。
 本当に辛かったのだ。
 あの夢は。
 ――あの時は。
 大した衝撃もなく、或いはその衝撃を起こさせる体力が無かったかもしれないが。
 リィはそれを、かつて実際に起こったことだとして認識した。
 海に落ちて、そして恐らくは、あの砂漠に漂着したのだろう。
 フェレさん達が私を見つけてくれたという、あの名も無き砂漠に。
思い出したのだ。
 失って、もう戻らないと思っていた記憶の欠片。
 今この海で、突然に返ってきた。
「あの子……」
 ぼそり、とリィは呟いた。
 身体はさっきよりも少しだけ、楽になっている。
 病魔が退散した訳ではないだろう。ただ少しだけ波があって、今はその合間にいるのだ。
「あの子、名前は……名前は何て言ったかしら……?」
 ぶつぶつとそう口にして、そしてまた口を閉じてしまう。

 名前を思い出すまでは、まだ幾らかの時を要すこととなる。
 そして思い出した時、彼女はどうしようもない絶望感に駆られるのだ。
 二年間の幸せな記憶――その全てがまるで夢だったかのように感じられて。
 薄れていって。
 いっそ永遠に覚めることのない夢で有ったならと、彼女はそう思う。

6

 陸に沿って海を行く船団。
 食料と水の残りも心許なくなっていたが、それが尽きる前に町へと到着することが出来た。
 町の名はサントドミンゴと言い、カリブ海に到達してから初めて訪れた、人々の住む場所だ。
 周囲は山岳に包まれており、決して暮らしやすい所では無いだろうが、しかし暖かで暮らしやすそうなその気候は心を朗らかにさせてくれた。
 面々は到着して宿へと向かい、そして皆泥のように眠った。
 それは至福の時であった。
 心も身体も何もかもを落ち着けて、この大地と一体化してしまったかのように、ずっと眠っていた。
 そしてサントドミンゴへと辿り着いてから、三日が過ぎて。
「あら?」
 石造りの宿、その一室の扉を開き、アイは中を見回した。
 カリブでは天然痘や麻疹などの疫病が流行っており、疫病によって滅んだ民族もいた程、猛威を振るっているのだと出航所の役人から聞かされた。
 この辺りの建物はヨーロッパに比べて簡素な造りのものが多かったが、衛生を考慮してなるべく良い宿を選んだのだ。
「今朝まではまるで丸太みたいになってたのに……一体何処に行ったのかしら」
 そこにいるはずの青年の姿が消えている。
「気晴らしに良いと思って、散歩のお誘いに来たのに。ま、いないんじゃしょうがないわね」
 折角カリブくんだりまで来たのだ。
 今日はこの地の酒の味を楽しむのも良いか。
 アイは一人そう思い、また扉を閉じた。
 閉じてから、ふと考える。
(にしても、かおるさんもいないのか。もしかしたら二人で何処か行ったのかしら)
 あの人の行きたがるような場所と言っても即座には思い浮かばないが、フェレットならば何となくは解る。
 誘いに来るよりも前に、既に散歩に出かけて行ったのだろう。
 そしてアイもまた、二人の後を追おうと考える。
 二人が共に行動しているという根拠は無いけれど。
 しかし酒の誘惑は振り解くことが出来ない程に強い。
(幾つか持って行って、ピクニックにでもするか)
 自然とにやりとなって、アイは外の光景へと繰り出していった。

 サントドミンゴの郊外、数分ほど歩いたところにフェレットは独り佇んでいた。
 丁度良い岩肌を見つけてそこに座り、何となしに風景を見つめている。
(最近、こんなんばっかだな。僕は)
 アフリカ、ルアンダの町で奇妙な仮面を被ったかおると再会して、しかし連れて行くことが出来なかった時。
 あの時も砂浜で独り、いじけていた。
 今は眼前に海は無いけれど、やっていることはまるっきり同じだ。
 いや、少し違うか。
 あの時とは違って、アイさんはここには来てくれないだろう。
 町を出て適当にほっつき歩いたこの場所を発見出来る筈など無いのだから。
 ――つまり、ただ独りでずっといじけていることしか出来ないのだ、ここでは。
(しかし)
 フェレットは思った。
 何故、僕らは何時だって、完全な状態ではいられないのか。
 パズルのピースが一つ見つかれば、一つ失くなってしまう。
(僕がいてアイさんがいて、リィとかおるさんの二人がいる。それが僕らの在るべき姿だってのに)
 越えてきた海を振り返ってみれば、その完全な状態でいられたのは、最初にリィと出会ってから北海に向かうまでの半年足らずの間だけであった。
 だけどこれからはずっと、みんな一緒でいられると思っていた。
それなのに。
 溜息をついて、フェレットは空を見上げる。
 まだ明るい色をしているのに、吹く風は僅かに冷えたものへ変わりつつあった。
 帰るのが面倒だなと思って、また視線を下ろす。
「そんなところにいると、風邪引くよ」
 それは唐突に。
 声が、斜め後ろから届いてきた。
 振り返らずとも解る、かおるの声だ。
 フェレットは驚愕した。
 この人が、たとえ表面上だけでもここまで優しい言葉を吐けるとは、と。
 しかし振り返るなり、僅かに覚えた感動は何処かの海へと吹き飛んでいった。
 かおるは直ぐ真後ろで、しゃがみ込んでいる。
 視線の先にあるのは自分ではなく、地面に佇む一匹の生物。
 人間ではない。
 それは爬虫類だ。
 怪訝な顔をして、かおるの方を見返していた。
(とっ、トカゲ……?)
 フェレットは再び驚きを覚えた。
 自分が座っている直ぐ傍の場所に、あんなに大きなトカゲが居たとは。
 体長一メートルはあるし、スペインに住んでいたままだったら、まず見ることは出来なかった。
「もしかして、今の台詞は僕じゃなくて、そのトカゲに言ったんスか……?」
「あれフェレッチ君いたんだ」
「大分さっきからね」
 言葉を失いつつ、こっちのほうがらしいなとフェレットは感じた。
 そして何となく佇む二人。
 トカゲは物珍しげにこちらをじろじろと見ていたが、やがて岩陰から去って行った。
「散々探したけど、結局”コンスタンティア”は見つからなかった。無事なんですかね、リィ達は」
「わがんね」
 かおるはまごうことの無い本音で返す。
 何を言おうが、気休めにもならないだろうと知っているから。
「ただ、まあ」
 少し間隔を開けて、かおるはぼそりと言った。
「これで何もかもが終わり、と言うことは無いと思う」
「と言うと……?」
「勘なんだけどね」
 予想していた返事だったが、フェレットはそれでも脱力感を覚える。
「そりゃ、僕もそう思いたいけど……」
「いや、ほら私ってさ」
 その勘の根拠を口にしようとするかおる。
 フェレットは自ら言葉を止めた。
 奇跡に縋りつくような思いで、続きを求める。
「根っからの冒険者じゃない。だから冒険者としての勘がね」
「はあ、まあ」
 滅多に起きないから、それは奇跡と呼ばれる。
 期待した僕が馬鹿だった、とフェレットは素直に思った。
 かつては自称海賊であったが、本当に過去に海賊をしていたことがバレたからやめたのだろうか。
 気になりはしたけれど、わざわざ訊くことでもないだろう。
 そしてかおるの言葉は途切れた。
 本当にそれだけの理由だったらしい。
「でも、リィは無事でいますよ。きっと」
 そう口にしたものの返事が無かったので、暫くしてから自分で言葉を続けた。
「無事でいなきゃ、いけないんです」
 人の命は何時だって、突然に終わる。
 残された人々はそれをただ悲しみ、受け入れなければならない。
 航海の途中に大切な人間を幾度と無く失ってきた――しかし今回は、今回だけは起きてはならないことなのだ。
 もしも彼女がいなくなってしまったら、間違いなく自分の心はそれを受け入れられないだろう。
 張り裂けてしまうだろう、二度ともう元に戻ることが無い程に。
「最後まで面倒を見てやらないといけないんですよ……僕が。それがあいつをあの砂漠で拾ってきた、僕の責任なんです」
 フェレットはかおるの方を見ない。
 ただ自分の思いを改めて自身の心に再認識をさせるかのように、言葉を吐いた。
 それを確認した上でのことだろうか。
 かおるの表情に、僅かな憂いが混じっていた。
 思い出しているのは、ノルウェー海に位置するベルゲンの町での出来事だ。
 のどかな雰囲気に包まれた町で、かつての仲間と再会した。
 そして言われるがままに付いて行き……結果として、仲間達を捨てた。
(責任……か。私には言えん台詞だな)
 細い目をさらに細め、かおるの心は寂寥を含んだ声で独りごちるのだった。
「約束したんです。いつかあいつの記憶が戻ったその時は、どんなに辛い過去でも一緒に受け止めてやるからって。それに」
 ……まだ、言っていないこともある。
 フェレットはそう心に抱いただけで、口には出さなかった。
「もしもリィが帰ってこなかったら、僕はどうすれば……」
「帰ってくるよ。必ず」
 フェレットは自身の耳を疑った。
 仏頂面をして隣に座っている人間が、あまりにらしくない優しい声を吐いたからだ。
 アフリカで耳にした覚えもあるが、百回聞いても馴染めないだろうなとフェレットは思った。
「……ン?」
 隣に座る青年、フェレットが目を見開いてこちらを見ていることに、かおるはようやく気付く。
 いきなり慌て出して、かおるは座っている岩から落ちるようにして降りた。
 しゃがみ込み、何かを探し出す。
 つまりは今の言葉に込められた柔らかい響きは、本人の意図するところでは無かったと言うこと。
(素直じゃない人だ、まったく)
 音を立てずに笑みながら、フェレットはその奇妙な光景を眺めていた。
 そして、
「言っとくけど、もうトカゲはどっか行っちゃいましたからね」
ようやく一本返したぜ、と得意気に言葉を放つのであった。
 だが、ここで予想外の出来事が起こる。
「あ、いた! トカゲが!」
 少し先の大地を指差して、かおるは声を上げた。
 意外な顔をしてフェレットがそれを追うと、そこには確かに全身を緑色で包んだ生物がいた。
 爬虫類らしくない器用な足取りで、ずかずかとこちらに歩いてきている。
「獰猛そうだ。見つかったら酒瓶で殴り殺されるかも」
「思いっきりこっち見てますけどね。逃げる準備しないと」
 確かにかおるの言うとおり、両手には鈍器が握られている。
 鈍器の中には、人の魂すらも弄ぶ魔法の液体が。
「こら! 結構探して辿り着いたって言うのに、何て言い草よ!」
 緑の生物ことアイは、いよいよ標的に振り下ろさんとばかりに、両手の酒瓶を持ち上げて叫んだ。
 それを見て、フェレットはただ微笑ましさを覚える。
「よく解りましたね、ここ。考えてみればかおるさんも……」
「冒険者としての勘でね」
「確かに、案外当てになるかもしれないですね」
 フェレットは言った。
 ここは名前すら知らない、町の郊外だ。
 それなのにまるで、自分の家に帰って来たような心持ちになっている。
 僕だけじゃない。
 かおるさんも、アイさんも同じように思っているに違いない。
 そうだ――僕らが長きに渡って築き上げた家なのだ、この船団は。
 今、大事な家族の帰りを、寂しい寂しいと言いながら待っている。

 アイの持ってきた酒と少量のおつまみを手にして、三人は小さな宴会を始めた。
 酒の魔力は、人々の心を幸せにしてくれる。
(僕らは何処にもいかない。だから早く帰って来いよ、リィ)
 そんな思いを空へと飛ばして。
 三人は夜更けまでずっと、そこにいた。

スポンサーサイト


  1. 2006/01/23(月) 03:38:01|
  2. 小説本文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

第二十二章 永い夢(前編)

1

 陸には青、空には青と白のグラデーションが展開されていて。
 時と共にそこに赤色が混じって行き、闇が落ち――また繰り返される。
 一定のリズムで何もかもが展開されていく、そんな空間に彼らはいた。
 普段ならば心地よく感じるその拍子でさえも、ただそれだけが続けばやがて飽き始めるということを知った。
 航海が始まって、二十日。
 早朝に目を覚まし、進む海の先を見やると、そこには何時も通りのあの朝陽がある。
 (陸が見えないのが、こんなに苦痛だとはな)
 フォスベリー”の船長、フェレットは複雑な表情をしてそれを眺めていた。
 彼の感性はその眩い景色を、陰鬱な色だと表現する。
 何年もの間航海を続けてきたが、ここまで長い期間、陸から離れていたことは無かった。
 地中海、北海、アフリカ――何時だって、視界の端には緑色が存在していたのだ。
 そしてそれが心を安らがせる効果を持っていたことに、フェレットは今更ながらに気付いた。
「ねえ、船長! すごい綺麗な朝陽ですよ! あれを見るとまた一日が始まるって気持ちになりますよねぇ!」
 静まり返った空間に響いたのは、新米の水夫であるユーリ少年の声だ。
(大物だな、アイツ……)
 この場でそんな声を出せるのは、間違いなく彼だけだったであろう。
 フェレットは何も返せず、ただ深く長い息だけを吐く。
「あと何日、掛かるんでしょうね」
 後ろから響いた声に、フェレットは親近感を覚えた。
 今の自分の気分に程なく近い、疲れ切った声であったからだ。
「ロッティ、おはよう。お疲れ様」
「おはようございます。船長」
 この船の副官ロッティーナ。
 フェレットが眠っている間、代わりに船の指揮系統を任されていた。
「大丈夫か?」
 彼女は目に見えて顔色を悪くしていて、フェレットは傍へと駆け寄った。
「ええ、寝れば治ると思います。けど」
 その次に彼女が吐いた言葉、それは恐らくこの船団の水夫殆どの言葉を代弁したものであっただろう。
「これがこのままずっと続くと考えると、気が狂いそうです」
「ああ……」
 一人朝陽を見てはしゃぎ回っているユーリ少年には聞こえないようにして、二人は会話を続けた。
「私、方向感覚には自信が有るつもりでしたけど……。ずっと同じ光景ばかりが続くと、もしかしたら全く見当違いの方向に進んでいるのではないかって、そう思ってしまいますわ」
「……僕はなんか、逆方向に数日も進めば、直ぐマディラに戻ってしまいそうな気がするよ。全然進んでないように思えて来た」
「クリストバル・コロン提督の偉大さが身に沁みてわかりますね。私達はこの先にカリブがあると知らされているから良いものの、提督は全く未知の航路を辿って行ったのですから」
「全くその通りだ。たとえ別の大陸と勘違いしててもな」
 球体であるこの世界は、ヨーロッパ、アフリカ、アジア(インディアス)の三つの大陸からなるものだと、誰もが思っていた。
 ヴァスコ・ダ・ガマが発見したインド大陸へと向かう別の航路を開拓すべく、コロン提督は西から回ってインドに行こうとしたが、しかし世界は彼の予想を上回る程に広大で、未知に包まれていて。
 結果インドではなく、新たな大陸へと辿り付くことになった。
 それはこの海原を駆け巡る航海者達にとって、興味の尽きない話であった。
 世界には――この蒼き大地の向こうには、まだまだ誰もが踏み入れたことのない光景が眠っているのだと教えてくれたのだから。
「たくさんの人が亡くなったんだろうなあ、カリブに行く為に。僕らはどうなるんだか」
「船長らしくないですわ。よしてください」
「ああ、そうだな。ごめん」
 話を続けるに連れて、フェレットはまた忘れていた疲労を感じてくるのであった。
 いっそこのままもう一眠りしてしまいたいくらいだ。
「船長」
「ん?」
 少し、ロッティーナの口調が変わった。
 僅かに力が篭もった声になっている。
「たとえどう思っても、船長は弱音を吐いては駄目です。知らない場所への旅こそ、航海の醍醐味なんでしょう?」
「ど……どうしたの、急に」
「根拠がなくても”何とかなる”って、しょっちゅう仰ってるではありませんか。今回もそう言ってらして下さい、貴方は。その方が船長らしいです」
「うん。そうだな」
 心では、そう言われてもな、と思っていた。
 しかし確かに船長である自分が自信を持てなくなれば、船の水夫の誰もがへこたれてしまうだろう。
 フェレットはまだ眠気の抜けない身体に言い聞かすようにして、大きく伸びをした。
「ようし、ユーリ」
「はい、何ですか? 船長」
「今日は釣りを教えてやる! 釣って釣って釣りまくって、それをこの船の食事にするんだ! 大事な任務だぞ!」
 釣竿を二つ引っ張り出してきて、フェレットは自ら糸を海へと垂らし始めた。
「その為に食料の配分を少なくして、水を多めに積んであるんだからな。これからの食事をイワシだけにしない為にも、色々な魚を釣り分けるんだ!」
「は、はい!」
「返事はイエッサだ!」
「イエッサ!」
 緊張した顔で釣竿を握るユーリに、フェレットは持ち方を教えてあげている。
 二人を後ろから見やりながら、ロッティーナは微笑ましい表情になった。
 確かに感じられる生命の息吹。
 この航海のうちにそれが途絶えることは無いだろうと、そう思わされる。
(何とかなる……か。そうよね)
 その光景を見て、ロッティーナはようやく眠る気になれた。
 二人の邪魔をしないようにして、静かに船室のほうへと歩いていこうとする。
 ロッティーナは彼らの邪魔をしなかったが、しかし彼女の行動を阻害する声が、背後から響き渡った。
「ヌオァッ? な、なんだこれは!」
フェレットが叫び、ロッティーナは思わず振り返る。
「船長? どうしたのですか」
「ちょ、竿が……ロッティも来てくれ! 早く!」
 見れば、フェレットとユーリは二人で一本の竿を握っている。
 そうしなければ引きずり込まれてしまう程、巨大な獲物がかかったのだろうか。
「早く!」
 声に引き寄せられるようにして、ロッティーナもまたその竿を掴んだ。
「な……何、これっ! 重い!」
 竿を引っ張る力の強さに驚きを隠せないロッティーナ。
「ちょっと、みんな来て!」
 堪らず他の船員をも呼び寄せる。
 寝惚け眼の水夫達も皆、竿を握った瞬間に驚愕し、眠気など飛んで行ってしまった。
「相当でかいぞ! もしかしてカリブ海だけにしか生息しない未知の魚じゃないだろうなぁっ!」
「まだここはカリブ海じゃないですわ! 船長!」
 興奮を隠せずに声を上げながら、船員達は一丸になって竿を引いている。
 均衡が崩れ、徐々にだが、獲物が上へと持ち上げられていく。
「ぬおおおおお!」
 気合の声が五、六も重なって放たれた瞬間。
 その巨大な獲物は空へと舞い上げられて、朝陽と重なった。
 直ぐに光から外れて、凄まじい音を立てて地面に墜落する。
 凄まじい力を持った獲物のその正体。
 それを見た瞬間、皆は驚き、そして興奮に打ち震えた。
「せ、船長。これ、何の魚……?」
「マグロだよ!」
 ユーリの声に返事をしながら、フェレットはただ眼前の生き物に魅入られるようにして止まっている。
「それも相当でかいマグロだ! ここまでの大きさのは生まれて初めて見たよ、僕も」
 地面に叩きつけられても、それだけで力尽きるはずはなく、マグロはばたばたと暴れている。
 その様子ですら、船員達は興味深く見つめていた。
 それはこの海に出てから長らく見ていなかった、”生”を感じさせる存在であった。
 他にも雑魚はたくさん釣れていたけれど、見慣れた魚達がまるで命を持たぬ人形か何かに思えるほど、彼らは疲弊していたのだ。
 ”フォスベリー”と並行して進む六つの船。
 もしかしたらそこに居るはずの水夫達も全て、死人と化しているのではないだろうか?
 そんな有り得ない疑いさえ抱くようになっていたが、眼の前で生命力を溢れさせて跳ね回るその魚の姿を見せられて、ようやく”そんなことはない”と言い切ることが出来た。
「たまにこう言うのがあるから、やめられないんだよな。船乗りは……」
 口元から笑みが零れるのを抑えられずに、フェレットは言った。
 今までこの海が嫌いになったことは一度だってない。
 けれどその光景に疑問を抱いたことは、幾度となくあった。
 それでもその度にこうして、新たな魅力を見つけてきたのだ。
 そうして繰り返してきたことさえ、忘れていた。
「船長。処分はどうしますか?」
 ロッティーナの声に、にやけた顔をした船長が応じる。
「ま、このマグロの生命力を僕らも分けてもらうとしようぜ」
「つまり……」
「食べる。これだけあれば一月はマグロ尽くしで過ごせるな。生憎うちの船にはちゃんとした料理が出来る奴がいないから、バリエーションが限られそうだが」
「すいませんね。料理がさっぱり出来ませんで」
「いや、別に君のことだけを言ったわけじゃないんだけど……」
「あっ? 失礼しました」
 寝不足のせいか、ロッティーナの声も何処か見当外れなことを言っている。
「そうだな。どうせだから幾つかに等分して、他の船にも分けてやるとしようか。リィ、きっと喜ぶだろうな。かおるさんも飢えてるだろうし、アイさんなんか今頃丁度肴を欲しがってそうだ……」
 他の船を眺めようとして、視線を”フォスベリー”の外へと向けると。
 瞳は鮮やかな色をした景色へと引き寄せられて、そこから動かなかった。
 何もかもを眩く染め上げてしまう美しい朝陽、そしてパステルブルーの海。
 その魅力を忘れていた自分はなんて愚かだったのだろうと、思わされる。
 そう――海も、空も、今は目にすることの出来ないあの大地も。
 それらは皆、在るべき美しい姿のままでそこにいる。
 美しいと思えなくなったなら、それは彼らが悪いのではない。
 ただ自らの感性が、正しくものを見られなくなっているだけのこと。
(カリブまで、あと何十日か……。楽しもう。楽しめるよな、きっと)
 心の中でそう呟くと、フェレットは隣を行く船に声を送った。
 そうだ、この海の色。
 地中海のそれとはまた違った印象を抱かせる。
 右手を海につけたとして、引き上げた時にはその手が青く染まっていそうな程に、ただ、青い。
 近付きつつあるのだ。
 目指す未知の大陸、カリブに。

2

 それから更に数十日も経った日のことだった。
 青ばかりに染め上げられたその光景に、緑色が混じり込んできたのは。
 見つけるなり、船団の面々は次々に歓声を上げた。
 自分達は間違っていなかった。
 僅かに見えるあの大地が、それを証明している。
「あと数日もあれば、陸に辿り着けそうですね! 船長」
 フリゲート船”コンスタンティア”の船上でもまた、眠っていた水夫達もが目を覚まして来て、総出で新たな大地の出現を喜んでいた。
「うん……」
「浮かない表情をしてますね。船長」
「あ、そうじゃないのよ。リズウィー」
 心配させてしまったかと思い、リィは優しい口調でそう返した。
「この辺り、やたら蚊がいるじゃない? それが気になっちゃって」
「言われてみれば……。この辺りは蚊が多いんでしょうかね」
 リズウィーもまた口にした時に丁度、頬に痒さを感じて。
 自らの手ではたくと、細長い手足を持った蚊の死体がそこに収まっていた。
「カリブにしかいない蚊だったりするかもしれませんね、船長。こんな虫でさえ、ちゃあんとカリブの息吹を感じさせてくれますよ」
「蚊で?」
 苦笑いするしかない、と言った感じの台詞を受け、リィは対応に困るのだった。
「私はもうちょっと……ロマンチックな感じ方をしたかったな。虫じゃなくて、もうちょっとこう……」
「それも間も無くですよ、きっと。カリブの地は間違いなく、大歓迎をしてくれるに決まってますから!」
「ふふ。そうよね、きっと」
 この大陸には私達がまだ知らない、たくさんの素晴らしい光景が待っていて。
 それは間違いなく、素敵な思い出になるだろう。
 リィだけでなく、船員達は皆希望に胸を膨らませた。
 しかし。

 期待を遥かに上回る歓迎を、船団は受けることとなった。
 カリブの地が視認出来るようになってから、一日と半分が経過した時のことだった。
 巨大な船が次々と姿を現し、この船団を囲むようにして海に浮かんでいる。
「この船と同じ……大型のキャラックが数隻か。確かに大歓迎だな」
 ”オールド・ブラック・マジック”の船長を務める男、カリタス。
 まだ距離のある敵船の姿を冷静に観察し、動向を探っている。
「船長、我らはどう出ますか?」
「もう少し様子見だな。こっちの退路を塞ぐようにして動いているところを見ると、賊の類である確率は高いが。一応、向こうから砲撃してくるまでは待とう」
 十中八九敵だとしても、十割ではない。
 不審な船を取り締まって回っている自警団の船かもしれない。
 しかしそんな期待も、僅か数分で打ち破られることとなった。
 遠距離から放たれた砲弾が、こちらの船へと着弾をしたのだ。
 撃って来たのは一隻ではない。
 その一撃を皮切りに、こちらを囲んでいた船が一斉に攻撃を開始する。
 こちらも何も、ただそれを黙って見ていた訳ではなかった。
 敵が攻撃の素振りを見せた瞬間に直ぐ様陣を展開させ、反撃に移れる形を取っている。
「カリブの海賊の、お手並み拝見といくか」
 そう口にするカリタスの表情は、決して意気に満ちたものではない。
 敵の船は恐らく、こちらに匹敵する程の戦力を要している。
 慎重にならざるを得なかった。
 折角新たに造った船もまた、このカリブに滞在している途中で傷付き、壊れるかもしれない。
 壊れるかはともかくとして――傷付くことは逃れられないだろう、もう。
 そう考えると、複雑な思いに駆られずにはいられなかったのだ。

「船長、大変ですぜ!」
「うん。わかってる」
 本当に解ってるのか、と問いたくなるほどの能天気な声をかおるは返した。
 それはある種の癖みたいなもので、心の底から能天気でいるわけではない。
「アスナは船室の奥に行ってて。船員を数人付けるが、近寄らせはせん」
 台本を棒読みしたような声だったが、しかしその言葉には頼りがいを感じさせた。
「かおるさんは!」
「パイレーツ・オブ・カビリアンの力を見てこようと思って」
 まだ敵船まで距離があるというのに、かおるは既に剣を抜き払っている。
 つまりは距離を詰めて白兵戦に持ち込むつもりでいるらしい。
「かおるさん……気をつけて」
 アスナの声は不安に満ちている。
 この船に乗り込んでから、戦いを経験するのはこれが初めてなのだ。
「アスナ」
 かおるはこほん、と咳をした。
 他の船員はそれを聞き、耳を疑う。
 珍しく、彼らしくない芝居がかった仕草に思えたからだ。
 船長でもやはり女っ気が付くと変わるものなのか、と興味深く、しかしこっそりやり取りを聞いている。
「もう、誰も死ぬことはない。大マグロ漁船に乗ったつもりでいなさい」
 ああ……やっぱり何も変わってない、いつもの船長だ。
 たった一人の少女を除いて、彼らは皆そう思った。
 思わせたのは”マグロ漁船”という単語の力だろう。
 しかし少女アスナにとっては、後半の科白など問題ではなかった。
 誰も死なせないというその言葉だけを、頭の中で逡巡させて。
「絶対……絶対だよ! 約束してよ、かおるさん!」
 アスナはそう言いながら、数人の船員と共に船室の方へと走っていった。
 それを確認したうえで、かおるは呟く。
「ああ。死なんし、殺させんよ。ヤツらの為にもな」
 剣を握る手に力が篭った。
 けれどそれは自らの意思によるものではない。
 何故?
 かおるはそう疑問を抱いた。
 答えはしかし、誰かに問うまでもなく導き出せた。
 この手には、この身体には幾つもの力が宿っている。
 それは力強さばかりが先走るこの身に、優しさを与えてくれるあたたかい力。
(私は死ぬまで生きるぞ。そこで見ていろ――セルマ、マテウス、ミケ)
”かおるさん”
 そう、自分の名前を呼ぶ彼らの声。
 今だって直ぐに思い出せるし、忘れることは無いだろう。
(それにHIGEの奴もだ)
 自らの力を改めて試すかのように、かおるはひゅっ、と剣を一振りさせた。
 それはこの風さえも軽々と二つに裂いてしまう。
 人の身体など、音もなく切断してしまうだろう。
(……HIGE?)
 その奇怪な単語を浮かべた所で、かおるはふと気付くことがあった。
 ここ数日、ずっと不思議に思っていたことの答えが、偶然にも今ここで導き出せた。
(ヤツの仕業か。まさか)
 剣を持った右手から、力が急激に抜けていく。
 からんと音を立て、剣は地面に転がった。
「船長! 一体どうしたんでやすか!」
 駆け寄る船員のほうに振り返ることも出来ない。
 かおるはわなわなと震えていた。
「い、いや……。心なしか、最近ヒゲが濃くなってきたような気が……。まさか、HIGEの怨念がこの身に……」
「船長……」
 それはやっぱりいつもと変わらぬ調子の声。
 むしろいつも以上に、今日のこの人は切れている。
 船員達は皆、心の中でそう訂正を加えた。

 現れた船は確かにかなりの戦力を有していたが、アフリカで戦った海賊達に比べれば、やり易い相手ではあった。
 嵐に巻かれながら戦ったアフリカの海賊――彼らはまるで自らの命さえも惜しくないかのように、隙あらばこちらの船へと乗り込んでこようとした。
 しかし今対峙している船団は、遠巻きに砲撃を繰り返してくるだけで、零距離まで近付いてこようとはしない。
「まあ……普段、こうだったものね。アフリカのが異常だっただけだわ」
 戦いの途中にそう口に出来るだけ今回は余裕があると、アイは判断した。
 さっきから幾度と無く砲撃を浴びているが、”シャルトリューズ”には目立った損傷はない。
 距離が遠いせいもあるが、これまでのダウ船であったなら、衝撃を受けた際の揺れも比ではないほどに激しかっただろう。
「折角の新しい船だし、このまま無事にいられれば良いんだけど」
 彼女がそう口にしたのと、ほぼ同時であった。
 まとまっていた船団の陣形を割るようにして、一隻の船が飛び出したのは。
 崩れたのは敵の陣形ではない。
 こちらのものだ。
「……相変わらず、恐れを知らない人だわ」
 新鮮ならばバラの香りを持つものもあると言われる木材、ローズウッド。
 それを原料として造り上げられた茶褐色のアラビアンガレーは、行く手を遮るものが何も無いかのように、ただ敵船へと突貫していく。
 百人以上もの人間がオールを漕ぎながら進むその姿を見て、まるで百足のようだとアイは思った。
 その一隻に引き摺られるようにして、船団の他の船もまた、陣形を展開させていく。
 実際のところ、援護をしなくてもあの一隻で事足りるのではないか?
 そんな風に思っていたのはきっと、アイだけではなかっただろう。
 アフリカの海で、かおるはたった一人で百人もの海賊を相手にし、そしてそれを全て片付けたと言う。
 フェレットからそう聞かされたとき、さすがのアイでさえも耳を疑った。
 疑いはしたがしかし、完全に「有り得ない」と言い切ることは出来なかった。
 人々が抱く現実感さえも破壊するほどの力を、あのガレー船の長は持っているのだと、そう知っている。
 それでもやっぱり一隻での突撃は、傍目にはただの自殺行為に他ならない。
 フェレットの”フォスベリー”、パングの”嵐を呼ぶ鹿号”が後を追うようにして、敵船の方へと進み始めた。
 さらに続いて”オールド・ブラック・マジック”と、リィの乗るフリゲート船”コンスタンティア”もまた前方へゆっくりと進んでいく。
 下手に同時に進んでは、自船団の船同士で衝突を起こしかねない。
 自然と”シャルトリューズ”と、ルーファの”ヴェレーノ・プリンシペッサ”が殿として残される形となった。
 砲撃を交えながら、アラビアンガレー船と始めとした三隻が突っ込んでいく。
 一番近い位置にいた敵戦と、アラビアンガレー船が隣接する。
 それから僅か一時間足らずで、そこにあった敵の堅固な陣形には、槍で一突きにしたかの如くな穴が開いた。
 攻撃の手はそれでも緩まない。
 雨あられと砲弾を浴びせながらも、三隻の船はさらに進撃を続ける。
 アイは船上から、それをまるで創り上げられた鮮やかな手品を見るような思いで眺めていた。
 あまりに不謹慎だろう。
 そう言い聞かせようとしても、胸の高鳴りがやまない。
 ずっと欠けてしまっていたピースがようやく戻ってきた。
 視界の先に展開されている光景は、それを表しているのだ。
 船団に無くてはならない存在だった、かおるさん。
 それに、フェレさんもか。
 彼らと一緒に行動をしている時、不安に駆られることもあるけれど、でも心の底では「きっと何とかなる」と、何時だってそう思っていた。
 この人達とならば、どんな困難な道でさえも乗り越えていけるのではないかと――月並みな表現だけれど、思っていられた。
 今再び、自分はそう思えている。
 リィを初めとした新しい仲間達も加わり、大事だった場所はさらにかけがえのないものへと変わりつつある。
(私はずっと見ていよう。あの人達の姿を見守っていよう)
 そして彼らが助けを必要としているのなら、そこに手を添えてあげるのだ。
 今ここにある幸せの光景――どんな形をしているのか、よく知っているつもりでいる。
 だからそれが形を変えてしまわないよう、私はやれるだけのことをしよう。
(さすがに戦闘中に、それは不謹慎か)
 アイはその表情に笑みを刻むと、想いを胸の奥へと閉まった。

3

 明るかった空。
 それがふっと影に染まり、落ちてきたのは大粒の雫。
 まだ量は多くないけれど、やがて二倍にも三倍にも、数を多くして降ってくるだろう。
 つくづくついてない、とアイはそう呟いて捨てた。
「アフリカの再現はしたくないからね。いざとなったら何時でも逃げられるように準備をしておいて!」
 航海に嵐は付き物だと理解している。
 それでも何も、海戦の度に嵐を到来させなくても良いじゃないか。
 そう天に文句を言いながら、アイは自船団の動向を慎重に見やっていた。
 彼女の思惑とは逆に、陣の最前列にいる船たちは全く退く気配を見せない。
 下手に撤退する姿勢を見せれば追撃を受けるだろうし、戦局そのものはこちらが優位にある。
 どうせならば完全勝利で終わらせてやる……と、きっとそう思っているのだろう。
 相変わらずの勢いでアラビアンガレーは進撃を続けており、立ち塞がった二隻の大型キャラック船は蹂躙され、やがて動くことをやめた。
「えらく解りづらくなっちまってんな。前線は」
 ”シャルトリューズ”でも屈指の剣の腕を持つグラフコスが、身を持て余しながら言った。
 唯一”永久機関”のみが目に見えて派手な動きをしているが、他の船は皆混戦状態になっており、ここからでは敵味方の区別すらつかない。
「案外、新しい船を手に入れて調子に乗って引き際を見誤ってんじゃねえのか? 船長」
「そんなことは無いと思いたいけど……。確かにあの人達、冷静な時は冷静だけど、一端調子付くと止まらなくなるところがあるからね」
 アイが心配そうにそう口にする。
 声として出してみると、尚更有り得そうに思えた。
 さすが船団の中心人物である二人の船長をよく知っている。

「よーし! この勢いで敵を殲滅するぞ!」
 ”フォスベリー”の船上でフェレットがそう声を上げた。
 確かにアイの想像通り、彼は調子に乗っていた。
 それはまた、前方を行くガレー船が同様に調子付いており、他の船までも引っ張っていく勢いで無謀な突撃を繰り返しているからだ。
 とは言え船長が船長だけあり、そんな無謀ささえもまかり通っていた。
 最初六隻もいた敵の船は今や、たった二隻にまで減らされている。
 実際に姿を消した訳ではなく、既に戦闘意欲をなくしてその場に浮いているだけだ。
 それらをかいくぐるようにして”永久機関”が進み、他の船も続く。
 空が覆い隠されるほどの砲撃を浴びせる。
 快進撃はそれから数時間も――本格的に嵐が訪れるまで、続いた。
 大粒だった雨がある時を境に、いきなり石のような重さを持ち出したのだ。

「ヌォー!」
 丁度敵船に乗り込み、敵の船員を切りまくっていた最中であったかおる。
 驚き、空を見上げて叫び声を上げた。
 その隙に背後から槍が突き入れられるが、それすらも計算通りだったのか、避けると同時に反撃の刃を返し、その船員の命を奪った。
「何つう雨だ!」
 雨だけじゃない。
 風もだ。
 かおるはかつて印度で海賊をしていた経験があり、海戦の途中に嵐に見舞われたことは数多くあった。
 だからこそ、対応手段もよく知っている。
 そろり、と静かにだが素早く、踵を返す。
「ずらかるぞ!」
 さっきの叫びよりも遥かに大きい声で怒鳴った。
 自身の船へと戻るべく、そこから走り出す。
「えっ! 船長、これくらいならまだ……」
「こりゃ長く降る雨だ! 逃げとけ!」
 かおるの珍しく真剣な声を聞き、船員達もまた、目の前の戦闘を放棄して走り出した。
 剣戟すらも轟音にかき消されるようになり、このまま斬り合いを続けては余計な被害を出すだけ。
 そう判断したのは敵味方両方だったようで、心配されていた敵の追撃はなかった。

 アフリカでの死闘を光景を想起させるかのように、空間は雨と風に包まれて。
 それだけではなく、さらに霧が張り詰めて視界を遮っている。
 船はまともに身動きが取れぬようになり、何とか敵船と距離を取ろうとしつつも、しかし目立った航行が出来ない状況に陥った。
「参ったな。こりゃ……」
 ずぶ濡れになりながら、フェレットは見えない海を見ている。
 さっきまで共に行動をしていた二隻、”永久機関”と”嵐を呼ぶ鹿号”の居場所は把握している。
 未知の海域であるカリブで他の船とはぐれてしまえば、合流することは困難だろう。
 下手すれば、二度と合流出来なくなるかもしれない。
「ここまで雨が酷くなるとは。予想外でしたね」
「ちゃんと空を気にしていれば、予測出来たかもしれないが……。まずったな」
 副官ロッティーナ、そしてフェレットの声も、むしろ戦闘中よりも真剣さを増している。
 自然の脅威、それは場合によっては刃よりも遥かに鋭く、人の命を抉り取ろうとするのだ。
 後続の船の姿は全く確認出来ず、それどころかたった数メートル先でさえまともに状況を掴むことが出来ない。
「……僅かに、陸が見えるのがわかるか? ロッティ」
「ええ。戦闘中に少しずつ近付いて来てましたからね」
 前を行く”永久機関”の向かう先は、その陸地のようだ。
 船が停泊出来るほどの開けた地形を見つけたのだろうか。
「僕らも追おう。陸に停まって、嵐が去るのを待たないとな」
 ただでさえ、さっきの砲撃戦で大分船が傷付いているのだ。
 修理をする時間も欲しいし、このまま海に浮かんでいては新造船があっと言う間にスクラップになりかねない。
「アイさん達も、僕らの船の近くにいると良いんだけど……」
 海戦が始まってから、そう長い時間が経った訳ではない。
 霧が晴れればきっと、互いの姿を目視出来るようになるだろう。
 ひとまずは嵐をやり過ごすことだけを念頭において、”フォスベリー”、”嵐を呼ぶ鹿号”、そして”永久機関”の三隻は、一番近い位置にある大地へと上陸を果たした。
 念願のカリブ発上陸も、決して感動出来るような状況には無く。

 雨と霧に包まれて白く染まっていた空は、フェレットらが陸に降り立った頃には黒色へと姿を変えていた。
「やれやれ、第一印象は最悪っすね。カリブ」
 ”嵐を呼ぶ鹿号”の長であるパングの声は、あからさまな疲労感に満ちている。
「つまりこれからは良くなる一方だと、そう信じたい所だがな」
 返事をするカリタスの声も同様だ。
 彼が船長を務める”オールド・ブラック・マジック”も既に陸地へと到達している。
 一度ばらばらになった船団は、また再び在るべき姿を取り戻そうとしていた。
 ”オールド・ブラック・マジック”よりも数時間遅れて、”ヴェレーノ・プリンシペッサ(毒の姫)”が姿を現し、それからまた二時間程。
 僅かに雨の勢いが収まってきた頃に、一隻の船がこちらへと向かってきているのが見えた。
 船団の水夫達はそれぞれ船の修復作業に当たりつつ、その船が何処の所属であるかを確認しようとしていた。
 先程襲い掛かってきた船団の姿は、跡形もなく消えてしまった。
 撤退したのか、嵐に呑まれてしまったのかはわからない。
 しかし今向かってきているあの船は、まず海賊船ではないものと思われる。
 未だ行方知れずの二隻――”シャルトリューズ”と”コンスタンティア”。
 おそらくはそのどちらかだ。
 風の強さには波があるようで、今は僅かに緩やかなものとなっている。
 船は帆を開いたまま、出せるだけの速度で陸へと進んで来た。
「サムブーク……。シャットットルリューゼか」
 干し肉を食らいながら、かおるがそう口にした。
 素で間違っているのかわざとなのかは知らないが、やって来た船はアイの乗る船”シャルトリューズ”。
 これで一隻を残して、船団が再び揃ったことになる。
 残る一隻。
 リィの”コンスタンティア”だけが未だこの海域に姿を現さない。
(ああ見えて、あいつの船は腕利き揃いなんだ。海に呑まれた、なんてことは無いはずだ。……有る訳がない)
 フェレットも”フォスベリー”の修理に当たっていたが、全く身につかない様子で、その瞳はひたすら海のほうを凝視している。
 しかし、そこには何もない。
 水平線さえ見えない空虚な空間があるだけで、眺めていればいるほどに不安ばかりが募った。
(少しだけど……雨、止んできたか)
 これなら、再び海に出ることも可能じゃないのか?
 ふと、そんな考えが過ぎる。
 それでもまだ最初は”無理だ”という思いのほうが強かったが、考えれば考えるほどにそれは強い思いの波に押し返されて行き。
(カリタスさんに相談してみるか)
 やがてそう思い立ち、フェレットは”フォスベリー”を後にした。
 そしてカリタスの所まで行き、話を持ち掛けてみるものの。
「今は彼女達の事を信じてあげるんだな。この嵐の中、下手に出て行ったら、折角陸に辿り着けた水夫達の命まで危うくなるんだ」
 そう言われるだろうとは思っていたものの、やはり断られてしまった。
 カリタスの言うことが尤もな話であることは知っている。
 それでもフェレットは諦めきれなかった。
「何なら”フォスベリー”だけでも……」
「ともかく、もう少し待ちたまえ。船長が慌てていると、部下まで不安の渦に陥れることになる」
「それはわかってるんですが、けど」
「私からもお願いします。カリタスさん」
 そう挟まれたのは、女性の声。
 振り返らずとも誰のものか即座に判別出来る、よく知った声だった。
「フェレさんをこのまま放置しておくと、暴れてこの船団を壊滅させかねないですからね」
「アイさん……」
 フォローしてくれたかと思えば、言葉の内容はそんなだ。
 フェレットはどう反応していいか解りかねて、ただ困った顔になっている。
「それにリィちゃん達にもしものことが有ったら、幾ら後悔しても足りなくなりそうですから。たとえここにいるみんなが無事で済んだとしても」
「……それくらいなら、皆でカリブ海に沈んだほうがマシだと言うのか?」
「どっちか選べって言われれば。そうなりますかね」
 答えたのはフェレットだ。
 アイも静かに頷きを重ねる。
「まあ死ぬのは美味しいものを食べている最中だって決めてるんで、出来れば溺死は避けたいんですけどね」
 冗談めいた口調で、フェレットは最後にそうおどけた。
 やれやれと声を吐き、カリタスは少々わざとらしく、呆れたポーズを取って見せた。
「まるでこっちがごねているかのように思えてきたな。しょうがない、君達二人がそう言うなら従うとしよう」
「申し訳ないです」
 フェレットとアイ、二人の顔は歓喜に包まれている。
 とても申し訳無さそうには見えない。
「その代わり、私も付いて行くよ。幾らなんでも、皆がこの海の藻屑と化すことだけは止めねばならん」
「そりゃあ助かりますよ」
 華やぐ二人の表情。
 更なる話し合いの結果、さすがに全船で赴くのは危険過ぎるということになり、残るかおる達の船はこの場に留まることとなった。
 もしものことが有ったら、とアイはそう言ったが、彼女はその”もしも”の光景を欠片ほども想像はしなかった。
 フェレットに関して言えば最初はしていたかもしれないが、再び海に向かううち、それは記憶の外へと放られた。
 ”コンスタンティア”の船長である以前に、記憶を失くして独り倒れていた少女、リィ。
 思えば彼女との出会いは偶然に他ならない”運命的”と表現するのが相応しいものであった。
 そんな始まりをして、彼女と共に長く続けてきた航海。
 こんな中途半端な所で、まるで糸を切り落としたかのように、突然に終わってしまうはずがない。
 そうだ。
 何れ訪れるであろう終焉まで、それはきっと運命に導かれたものとして続くはず。
 それはあたかも、素敵な一編の物語のように――。
 アイはそう信じていた。
 いっそ終わりが訪れず、永遠に続けばいい……とも。



  1. 2006/01/17(火) 23:37:28|
  2. 小説本文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

第二十一章 失くした地図を探しに

1

 航海をしない船乗りは陸に上がった河童のようなものだ、とは誰が言った言葉だろうか。
 リスボンに滞在して、早二ヶ月。
 新造された船達は、その行く先を未だ知らずにいるのだった。
 ”船頭多くして、船、山に登る”という諺がここまで当て嵌まる面々と言うのも、そうはいない。
 ――つまり、彼らは揉めていた。
 リスボンの、ここは冒険者ギルドの建物の中。
「”とある令嬢の指輪”……これしかないでしょう! だってまず、依頼の題名からして僕の好み……いや、我が船団向きじゃないですか!」
「いやいや。おじさん的にはこっちの娘のほうが」
 間違いなく一般の人間ではない、胡散臭さばかりを感じさせる男の声。
 彼はそう言いながら、紙に書かれている依頼の題名を指差した。
「……かおるさん」
 相方の青年、フェレットの顔が一瞬にして、とても残念そうなものへと変わった。
「その依頼の題は”地中海の狼”って書いてますけど……。もしかして”地中海の娘”と勘違いを……」
「いやいや。ポルトガル語で書かれてるんだから、そんな間違いする訳は無いよ」
「あっ! 言われてみれば、そうですよね。失礼しました」
「わっはっはっは」
 和やかに話しつつも、二人の考えは常に右と左、アフリカと北海に分かれて進もうとしている。
「やっぱりこう賞金首を狙うとか、ガツーンとぶちかますようなのが」
 とかく物騒な依頼ばかりをセレクトするかおる。
 そして、
「あ、すごい良いのが有る! この”クリスティナ”という依頼なんてどうでしょう。名前からして美人の気配が」
「それ前にやったし。って言うか知り合いだし」
「なんべんやっても良いじゃないですか! 人助けなんだから!」
対照的に和やかな、それでいて何故か女性関連の依頼ばかりを受けたがるフェレット。
 かつてこの町に滞在した時はまともな依頼が殆どなく、やはり散々に揉めたものだったが、依頼の数が多ければそれはそれで決まらないものだ。
 それでも話し合いを続けて、結局”今はろくな依頼がない”という結論に落ち着く二人。
「数さえ有れば良いってもんじゃないよ。もっとこう、冒険者魂と海賊魂を同時に燃え滾らせるような依頼は無いの? ちょっと、ねえ」
 いよいよもって、フェレットは依頼仲介人にまで文句を言い始めるのであった。
「無い」
 だが返事は素っ気無く、それでいて冷たい。
 以前訪れた時とは別の仲介人だと、そこで始めて気付いた。
 前に見た仲介人はもっと愛想が良くお喋りだったという記憶がある。
「いや、一つだけ言わせて貰おう」
 ぼそり、とその仲介人の声が響いた。
 眼の前で数時間も言い合いを続けられて、何時しか建物の中には彼ら三人だけしかいなくなっていた。
「冒険者ギルドに、海賊魂を燃え滾らせる依頼が有る等と思うな」
 その言葉と共に、半ば追い出されるようにしてフェレットらは建物の外に出て行った。

「大体、かおるさんが悪いんですよ。海事ギルドの依頼内容が書かれた紙を持ち込んで、冒険家ギルドでそのことを話してんだもん。そりゃ文句言われるよ」
「時代に逆らってみた」
「意味解んないですから」
 午前にここを訪れたはずなのに、空の色はもう夕刻を示していた。
「ああ、今日も決まらなかった……。一度他所の町に移動してみたほうが良いかなぁ」
 一応全ての依頼には目を通して有るが、これといったものは見当たらなかったのだ。
受 ける依頼が決まらなければ次の目的も決まらないし、フェレット達はほとほと困り果てていた。
 困るのが二人だけなら、別にそれでも大したことではない。
 しかし今現在、船団には数百もの人間がいるのだ。
 徐々にだが彼らの不満も溜まっていくだろうし、滞在費というのもこれで案外馬鹿にならないものだ。
「今日こそは決めてくるって言っといたのにな。このまま手ぶらで帰ったら殺されかねないよ。ほんとに」
「ええ。本当に殺しかねないわよ?」
 ひょっこりと現れた、その女性の言葉。
 フェレットは背筋の凍る思いをして振り返った。
「あ……アイさん。来ちゃったんですか?」
 そこにいたのは”シャルトリューズ”の船長を務める女性、アイ。
「ええ。もう待ちくたびれてね」
「待ち切れなくてつい一献やってしまったとか」
 かおるの声に、彼女は眉をぴくりと反応させた……が、結局受け流したらしい。
「決まらなかったのね?」
「は、はぁ。すいません」
「ヌヘッ」
 反省の声らしきものを連ねる二人。
「ヌヘ、じゃないでしょう」
 しかしそれだけでは、彼女は満足しない。
 「ともかく、そろそろ何処かに移動しないとね。馴染みの水夫達は良いけど、最近新たに入った船員は私達に不信感を募らせるかもしれないし。……だからね、意地でも今日決めてしまおうと思って、私が来たの」
「え、でも……」
「でも、じゃない」
 最早申し開きは受け付けない姿勢にある様子。
「今はろくな依頼無いですよ。冒険者ギルドも、海事も」
「本当にそうか、私が確かめてくるわよ。フェレさんとかおるさんはここで待っててちょうだい」
 え、でも、とフェレットは口に出そうとして、慌てて噤んだ。
「私が決めてくるから。よっぽど変な依頼じゃないかぎり、反論は受け付けません」
 ――それでも良いか、と思うフェレットであった。
 直ぐにそう思考を切り替えられたのも、彼女の人格をよく知っているからこそである。
 確かに自分やかおるさんが揉めに揉めた末に決めるよりも、無難に良い依頼をセレクトしてくれそうな気がする。
「しょうがない、任せますか。かおるさん」
「酒尽くしの航海になりそうやね」
「依頼に関係なく、そうしますけどね」
 別れ際にそう反撃の言葉を口にして、アイは独りギルドの方へと歩いて行った。
 さすが、彼ら二人に対する受け答えの台詞も慣れたものである。
 そして待つこと数分。
 再びドアが開かれて、そこからアイが出てきた。
「ぬ?」
 かおるは違和感を抱いて、思わず声を吐いた。
 彼女はこちらに歩いて来ている。
「アイさん、どうでした?」
 フェレットは訊ねた。
 不思議に思っていたのは彼もだった。
「ねえっ、二人とも!」
 アイは零れ落ちる微笑みを抑え切れないようにして、そこにいる。
 ギルドから出てきた瞬間から、ずっとそうだったのだ。
 笑いが止まらなくなるキノコでも食べたのだろうかと、二人は失礼にも同じ事を思っていたりする。
 少なくともさっき依頼書を見た限りでは、ここまで笑みが絶えなくなる様な素晴らしい依頼など一つも無かったはずだ。
「ドラゴンよ! ドラゴン!」
「ドラゴン?」
 フェレットが怪訝な声を発するなり、アイは背中に隠し持っていた依頼書を、ばっと二人の眼前に差し出した。
 わざわざ顔を近付けて、フェレットはその依頼内容を読み上げていく。
「ドラゴンの絵は……カリブに……で、ええと……本当にそうだったら、大発見……」
 別に二人に聞かせるつもりではないようで、自分だけにしか届かない程度の大きさの声だ。
 そして、ついに最後まで読み上げたらしい。
 それを頭の中で整理して、
「ドラゴンだってええぇ!?」
フェレットは大爆発を起こしたかのように、叫んだ。
 アイから依頼書を引ったくり、何故か頭上に掲げて、空ごとそれを眺めている。
「ドラゴン! それにカリブッ? すげぇ、そんな未知のキーワードが有ったこと自体、すっかり忘れてた!」
「うんうん。私も忘れてたわ。だからこんなに喜んでるのよ」
 疲れていた顔をしていたフェレットだったが、瞬時にして憑き物が落ちたかのような満面の笑みを浮かべている。
 見栄も外聞もなく踊り出してしまいそうなほど、二人は幸せに満ちた表情をしていた。
 かおるは相変わらずの仏頂面だが、彼は彼で喜んでいるのだろうか。
「ドラゴンか」
「ええ、ドラゴンですよ!」
 かおるの声に対して、数倍の大きさで返事するアイ。
「そう言えば私達がドラゴンを探してたなんて設定が有ったね」
「設定とか言わないで下さい。折角久々の大きな依頼なんだから、かおるさんも喜びましょうよ」
「ふむ」
(嬉しくないのかしら……?)
 普段以上につっけんどんな態度を取るかおる。
 アイもフェレットも、不思議でならなかった。
「ま、とにかくこれで異論は無いわよね? それじゃあ早速帰ってみんなに伝えるとしますか!」
 アイは既に宿屋のほうへと歩き始めている。
 皆の喜ぶ顔が見たくて、待ち切れない様子だ。
「あ。アイさん」
「ん?」
 フェレットもそれを追い掛けながら、質問をする。
「さっき僕らが見てた時にはドラゴンの依頼なんて無かったけど……。どうやって紹介して貰えたんです?」
「これよ!」
 そう言ってアイが取り出したのは、一枚の紙。
「依頼斡旋書。カリタスさんから貰ったの。これを見せるとね、新たな依頼を提示してくれるらしいのよ」
「へぇー……僕らがアフリカ行ってる間に、色々変わったんだな」
「便利な世の中になったわよ。ほんとに」
 会話をしながら、後ろに一人残っている男のことなどすっかり忘れて、宿へと帰っていく二人。
 数メートルも離れた所で、かおるは何やらぼそぼそと呟き出した。
 しかし彼らにはもう聞こえない。そのまま歩き続けている。
 更に数歩も進み、そう言えば忘れてた、と二人はようやく振り返った。
 その瞬間、待ち構えていたかの様にして。
「ドラゴンだとオオオオオオォォォォォーッ!?」
「驚くの遅いよ!」
 かおるが放った咆哮に、二人は思わず同時に突込みをするのであった。

2

 目的が決まってからの日々は、やけに急ぎ足で過ぎて行き。
 そうして出発の前日を迎えることとなった。
 時刻は既に夜、船員の半数は寝静まっているが、残る半数は逸る気持ちを抑えながら各々の船の整備にあたっている。
「ねえ、船長……」
 ここは大型キャラベル船”フォスベリー”の甲板。
 船の掃除をしていたフェレットだったが、後ろから声を掛けられて、振り返った。
「どうした?」
 そこにいたのはこの船の副官、ロッティーナ。
 今や”フォスベリー”には欠かすことの出来ない、才色兼備の女性である。
「皆カリブだカリブだってはしゃいでますけど。正確な場所はご存知なのですか?」
「いや。さっぱり」
 ロッティーナは目をぱちぱちとさせた。
 暫し考えてから、不安げな声を出す。
「……幾ら船長でも、全く場所を知らずに適当な航海をするとは、考え難いのですが」
「幾ら船長でもって、ごあいさつだな。おい」
 フェレットは表情を歪めて答えた。
「まぁ、何となくは解ってるよ。今回は僕だけじゃなく、みんなそんな程度の知識しか無いみたいだ。だって誰も行った事が無いんだからな」
「大丈夫ですかね……。知らない場所への航海か」
「それこそ冒険家としての、船乗りとしての醍醐味ってやつだよ」
「そう、なんですけどね……」
 ロッティーナは苦笑しつつも、それ以上不安な声を出すのはやめようと思った。
 この人みたいにもっと、航海を心から楽しむようにしようと。
「あ、あの。それと、もう一つ聞いておきたいことが有るんです」
「うん。何だい?」
「ドラゴンとは、どのような生物なのです……?」
 躊躇いがちにいうロッティーナ。
 その言葉が彼を笑わせるか、或いは驚かせることになると知っていたからだ。
「ロッティ、知らないのか?」
 案の定。
 半笑いになって驚いた声でそう言われた。
「知りませんが、何かっ?」
 逆にそうつっけんどんな返しをするロッティーナ。
 フェレットが面食らった顔になったので、少し小声で続ける。
「生物の研究でもしていなければ、普通は知らないですわ。けれどそれではこの先困ると思ったので、訊いたんです」
「ふふ、それは正しい判断だったと思うよ」
 言うと、フェレットは再びにんまりと微笑んだ。
「いいかい、ロッティ。ドラゴンってのは……」
 驚いたり微笑んだり、まるで子供のように表情が豊かなのだなと、ロッティーナは思う。
 ――それはそうだろう。
 子供の時に誰もが心に浮かべた夢を、この人は未だに追い続けているのだから。
「緑で……大きくて。ギャーと鳴くんだよ。カリブにいるのはその子供らしいんだけどね。本当なら僕ら全員、踏み潰されてしまうくらい大きくて……」
「その説明じゃ、よくわからないです。船長」
 ロッティーナは呆れたようにくすくすと笑いながら、その話を聞いていた。

「――緑で、もう町一個踏み潰すくらい大きくて。フォーと鳴くらしいよ」
 時間軸は多少ずれるものの、アラビアンガレー船”永久機関”でも、同じようなやり取りが行われていた。
 こちらは船長かおると、その家族とも言える少女、アスナの会話だ。
「フォー? フォーって鳴くの?」
「うん」
「そ、そうなんだ……。なんだか私のイメージとちょっと違うな」
「どんなイメージを抱いてたんでやすか? アスナさんは」
 水夫の一人がそう口を挟む。
 うーん、とアスナは考えた。
「鳴き声はね……『シャー』とかそんなので。確かに大きいんだけど、でもすごく可愛いの。瞳が大っきくて、人懐っこくてね……」
「それはまやかしだ」
 彼女の想像を断ち切ることを目的にした声が響いた。
 当然、それはかおるの声だ。
「ドラゴンはカッコイイに決まっとる。目からビームとか出るから、もう」
「出ないよ。可愛いんだから、ドラゴンは」
「空とか飛んじゃうらしいよ。人間とかもう軽く踏み潰す勢いで」
 彼もまた子供のような顔をして――大人気無いことを口にしていた。

 そしてここはサムブーク船”シャルトリューズ”の船内。
「船長。それ、一体誰から聞いたんだよ?」
「おかしかったかしら?」
 アイが想像をしていたドラゴンのイメージ。
 それがあまりに妙過ぎて、グラフコスは思わず口を挟んだのであった。
「”町を踏み潰す位でかくてフォーと鳴く”なんて、多分世界中であんた位しか持ってないイメージだと思うぜ」
「そうなのかしら。誰から聞いたのかは、ちょっと忘れたんだけどね……。でもじゃぁ、グラフはどんなイメージをしてるの?」
「イメージって言うか」
 一端間を置き、頭に浮かべてみる。
「まぁ、建物一個分位の大きさで、獰猛で……。そんなに化け物みたいな奴じゃないんじゃねぇの。でかいトカゲみたいな感じで」
「何よ、えらい現実的じゃない」
「現実の話だろ。これ」
「そうだけど」
 アイは膨れた顔を作ってみせた。
 グラフコスは対応に困りかねて、頭を掻いている。
「もっと夢は大きく持ちましょうよ。それが航海の秘訣だって、誰かさんが言ってたわよ」
「……あんたのその夢の通りだったなら、俺ら全員踏み潰されてお陀仏だぜ」
 そこでふと、会話が止まった。
 特に理由もなく、互いが声を口にするタイミングを外したのだ。
「ああ、けど」
 再びテンポを取り戻そうとして、グラフコスが口にする。
「俺のも、人から聞いた話だからな。まぁ折角カリブまで行くんだ。どうせなら想像を絶するくらいの奴が待ってて欲しいね」
「誰から聞いたの?」
 アイは何となしにそう訊ねた。
 何故だか、彼は返事をするのを一瞬戸惑う。
「オヤジ……いや、オフクロ、かな」
 それは今までずっと口にせずにいた話だったからだ。
「お袋って、一応訊くけど私のことじゃないわよね?」
 何時かの会話を思い出して、念の為にアイは訊いた。
「違うよ」
 返って来たのは予想通りの声であったが、ほっと息を吐くアイ。
「俺、ギリシャ・ムーンズにいただろ。けど別に生まれた時からそうだった訳じゃねぇんだ」
 ギリシャ・ムーンズとは、東地中海で活動をしている盗賊団の名。
 グラフコスも今でこそこの船団の一員となっているが、元は盗賊団の一味であったのだ。
「元は割と有名な、商人の家の出なんだぜ。これでもな」
「ふうん。初耳ね」
「初めて言ったからな」
 それなのにどうして、盗賊団の一味などに身をやつすことになったのか。
 アイは気になったけれど、彼が口にしない限りは訊かないでおこうと思った。
 今度は半ば意図的に会話が途切れて、二人ともまた各々の作業に戻る。
(誰にも言うことは無えと思ってたぜ)
 船のあらゆる場所にブラシをかけながら、グラフコスは考えた。
 隠してた訳じゃない。
 ただ、わざわざ誰かに話すことも無いだろうと思っていた。
(慣れたもんだな、俺も。ここに)
 この船団の面々は誰も、必要以上に人の過去を詮索したりはしない。
 だからだろうか、こんなに居心地が良く感じるのは。
 ――居心地が良いから、ずっと思い出さずにいた過去。
 一度脳裏に浮かんだそれを消さずにおいて、グラフコスはその夜を過ごした。

3

 そして一夜が明けて。
 準備も整い、いよいよ後数時間で港を出ることになっている。
 船団の目指すカリブの地は果てしなく遠い。
 一度ここを出発してしまえば、再び帰ってくるのは数ヶ月……或いは数年も先のことになるかもわからない。
 最後にもう一度この風景を楽しもうと、フェレットはアイ、リィを連れ立ってリスボンの町を散歩して回っていた。
 今――この風景を見て抱くこの思いは、港を出ればやがて過去のものと変わるだろう。
 未来へ抱く憧憬は抑えきれず、今ここにある光景に対して抱く懐かしさにも似た想いも湧き出てきて、やまない。
 その間に挟まれて、彼らは不思議な気分で町を歩いていた。
 途中道具屋に寄ったり、幾度となく訪れた酒場の店員達に挨拶をしに行ったりして。
 そろそろ船に戻ろうかとなった時、彼らは一人の少年と出会う。
 その出会いは、突然なものだった。
「何だぁ……?」
 いきなり後ろから、大声で呼び止められたのだ。
 フェレット達が振り返るなり、少年はこちらへと駆け寄ってきた。
「あ、あの……」
 少年はやけに興奮気味な様子だ。
 寸前の位置まで近付いて来て、いきなりぺたぺたと、フェレットの服を触り出す。
「こら、よせ!」
 思わず彼の身体を突き飛ばして、一歩後ずさるフェレットであった。
 アイやリィと言った面々も駆け寄って、少年のことを囲む。
「一体何の真似を……」
「フェレットさんでしょぉっ?」
 少年は身を乗り出してそう声を放った。
 反対に、フェレットはつんのめる。
「それで、こっちがアイさんで。こっちが”コンスタンティア”に乗ってるリィさん」
 はしゃぎながらそう口にする少年を見て、しかしフェレットの疑問はつのる一方であった。
 何故、こんな見知らぬ少年にここまで名前を知られている?
「ぼく、どうして私達のことを知ってるの?」
 自分よりも背丈の低い少年に向かい、リィは身を屈めて訊ねた。
「アフリカで海賊とやりあってきたんでしょ? 結構有名だよ。この辺りで」
「え……」
 目を見合わせる三人。
 そんなこと、思いもよらなかった。
「それとそうそう、かおるさん! かおるさんって人の剣は、一振りしただけで船ごと切っちゃう程すごいんでしょう? かおるさんはいないの? あ、あとカリタスさんもだ!」
「今日は一緒には来てないの。ごめんね」
 その声を聞き、リィもまた顔に苦笑を貼り付けるのであった。
 そもそも何処から広がったのかは知らないが、明らかに噂が一人歩きしている。
 ……それでも、かおるさんに関してはあまり違和感が無いのが不思議だけれど。
「ふうん。成る程、そう言うことね……。しょうがないな、それじゃあ」
 さっきまでただ呆気に取られていたフェレットだったが、少年の言葉を聞くなり、いきなりにこにことしだした。
 何故そうなっているのか、アイもリィも一瞬で気付いている。
「なあ、リィのことはどんな風に伝わってるんだい? 例えば容貌とかさ」
「フェレさん、どうして私なんですか……?」
 当然その言葉を遮ったのはリィ本人だ。
「自分のことを訊いて、変な評判が広がってたら嫌だからって……。ずるいよ、フェレさん」
「いやいや。絶対良い評判に違いないと思って訊いたんだよ。で、どうなの?」
「瞳の大きな、美人船長だって」
「えっ!?」
 甲高い声で驚くリィ。
 どう反応していいのか、困った顔をしていた――のもほんの一瞬。
 直ぐにその表情から、ぼろぼろと笑みが零れ出す。
「ほらな、リィ。きっと良い噂だと思って訊いたんだよ」
「噂、本当に一人歩きしてますね……。でもありがとう、フェレさん」
「いやいや、別に僕の手柄じゃないからね。しかしまあ、確かにその噂は正しいよな」
(この二人……)
 アイは一歩離れた位置から、その会話を生暖かく見つめていた。
 しかし運命は、彼女が傍観者に徹することを許さない。
「ねぇ、あのさ。アイさんのことは何て噂になってるの?」
 そう質問をするフェレット。
 既にその顔は、悪戯を思いついた子供のそれになっている。
「ええとね。アイさんは、さけ……」
「そう。三度の飯よりも酒が好きな船団の影の首領、それがアイさんさ。さすがよく知ってたね」
 酒、という単語が出た瞬間に、狙い済ましたタイミングで言うフェレット。
「人をオチに使うな!」
 アイもまた、予め示し合わせたかのように突っ込みを入れるのだった。
「――さて」
 ひとしきり笑ったから帰るか。
 そんなことを口にして、フェレットは身を翻してそこから去ろうとした。
「あ、待ってよ!」
 しかし少年の方はまだ足りないらしい。
 新調したアドミラルハットを掴まれそうになり、ひょいとかわすフェレット。
「話、まだ終わってない。これからが本題なんだよ」
「まだ何か有るのか?」
 いい加減受け答えにも疲れてきたらしく、フェレットはすっかり投げやりな応対になっている。
「あのさ、今、船の人数に空きがあったりするの?」
 少々意外な質問をされて、フェレットは一瞬きょとんとした。
 アフリカで”フォスベリー”の船員のその多数が命を落とした。
 それから数名雇い入れはしたものの、確かにまだ船には空きがある。
「あるけど……」
「じゃあさ! おれのこと、雇ってくれないかな!」
 流れ上、そう続くのだろうなあとはわかっていた。
 フェレットのその表情に渋いものが刻まれる。
「いいか。君、年は幾つだ」
 そして彼は説教口調でそう言った。
「十六だけど」
 思っていたよりは、年上だ。
「そんなに若いなら、まだ親御さんの下でのんびりしてたほうが良い。無理に海に出ても良いことないよ」
 自分のことはすっかり棚に上げている。
 彼が祖国であるスペインを出たのは、丁度十六才の時であった。
「でも、親にはさ」
「家に居ろって言われてるんだろ? そうだよ、その方が」
「出てけって言われてるんだ」
「だろ? だったら家に残ってたほうが……え?」
 自分のペースで喋り続けていたフェレット、ようやく少年の言葉を頭で理解する。
「出てけって、どうしてだ」
「うち、兄弟が多くてさ。十人もいるんだ。お金も無くて、だから全員家で食べてけるだけの余裕が無いんだよ」
「へ、え……。それで出てけって、言われてるの?」
 途端に神妙な顔になるフェレットだった。
 彼は元々裕福な家の出であり、少年の事情はあまりリアルに感じることは出来なかったが、けれど深刻さは伝わってきた。
「名前は何て言うんだ?」
「おれ、ユーリって言います」
「言っとくけど、航海は死と隣り合わせだぞ。それでも良いのか?」
「掃除くらいしか出来ないけど……。給料がちゃんと出るなら」
「金の心配してられるだけ、余裕有るってところか」
 フェレットは何かを決意したように笑った。
「良いよ、君は今日からうちの船員だ。出港は数日の内にするから、それまでに家族にはちゃんと言っておけよ――本当に付いて来るんならね」
「フェレさん!」
 驚いた顔をしたのはアイだ。
「なんで……」
 彼女は声を詰まらせている。
 フェレットにはその理由が判らないようだった。
「そんな簡単にオーケーしていいものじゃないでしょう? 普段ならともかく、今回の航海は私達でさえ、帰ってこれる保証が何処にも無いのよ」
「カリブはずっと西にあるって言うし、途中でマディラかラスパルマス辺りに寄るよ。とりあえずはそこまでの航海で、ちゃんとやれるか判断するよ」
 つらつらとそう口にするフェレット。
 どうやら、単に勢いで承諾した訳ではないようだ。
「ともかく、こいつはウチでもう引き取った。あとは”フォスベリー”の船長として、僕が何とかするよ。そう言う訳で二人とも宜しく」
「ありがとう。フェレットさん」
「気にすんな」
 ユーリに向け、フェレットはにや、と微笑んで見せた。
 アイはそんな彼に違和感を抱いてやまない。
「フェレさん……」
 何時もより少し頑なだと、そう思ったのはリィもだった。
 わざわざ出港の時間を遅らせてまで、見知らぬ少年を雇い入れた。
 彼は、フェレさんは優しいから――。
 リィはそう思って納得しようと思えば出来たが、胸の内にもう一つの思いを抱いていた。
(コロ君……に似てるから、なの? フェレさん)
 かつて”フォスベリー”に乗っていたコロという名の水夫。
 北海に向かっている際に鮫と遭遇し、そして命を落とした。
 彼もまたリスボンの出身であったし、外見も醸し出す雰囲気もなんとなくこのユーリ少年と近いものがあった。

 この日は少年と別れて、三人は道を引き返すこととなった。
 出港の日を遅らせると皆に説明しなければならなくて、気が重いことこの上ない。
 帰り道、フェレットはずっと言葉少なにしていた。
 リィの想像――それは確かに当たっていた。
 航海の途中に命を落とした何人もの、愛すべき船員達。
 彼らと過ごした年月はもう、過去のものとなっている。
 いつしか思い出ばかりがかさむようになって、その重さで動けなくなってしまうよりも前に、新たな未来を手にしようと――フェレットはあの少年を雇うことに決めたのだった。
 過去も、未来も。
 天秤に掛けられれば、きっとどっちもが良い顔をしないだろう。
 そう知りつつも、寂寥を彼方へと追いやる手段は他にないと、解っていたから。

4

 船団は西に向かうよりも前にまず、南東へと進路を取った。
 向かう先は勿論、セウタ。
 ジブラルタル海峡を睨むようにして建っている港町だ。
 セウタには船団と馴染み深い女性、フアナがいて。
 三日三晩程、彼女らと過ごす時を楽しんだ後、船団は西へと舵を向けた。
 そしてモロッコの沖合いに浮かぶマディラ島へと到着し、そこでいよいよ、果てしなき航海に向かう為の最後の準備を整えることとなる。
 町に到着するとまず、ルーファの船の水夫達は総出で交易所へと走っていった。
 彼女は本来冒険よりも商売を得意としていて、ここで多数の交易品を購入し、カリブへと持ち込んで高値で売るという算段らしい。
 先日船団に入ったばかりの少年ユーリもまた、ルーファの後を追って交易所に行ってしまった。
 なんでも彼女の手法を間近で見て、盗んで自分のものにするのだとか。
 そうして将来の航海で役立てるのだと少年は意気込んでおり、フェレットはとても”駄目だ”と口にすることは出来なかった。
 カリブに向かう準備と言っても、食料と水をありったけ積み込んでしまえば、後は特にこれと言ってなく。
 フェレット達はやはりと言うか、酒場に繰り出してはいつものようにのんびりとくつろいでいるのだった。
「……んで、意外にもロッティがあいつのことを気に入ってね。今も一緒に交易所に行ってんのさ。絶対反対されると思ったんだけどな」
 テーブルを囲っているのはフェレット、かおる、アイ、リィ。
 要するに御馴染みの面子である。
「いや、本当に最初の最初は反対してたんだよ。けどさ、ユーリに『”フォスベリー”唯一の美人航海士ってリスボンで噂になってましたよ』なんておだてられてね。それからはもう付きっきり」
「本当に、親と子みたいになってたわよね。私も見たわ」
 酒を飲み始めて間も無いと言うのに、まるで数時間も飲んだ後のように、絶えず話題を広げているフェレットとアイ。
 その隣ではまるで十杯も飲んだ後の様に、蒼ざめているかおるが居る。
「お嬢ちゃん達、船乗りかい。これから何処に向かうんだ?」
 そう言いながらテーブルにやって来たのは、酒場のマスターだ。
 まだ時刻が早いせいか店内は空いていて、自ら料理を運んで来てくれたらしい。
「えっと、カリブに行こうと思ってます」
 少し照れた様子でそう返したのはリィだ。
 マスターは途端に、この場の雰囲気に似合わない神妙な顔になる。
 それだけ危険な地域だということだ。
「カリブか。帰って来れる自信は有るのかい?」
「自信……は、ちょっとわかんないですけど」
「平気ですよ」
 フェレットがそう、自信満々の声で口を挟んだ。
「アフリカでも何だかんだ言って、生きて帰ってこれたんだから。とりあえず僕らは死なないでいられる自信がある。死ななければ、つまり生きて帰ってこれるってことでしょ?」
 そう言いながら、フェレットはまた酒の入ったグラスをぐいと飲み干した。
「何より、この人がいますからね」
 或る意味彼の自信の源となっている存在。
 テーブルの反対側にいる男を、フェレットはびっと指差した……が、いない。
「れ、かおるさんは?」
「外に走って行っちゃったわよ」
「もしかして、吐きに……」
 アイの言葉を受けて、フェレットは情けない顔になった。
「自信があるにしろ、用心するに越したことは無いからね」
 一瞬静まり返った場に、マスターが落ち着いた口調で言葉を放った。
「カリブに行くと言っていた船乗りは今まで何人もいたよ。カリブでの冒険を終えたらまたここに来る、と言って出発していった冒険者もね。だが、帰って来た奴は今までに一人としていない」
 しかしその言葉は、この場に更に深い沈黙を与えることとなった。
「ひ……一人もいないの?」
 すっかり酔いが覚めたフェレット、ぼそりとそう訊ねる。
 今の言葉を聞き、明らかに恐れをなしたようだった。
「そのままカリブに居着いたとか、単純にマディラに寄らなかった可能性も有るがね。そうそう、それにもう一つ……こんな話がある」
「良い話なんでしょうね」
「ここではなく、南に有るラスパルマスの町での話なんだが」
 フェレットの声を流すようにして、マスターは続けた。
「十隻くらいの船がある、船団だったかな。彼らが同じように『また戻ってくる』と言ってカリブに出かけて行ったらしい。で、それから二ヶ月くらいして、その船団は帰って来たんだ」
「素晴らしいじゃないスか」
「ところが、船から誰も出てこようとしない。不思議に思って出航所の役人が様子を見に行くと」
「見に行くと?」
「その十隻の船に乗る船員、全てが白骨と化して船内に佇んでいたそうだ」
 マスターがそう口にしてから三十秒の間、誰もが何も言葉を吐かなかった。
 三人はただ下を向いているだけだ。
「私達を慎重にさせる為の嘘、なんてことは無いわよね?」
 躊躇いがちにアイがそう口にしたが、マスターは首を横に振る。
「その位危険な場所だと言うことだよ。生半可な気持ちで向かおうとは思わないことだね」
 アイは少しでも気分を和らげようと、酒の入ったグラスを手に取った。
 そこにまた、マスターの言葉が挟まれる。
「例えば――カリブに住むというグリーンドラゴンを見に行くとか、そんな幻想を求める為に行くのなら、よしといた方が良い」
 グラスを持った手は中空で完全に停止した。
 そして三人は顔を上げ、顔を見合わせる。
 未知の生物であるドラゴン。
 手を伸ばせば届きそうな位置にいると思っていたが、今その間に数十層の壁が隔てられた気がする。
「ああ、でも。カリブから帰って来たって言う冒険者を一人だけ見たな」
 思い出したように言うマスターの声は、三人を訝しげな表情にさせるのだった。
 さっきは誰もいないと、そう言ったくせに。
 もしかしたら単に恐がらせようとしているだけなんじゃないか? という疑いすら感じ始めている。
「名前は……ちょっと忘れたんだが、だがカリブは夢のような場所だったと言っていた」
「夢のよう、ねぇ……」
 すっかり興醒めしてしまったフェレット達。
 そう言われても、苦い笑いを浮かべることしか出来ない。
「それに何だか今、向こうはイングランドだかの商会の奴らが幅を利かせてるらしいぜ。それも、その冒険者が言ってたんだが」
「イングランドの商会? カリブで?」
「ああ」
 夢の世界に、現実で聞かれる単語が土足で踏み込んでいったような感じだ。
 フェレット達は益々反応に困って、ただ正常な顔になっていた。
「なんでも交易品とかがその商会にすっかり独占されちまってて、ろくに買い物出来なかったんだとさ。何て言ったかな、商会名は。確かラン、ランチェス、なんとかって言う……」
「ん、二人とも。ランチェス……なんとか商会って、聞いたことありませんか?」
 ちょこんと首を傾げながら、リィがそう言った。
「イングランドの商会だからねえ、知ってても不思議は無いけれど」
「フランチェスさんを思い出すな。ヴェネツィアの人だったけど」
 アイとフェレットの二人は、わかるようなわからないような微妙な感じである。
 リィ本人も似たようなものであったが、彼女の心には何故だかその名前が引っ掛かり、いなくなろうとしなかった。
(ラン、ランチェス……何だったかしら?)
 ――もしかして、とリィは一つのことに気付いた。
というよりも希望を込められるものにすべく、そう結び付けようとした。
 フェレさんもアイさんも知らなくて、私が知っている名前。
 それはもしかしたら、私の記憶に関する……私の過去に関わる名前?
 そう考えると、本当にそのように思えてくるから不思議だ。
 たった少し過去へと思いを巡らせただけで、急激に身体が冷え込んだように感じる。
 まるで身体がそれを拒絶しているかのよう。
 ぎゅ、と。
 テーブルの下で見えないようにして、リィはフェレットの手を握った。
 よく分かっていないながらも、彼はそれをちゃんと握り返してくれる。
(大丈夫。私は独りじゃない)
 フェレさんがいてくれる。
 アイさんも、かおるさんも傍に付いていてくれる。
「ね。フェレさん、アイさん。楽しい航海にしましょうね」
「ん……そうね」
 リィの優しい笑みを受けると、アイも負けていられないとばかりに、戸惑いの気持ちを強引に吹き飛ばす。
「今回は食料を一杯積んだから、お酒があまり無いのが残念だけどね。でも、まあいつものように何とかなるでしょう」
 ”何とかなる”
 言葉の語感は頼りないけれど、それは確かな実績に裏付けされた言葉であるのだ。
 フェレさんも何か言ってよ、といわんばかりに、二人の視線が青年の方を向く。
 二人の顔を交互に眺めながら、フェレットは酒のグラスを手にした。
「えーと……。改めて乾杯といきますか。今回の航海が、何事にも喩えられないほどに素敵なものになると信じて」
 何とか月並みな台詞を思いつき、そうしてフェレットはグラスを差し出した。
 アイも、リィも同じようにする。
 ――その空間を、鈍器で殴りつけたかのような轟音でもって砕く男がいた。
 酒場の入り口の扉ごと雰囲気を破壊して、その男――かおるはばったりと店内に倒れ伏した。
 マスターも、他に数人いる客達もあんぐりと口を開けて固まっている。
(相当酔ってるのか……)
 興を削がれて、三人のグラスは中途半端な音だけを響かせた。
「気持ち悪い……。こんな具合でヤリブなんぞに行ったら、間違いなく死ぬ。ほら、おじいちゃんもう年で……。やっぱやめようか、カソブ行くの……」
 何やらぼそぼそと言っているかおるの声はしかし、彼が抱いている壊れたドアにだけしか響かない。
「あれが君達の頼りにしてるという仲間かい。……航海の無事を心から祈ってるよ」
 ぽん、と肩を叩かれて振り返ると、心底同情の顔を浮かべたマスターがそこにいた。
(今回はちょっと、不吉な予感がするわ。こんなことで大丈夫なのかしら?)
 弱気な心を追いやろうと、リィはこっそりとグラスに口をつけ、飲み干した。
 かおるさんがあの様子では、どうせまた出港は数日遅れになるだろう。
 だから今日はとことん飲みまくろうと、リィは誓うのだった。

 不安要素は限りなく多い。
 けれどこの海を越えなければならない理由が、今の私にはある。
 ああ、私の記憶、過去を示す未知の存在達よ。
 目指す先の大陸で、本当に私のことを待ってくれてると言うの?



  1. 2006/01/08(日) 06:20:38|
  2. 小説本文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

第二十章 ONE HAPPY DAY

1

 様々な想いを奔流と化して駆け巡らせた、熱き大地からの帰還。
 アフリカも確かに魅力溢れる場所ではあったが、それでも久々に見るヨーロッパの景色は彼らを心から安らがせた。
 リスボンの整った町並みは心地よく、ここ暫くの間に起きた事件の全てが、まるで嘘であるかのようにさえ思わせるのであった。
「倫敦もアフリカも良いが、ボンリスハムも良いな」
 あれ以来、かおるは自らを印度の出身だと言わなくなった。
 どう言う心境の変化が有ったのかは、知る由もない。
 まあ今まで倫敦やら印度やらイスラムが好きやらと、あれこれ適当なことを言っていたのだから、解りやすくなって丁度良い。
 フェレット達はそう好意的に受け止めることにした。
 目的地の無い航海と言うのも久しぶりで、船団はリスボンに暫く駐留し、今後の予定についてじっくり話し合うつもりでいる。
 そして話し合いをするよりも前に、ここで大仕事をこなすこととなっていた。
 船団がリスボンに到着してから、数日。
 はるばる北海から彼らのことを尋ねて、数十人の船乗り達が来訪した。
 それはカリタスの指示によるものであり、彼がリーダーを務める商会”Bar like a child”の面々が、或る目的の為にリスボンを訪れたのだ。
 ステイシス、ガリバルディと言った名うての造船師達。
 そう、彼らはフェレット達の船団の船を新造するためにやって来た。
 そしてもう一人。
「ウォルターさんっ、お久しぶりです!」
 遅れて姿を現した、もうじき老年にさしかかろうかと言う男を目にするなり、リィは歓喜の声を上げた。
「久しぶりだな、お嬢ちゃん」
 ベルゲンで造船師を営んでいる男、ウォルター。
 カリタスとも旧知の仲であり、かつてリィの乗るフリュート船”コンスタンティア”の建造をした。
 好きな女性をイメージすることにより、芸術作品として船を造り上げると言う……その胡散臭いフレーズにリィは最初嫌悪感すら示したが、完成した船を見てその出来栄えに感動し。
 またウォルターの人柄にも触れ、その魅力を改めて知ったのだった。
「ワシの造った船、壊しちまったか。まぁしょうがねぇやな」
「ごめんなさい……」
 本当に心からすまなさそうな顔をするリィ。
「いや、何時かは壊れるからこその芸術品だ。それにこっちとしちゃあ、これでまた儲かるんだからな」
 気にする必要は無いと、ウォルターは微笑んで見せた。
「あっ……ウォルターさん、その隣にいらっしゃる方は?」
 彼に寄り添うようにしているのは、まだ二十歳になったばかりか、そこらの女性だ。
「ああ。こいつはマリアンって言ってな。ワシの婚約者だよ」
「まあ! おめでとうございます!」
 その女性をぐっと引き寄せて見せて、ウォルターは今度は豪快に笑った。
 リィはそれを見て、うっとりした顔つきになる。
 本当に羨ましいと、心から思った。
「今のワシは一人の女を心から愛してる。つまり最高の芸術作品を仕立て上げられるって訳だ。楽しみに待っとけよ、お嬢ちゃん」
「はい!」
 確かに、今の彼はやる気に満ち溢れているようだった。
 踵を返し、直ぐに港の方へと走って行ってしまった。
 途中で彼の婚約者だけが振り返り、ぺこりと一礼をして、また彼を追っていく。
「良いなぁ……。結婚か」
「リィ」
 ぼんやりとして海のほうを見ているリィの、その背中を小突く指があった。
 振り返ると、そこにフェレットがいる。
 何故だか少しだけ、表情を引きつらせて。
「オヤジ趣味だったのか?」
「違います!」
「な、なら良いけど」
 それだけ言うと、フェレットもまた港の方へと行ってしまった。
 少しよそよそしいその態度に、リィは疑問を抱く。
(もしかしてやきもち焼いてくれてるとか。さすがにそれは無いか)
 そうして彼女もまた港へと急いだ。
 そこには船団の全船長が勢揃いをしている。
 アフリカでの戦いで傷付いた船の大半は最早航行することすら厳しい状況で、丁度良い機会とばかりに全船を廃棄し、そしてさらに大きな船を新造することとなっている。
 幾つもの危険な依頼をこなしたお陰で、既に船団の懐には溢れる程の金が溜まっているし、さらにまだアフリカでこなした分の依頼報酬を受け取っていない。
 明日船団を代表してフェレットの”フォスベリー”だけが一度セビリアに戻り、多大な金を積んで帰ってくる予定だ。
 今回の報酬額は今までのそれとは比じゃない程で、全ての船を造り替えてもまだお釣りが来るだろう。
 金に余裕がある分、今回は船の種類からデザインまで各船長が設計の段階から携わり、それで一つの船を造ると言うのだから、きっと大変な労力になるだろう。
 そして、楽しい作業になるだろう。
(これから忙しくなるぞ!)
 リィは小さくガッツポーズをした。
 誰も見ていないと思ったが、丁度アイが振り向いた瞬間だったようで、彼女はくすくす笑っていた。
 思わず顔を赤らめるリィ。
 そんなこんなで、リスボンでの時は流れて行く。
 楽しい時は早く過ぎていくと言うけれど――それはとても軽やかな足取りで、けれど一歩一歩自らの居場所を確かめるかのように、ゆっくりと過ぎて行った。

2

 或る日の昼に、彼らは広場に集まっていた。
 たまには青空の下でゆっくりとするのも良いだろうと、皆それぞれ適当な場所に座って歓談をしている。
 フェレットの付近にはかおる、アイ、リィがいて、そしてアスナもいた。
 アスナがこの船団に加わってから一月近く。
 しかしアフリカからここまでの旅はずっと船の上にいただけで、まだ他の船員達と話す機会は無かった。
 そしてフェレットとアスナは、お互い微妙な気まずさを感じていたのだった。
 何せまともに会話を交わしたのが、ルアンダの町でかおるのことに関して言い争いをした、あの一回きりなのだから。
「あ、あの……。フェレットさん」
「うん? ん、何だい」
 アスナの声を受けて、フェレットはとにかく普段と変わらぬ態度でいようとして、出来ずに慌てふためいた返事をした。
 たったそれだけで、他の人間が声を挟めない程に、緊張感溢れる空間がそこに形成される。
 しかしそれもまた、一瞬だけだった。
「あの時は、すいませんでした」
 ぺこり、と大きくお辞儀をされて、フェレットは仰け反った。
「いや……ごめん、こっちこそ。ろくに事情も知らなくてさ……。それより、これから宜しくね」
「はい。あのっ」
「ん?」
 そう言うと、アスナはポケットをごそごそとして、何か光るものを取り出した。
「これ、仲直りの印と言っては何なんですけど……」
「ペンダント?」
「はい。私が作ったんです」
 緑に煌いているのは天然の石だ。
 それが埋め込まれているのは、少々不恰好な、見ただけで手製とわかるペンダントだった。
 しかしその不器用な感じこそが、また愛おしさを醸し出してもいる。
自然と、フェレットの表情がぱっと輝いた。
「僕が貰っても良いの?」
「はい。もし気に入ってくれたらで良いんですけど」
「気に入るも何も。ありがとう」
 そう言うと、フェレットは早速それを首に付けた。
 顔には満面の笑みが浮かんでいる。
 それを見て、良かった、とアスナも微笑んだ。
 一件落着、と皆が思ったところで。
「私のは」
 いきなり横から差し込まれた言葉。
 怪訝な顔をして皆が振り返ると、そこにはかおるが憮然とした表情をして座っていた。
「私のペンダントは」
「かおるさん。かおるさんのはまた作ってあげるから」
 苦笑いを浮かべながらアスナはそう言った。
 かおるの表情はまだ固まったまま。
(や、やきもち焼いてるのかしら……?)
 やり取りを黙って見ていたリィ、意外な一面を見てしまったと思って、興味深そうな表情になる。
 さらにそんな所に、抜群のタイミングで割り込んできた男が一人。
「あの、アスナさん。アスナさんって言うんっすよね」
 彼の名はパング。
 言葉遣いに特徴の有る少年船長だ。
 もっとも彼の駆る船はアフリカの戦いで沈没してしまい、今現在は”フォスベリー”の世話になっているのだが。
「今日これから暇っすか? もし良かったら、自分と一緒に海でも見に行きませんっすかねえ?」
 フェレット達の表情が皆引き攣っていることに、パングは気付かなかった。
 ――背後からにゆらりと蠢く者の存在にも。
「フグァ!」
 尻の辺りに強い衝撃を受け、パングは悶絶した。
 振り向くと、そこには無表情のかおるがいる。
「な、何するんっすか!」
「膝蹴りが滑った」
「膝蹴りが滑るかッ!」
「私は膝蹴りだけじゃなく、肘打ちも滑るよ。真空飛び膝蹴りなんかもう滑りが良すぎて、おじさん今にも放ってしまいそうで」
 その異様な迫力に、パングは圧倒された。
「すいませんでしたっす!」
 逃げるように、その場から走り去っていく。
 それを眺めた後、かおるは再び座った。
(そうか、パングちゃんはアスナちゃんの事情を知らないのね。にしてもなんと無謀な)
 たはは、と笑うアイ。
(アイツ、何だか妙なポジションに収まったな……)
 フェレットにしてもただ、哀れなりパング、とそれだけ思うしかなかった。
 しかしそう思った後に、ふとあることを思い出す。
「あ、そうだ。かおるさん。今アスナちゃんにペンダントを貰って思い出したんだけど」
「ンア?」
「あの帽子、良かったらまた僕に使わせて貰えませんか」
 フェレットが指しているのは、かつてかおると出逢った当初に彼から貰った羽付きのフラットキャップだ。
 かおると別れるとなった際に、彼に返してしまったもの。
「ほら、結局こうやってまた旅することになったんだし。あれを返して貰う為に会いに行くって話だったけど、もうその必要も無くなったもんね」
「ああ。アアー」
 ようやく思い出したのか、かおるは自分の荷物袋を取り出して、ごそごそとやり始めた。
 しかし数分経っても、見つからないようである。
(もしかして失くしたんじゃないだろうな……)
 さらに探し続ける彼を見て、フェレットの不安は段々と増していった。
 そして、かおるは荷物袋を閉じた。
 何も見つけ出した様子はない。
 皆が訝しげな顔をして、彼のほうを見ていると。
「ん」
 かおるは不意に立ち上がった。
 そして自分がたった今まで座っていた箇所を見やる。
 そこには何故だか、踏み潰されてぺしゃんこになったフラットキャップがあった。
「フオォォォーー!?」
「フォーじゃないでしょ! フォーじゃ!」
 町全体に響き渡るほどの奇声を放つかおる。
 そしてフェレットは絶望の表情をして、場に崩れ落ちた。
 少し嫌そうな顔をしつつも、アイがその帽子を拾い上げる。
 羽がひしゃげてしまっていて、最早まともに被ることすら難しいほどになっていた。
「一体なんでそこに有ったのかしらね……?」
「だ、台無しだ……」
 フェレットは地面に両手をついて項垂れている。
「ああ、それ見つかったから返す」
「要らんわっ! もう!」
 かおるの平然とした声に、数倍する大きさの声を返すフェレットだった。
「元々古くなってたしね。そろそろ、新しいのを買う頃合かなとも思ってたし……。しかしまさかこんな残酷な別れになるとはな……」
 尻に潰された帽子を大切に持っていると言うのは、あまりに何だろう。
 フェレットは泣く泣く、その思い出の品を捨てる決意を固めた。

 一行はそんな風にして、二時間程を広場で過ごした。
「カリタスさんも……そろそろ、かな」
 待ち遠しいとばかりにアイはそう呟いた。
 彼は今、”Bar like a child”を率いる者としての、大切な任務に当たっている最中。
 それが終わるのを今か今かを待ち侘びて、フェレット達は広場にいた。
(大丈夫だ。あの人ならやれる)
 彼の手腕を疑うものは誰一人としていなかった。
 しかしそれでも、彼の作業が遅れれば、やがてこちらの身が持たなくなる。
 ぐぅ、と。
 夕方になって少しだけ静まった広場に、音が鳴り響いた。
 その音を契機に、完全に無言になるフェレット達。
(誰だ……僕じゃないけど)
 それは間違いなく腹の音だろう。
 フェレットは上目遣いに面々のことを見回したが、レディ達は皆顔を背けている。
(ま、まあ誰でも良いよな。別に)
 しかしそう思った瞬間、さらにもう一度。
 ぐぐぐぐ、と、無視できないほどの長い時間、音が響いた。
 フェレットははっとする。
「リィ……」
「違いますっ」
 少々怒り気味の声でリィが言った。
 突如、ばったりと地面に倒れ伏したのは他でもない、かおるだった。
 腹の音は二度とも、やはり彼のものだったらしい。
「駄目だ。ケムンパス船長が急いでくれないと、死ぬ」
「ケムンパス……?」
「カリタスさんのことだろ」
 首を傾げるリィに、フェレットが投げやり気味な説明をした。
「けれど……確かに、私ももう限界だわ。カリタスさんはまだなのかしら」
 アイの表情も疲れ切った、蒼ざめたものに変わっている。
 フェレットとリィ、アスナもそうだ。
 体力はもう限界に近付いており、このままではどうなるかわからない。
「まだか……奴は」
 視線すら覚束なくなり、かおるは息も絶え絶えに、リスボンの町並みを眺めた。
 すると、そこには!
「待たせたな。皆」
 皆の希望を一身に浴びながら、ニヒルな顔立ちをした男が立っていた。
 こちらを見て、笑っている。
「すまなかった。予想以上に手間取ってしまってな。しかしもう平気だ」
「カリタスさん!」
「カリタスァセンチョッ!」
 餓鬼と化したフェレット達の声を浴びながら、カリタスは彼らを導いて行った。
 彼が今日一日かけて仕上げた、芸術作品の置かれた場へと。

「おお……」
 酒場に入るなり、船員達は皆その空間に魅入られて溜息をついた。
 フェレット達だけではない。
 船団の全船員が今、一堂に会している。
「フッ。カリタスプロデュースの、何もかもが計算し尽くされたこの酒宴会場の出来栄えはどうかね?」
「さ……最高だ。食材ごとの色合いまで計算された配置……一寸の乱れも無い!」
「一生付いて行きます!」
 酒場の中から次々とそんな声が上がった。
 アフリカでの長きに渡る冒険。そして、ここリスボンでの船の新造作業。
 それを労うべく、超ド級の宴会を開催しようという計画。
「食材も皆、各地に旅してきた冒険者達から買い集めた最高の品ばかりだ。皆、今日は腹がはちきれるまで楽しみ給え」
 今日この日を最高の時にすべく、彼らは皆、二日間飲まず食わずの日々を過ごしていたのだった。
(商会の責任者が、宴会部長とはな。堕ちたもんだぜ……)
 カリタスは内心ではそう思い一人落涙していたが、それもまた空腹による苛立ちから来るものだろうと解釈して。
 皆席につくなり、皿まで食い尽くさんばかりの勢いで食事を平らげ始めた。
 アフリカでは多数の水夫達が命を落とし、新たに雇い入れた水夫達はまだ、船団とは馴染みが薄い。
 彼らと親交を図ると言う目的も、この酒宴にはあった。
「悪いわね、クリスティナさん。きっと今日は狂騒夜になると思うわ」
「いえいえ、折角久々に来て下さったんですから。楽しんで行ってください」
 そう言葉を交わすアイと、船乗り達に絶大な人気を誇るというこの酒場の看板娘、クリスティナ。
 以前彼女に頼まれごとをされた経験もあって、それだけに今回のこの暴挙に対しても店は寛容に応じてくれた。
 ちなみにクリスティナと一緒に店を手伝っていた少女、カルロータは今はもう働いていないのだとか。
「それにしても、出来上がった船はみんな本当に素晴らしいものばっかだったな。特にあの新生”フォスベリー”の美しさと言ったら最高だ」
 思い出しただけで、うっとりしているフェレット。
 空きっ腹に酒を入れたせいもあって、彼の脳裏に浮かぶ船の姿はさらに魅力を増している。
 そう。
 一昨日かおるの乗るアラビアンガレー船、新生”永久機関”が誕生したのを最後に、船団の船は全て新しく生まれ変わったのだ。
 フェレットの乗る”フォスベリー”は大型キャラベル船に、アイの乗る”シャルトリューズ”はサムブークへと変わった。
 リィの”コンスタンティア”もまたフリゲート船になり、ルーファの船”ヴェレーノ・プリンシペッサ(毒の姫)”は商用のサムブーク船に。
 カリタスもまた”オールド・ブラック・マジック”を大型キャラック船として新造した。
「”フォスベリー”も確かに良いっすけど、新生”嵐を呼ぶ鹿号”は本当に最高の出来っすよ。大型キャラベル船みたいなずんぐりむっくりの形とは違って、ピンネースはシンプルながらも美しくて……」
 同じテーブルについている、パングの声。
 一瞬にしてフェレットのこめかみが引きつる。
 しかしそれでもここは目出度い酒宴の席だと、何とか堪えることに成功する。
「君はまだ子供だからしょうがないな。大人になってようやく、あのデザインの……言わばぽっちゃり系の魅力が解ってくるってもんさ」
「フェレさんはおじさんっすもんね」
 容赦なく言葉を突き入れるパングであった。
 フェレットのこめかみはさらにニ、三回もひきつったが、
(そうだ。僕はおじさ……いや、大人なんだ。こんな事で腹を立てては大人気ない。あの……あのクソガキの言動は、全て水に流してやろう)
顔面を俯かせて、すんでのところで全てを飲み込んだようだった。
 いや、まだ全身をわなわなと震わせてはいるが。
 酒宴が始まってから僅か一時間で、アイの予想した狂った夜が現実のものとなりつつあった。
 むしろそれを先陣を切って体現し出したのは、他でもならぬ彼女自身。
 そしてやはりと言うか、その手中には彼女にとっての最高の玩具が握られていた。
「ほーらレティちゃん、折角のめでたい日なんだから、今日は吐くまで飲みまくろうね!」
 言葉を吐くとほぼ同時に、膝に乗せている少女の口に酒を流し込んでいる。
 いや、流し込むと同時に、左手では新たな酒瓶を手にしている。
 少女の顔と唇は、既に青白さを超えて青黒くなっていた。
「死ぬんじゃないのか? アレ」
「あれで死ぬ位なら今までの道程でとっくに死んでるぜ。五体満足でいられるかは危ういけどな」
 テーブルを囲む”シャルトリューズ”の船員達が口々に噂する。
「ま、お陰で俺達が無事でいられてんだからな。こう言う時ばっかはあのガキに感謝するぜ」
 ”シャルトリューズ”の船員の一人である、グラフコスは我関せずと言った様子で笑っていた。
 しかし。
「ねぇ、グラフ。ちょっと来て貰えるかしら?」
(なっ……俺もかよ)
 全く予想だにしていなかった、鬼の声。
「俺がいなくても、そのガ……レティシアがいれば良いんじゃ」
「玩具、壊れたの。おいで」
 成る程、アイの隣で確かにその玩具はガラクタと化していた。
 グラフコスは他の船員を見回したが、皆やはり関わらないようにして、視線を逸らしている。
「おいで」
「……くっ」
 仕方なく、アイの席の隣に移動する。
 グラフコスはそれでもまだ、自身が殉教者となることを受け入れられなかった。
「口を開けなさい」
「い、いや」
 口を開けたらどうなるか。
 酒を流し込まれるのだろう……この息の根が止まるまで。
「ジ……ジツは俺、その、顎をちょっと病んでましてね。ほんとにちょっとだけしか、口を開けられねえんですわ……。さっきまでは喋ってられたけど、もう限界でして」
 気取られまいとばかりに、辛うじて呼吸が出来る位だけ、グラフコスは口を開けた。
 その僅かな隙間からでも酒を入れられやしないかと危惧したが、
「そうかぁ。じゃあしょうがないわねえ」
 意外にも、返ってきたのは優しい言葉。
 しかしそれすらもやはり、巧妙に仕掛けられた罠であった。
 ……罠と言うか、単に強行突破に切り替えただけだったが。
「ガボァッ!?」
 アイは形振り構わず、彼の体内へと酒を流し込んだ。
 口が開いていないとなれば……と、選んだ場所は――鼻。
「せ、船長! それは本当に洒落にならないですぜ!」
 慌てて駆け寄る他の船員。
 すると、鬼はそちらにも興味を示した。
「あら。玩具がたくさん」
「船長! 正気に戻って下せぇ!」
「私は何時でも正気よ。だってまだ、宴は始まったばかりじゃない?」
 そんなやり取りをしている最中でも、酒瓶はまだ新たな玩具へと差し込まれたまま。
 当然、グラフコスは既に白目を剥いていた。
 危険な遊戯はこれからも夜が明けるまで……夜が明けてもまだ、続いた。

 さてこちらは、船団の女性ばかりが集まったテーブル。
 リィを始めとする”コンスタンティア”の船員達、アスナ、それにロッティーナやルーファなどもこのテーブルで女同士の会話を楽しんでいた。
 何気にウォルターも婚約者と共に、ちゃっかり席に混じっていたりするのだが。
「……向こう、大変なことになってる。大丈夫なのかな……」
 阿鼻叫喚の酒宴、それは最早日常茶飯事。
 しかしそれを見慣れていないアスナはおろおろとしていた。
「アイさん達のほうなら大丈夫だよ、アスナちゃん。あの人達は宴会が始まると何時もああで、けれど数日後にはまだ平常に戻ってるから」
 リィが優しく説明をしてあげる。
「私も最初は驚いたけど、でも直ぐに慣れるよ」
「そっ、そうなんだ……」
 それでもアスナの視線はまだ落ち着かない。
 彼女はそもそも酒の味そのものを知らず、宴会のこの雰囲気自体に対応しかねていたのだ。
 リィはそのことに気付き、場に並べられている酒の種類などを一から説明してあげた。
 彼女自身酒に強い訳ではないが、この船団で過ごす内、自然に知識が身に付いてしまったらしい。
「お酒はね、楽しむ為に飲むものなんだよ。だからアスナちゃんも今日は飲もう」
「うん。ありがとう、リィちゃん」
「あ……そう言えば、船、大丈夫だった?」
 リィは訊ねた。
 彼女は過去の事件の記憶のせいで、船に乗ることに恐怖を抱くようになってしまったと、かおるから聞かされていた。
 しかしルアンダから出発して、既にもう数十日の航海を終えた後だ。
「うん。恐いと思ったけど、乗ってみたら楽しかった」
「そう。良かった……。うん、航海は楽しいものなんだよ」
「うん……。この船団の人達と一緒にいるとね、そんな風に思えてくるの。みんな本当に心から楽しそうにしてるから」
「うん!」
 ――この幸せな雰囲気を、あの子達にも味わわせてあげたかったな。
 アスナは静かにそう思って、けれど言葉には出さなかった。
 壊したくなかったから、今のこの感じを。
「にしても、アイさん達はともかくとして……フェレさん達は大丈夫なのかしらね」
 ルーファが言う。
 このテーブルはフェレット達がついているテーブルから一番遠い位置にあり、彼らのやり取りは見えない。
「さっき、言い争いしてたわよね。殴り合いにまで発展してるんじゃない?」
「いえ、ルーファさん」
 至って真剣な声を挟んだのは”フォスベリー”の副官、ロッティーナ。
「うちの船長に限って、そんな野蛮なことはしません。あの人はあれで、ちゃんと場の雰囲気というものを考慮して下さる、聡い方ですから」
 きっぱりとそう否定する。
 何と素晴らしい信頼関係だ、とルーファは感銘すら覚えた。
 そこで終わっていれば、美談として処理されていただろう。
 しかし。
「ロッティさん! ロッティさんいやすか!」
 こちらに数人の男がどかどかと音を立てて走ってきた。
 皆”フォスベリー”の乗組員達である。
 野蛮な、とロッティーナは顔をしかめている。
「……どうしたのよ?」
「大変でやす! 船長がいきなり脱ぎ始めて!」
 そのフレーズを耳にした瞬間、ロッティーナは思わずすっ転んでテーブルに激突しそうになった。
 ルーファら話を聞いていた面々も、皆表情が氷のように固まっている。
「脱……どうして、そんなことに」
「それが……パングさんと言い争いをして、互いの船のどっちが戦闘能力が優れているかという話になりまして。パングさんのピンネースにはラムが付いてるから、その分自分の船のが強いと主張をし始めまして。そうしたら、その……フェ、フェレット船長が」
 この先を口にして良いものかと、その水夫は口篭ってしまった。
「言いなさい!」
「……ラム(衝角)なら、自分の下半身にもついていると」
 瞬間、とてつもなく冷え込んだ空気がテーブルに流れた。
 それは遥か北、ストックホルム周辺の空気にも似て、寒々しく。
「で、パングさんも自分のラムの方が鋭いと、反論をして……」
「被害状況は」
「は、被害状況?」
 ロッティーナが問う。
 唖然とするその水夫。
「答えろと言っているの! 被害状況は!」
「はっ……全裸です」
「あんんんのバカ船長があぁっ!」
 数分と保たなかった信頼関係であった。
 憤怒の形相になっているロッティーナ。
 その隣に、もう一人いた。
 彼女もまた、振り向くなりロッティーナが視線を固める程の形相をして。

「オラァ! これで”フォスベリー”の方が何たら馬鹿号よりも優れてるって事が実証されただろうが! 船だけじゃなく、船長の質もなァ!」
「なーに言ってんすかァ! 破壊力と言いデザインと言い、自分の方がそっちよりも遥かに上っすよォ!」
 相対する男二人。ともに全裸。
 この瞬間において、彼ら二人はリスボンで――いや、この海で最も醜い二人であったことは疑う余地が無いだろう。
「ならっ、船員の質ではどうだ! まぁ船長の格においても明らかに僕のが上だがなぁ! ”フォスベリー”は船員も最高に素晴らしいんだぞォ!」
 ゆっくりと、フェレットの視線が水夫達へと向く。
「船長命令だ。脱げ」
「へっ?」
「断ったら今後当分、船上での食事はビスケットだけにするぞ。そしてそれだけでも君達は『こいつはうめぇ! 元気百倍でさぁ!』としか言っちゃいけない……そんな罰ゲームを与えるからな」
 フェレットは前後不覚のまま、そう言葉を吐き続けていた。
 最早相手の声がどのような響きを持っているかすらも、判別出来なくなっている。
「船長。いい加減にしてらして」
「いーや! あのクソガキに一泡吹かせてやるまではやめないぞ! 僕は!」
 背後から響く声。
 それは他の人間達を一瞬にして恐怖に包み込むほど、怒りに満ちていたものだった。
 たった一人、フェレットだけ気付いていない。
「それより、君も身をもってラムの威力を見せてやるんだ! 僕らと同じように脱っ……」
 フェレットは言いながら、振り返った。
 そして彼は表情を固めた。
 感覚がことごとく麻痺していても、さすがに視線に入れば解った。
「……ぐのは、無理ですよね。レ、レディですもんね」
 その凄まじい剣幕は、彼の身体に溜まっていた酒気を何処かへと吹き飛ばした。
「船長?」
「はい」
 フェレットは瞬く間に、ロッティーナに対して従順になった。
 しかしそれでもまだ、彼女の怒りは収まらない。
 収まっていないはずなのに、彼女はにこりと笑った。
 その瞬間の、恐ろしさと言ったら。
 フェレットはその恐怖を正面から浴びて、大口を開いたままで動けなくなった。
「ラムの威力を見せ付けてやる手が一つだけ有ります。私の進言を受け入れて頂けますか?」
「う、うん……。勿論」
「ラムというモノは本来、海上で他の船にぶつける為に使うものですよね。ならば陸上でそれをひけらかしているのは、ラムからしても不本意でしょう」
「……そ、そうですかね。やっぱり」
「そんなにその威力がご自慢でしたら、別の船に対して御使用なさるのが良いと思いますわ」
 ぎくり、とフェレットは身を震わせた。
 いや、まさかそんなはずはあるまい。
 浮かんだイメージを必死に掻き消そうとする。
「何なら私もお手伝いしてあげますけど?」
「い、いや……すいませんでした」
 フェレットはもう一度、改めてロッティーナの顔を見やった。
 紅く染まっている。
 怒りか、照れか……後者は多分、無いとして。
 こんな彼女の顔色を見たことは、今までに何度か有る。
 既に彼女とも航海を共にして長い。
 だから、知っていた。
 ”フォスベリー”の副官、ロッティーナ・フォゼリンガムはそう酒に強い方では無いと言うことを。
「あの、ロッティさんも結構酔ってるみたいだから。その……向こうでゆっくりしてらした方が」
「いえ。”フォスベリー”の副官として、果たさねばならない責務であると承知しておりますから。貴方が本来の棲み処に戻るのを、私が手伝って差し上げます」
 部下に対して敬語を使う船長。
 彼女の機嫌は、何も変わらない。
 ロッティーナは更に近付いてきて、そしてフェレットの身体を持ち上げた。
「ちょっと待て! 正気に戻って!」
 泣き叫びながら彼女を止めようとするフェレット。
 しかし如何ともし難い体勢にある。
 全裸の彼を抱えたまま、ロッティーナは酒場の入り口のほうへと走って行った。
「いやいや、待った! それだけは! この寒空の中!」
「港に停泊しているバルシャにでも突撃して来なさいな!」
 船団の面々が唖然としている中、フェレットとロッティーナの二人は闇夜へと消えて行った。
 いや、ただ一人、アイだけはそれを見て心から楽しそうに笑っている。
 対抗勢力であったパングは自らの勝利を確信したが、その瞬間。
「れッ?」
 彼もまた、中空へと持ち上げられた。
 何とか首だけ振り返らせると、そこにはルーファがいる。
 たった片腕で、パングの身体を持ち上げていた。
「行こうか。パング」
「は……はいっす」
 パングは笑って応じた。
 人は本当に怖い時は笑うしかないと言うが、それは事実だった。
 そして彼らもまたゆっくりと外に――海に歩いていく。
 その後、宴会は”シャルトリューズ”の面々が座るテーブルを除いて、とても和やかな雰囲気で続けられたと言う。

3

「気のせいかしら。今、何かが海に落ちる音が……」
 そう独り言を呟いた瞬間に、もう一度同じ音が鳴り渡る。
 気のせいではなかったらしい。
「一体何が?」
 リィは海の方角を眺めてみたが、夜の闇に阻まれて殆ど何も見えない。
 仕方が無いから気にしないようにして、リィはそのまま目的の場所へと向かうことにした。
(フェレさん達、楽しんでるかな)
 彼女は思いを一瞬酒場へと飛ばして、けれどそれは直ぐに戻って来た。
 少し歩くと、船団の面々が泊まっている宿に辿り着いた。
 一足先に戻ってきたのは、別にもう酒に酔って潰れてしまったからではない。
 自分よりもさらに一歩先に宿に戻って来ているはずの、その人物に会う為だ。
 緊張を隠しきれずに、僅かに足を震わせながら。
 リィは宿屋へと入り、そしてその中の一室へと急いだ。
 がちゃり。
 ドアを開くと、彼は起きていた。
 飲んだのは少量だけだが、極端に酒に弱い性質だそうだからてっきり ベッドに伏していると思ったのに。
「来たか」
 静まり返ったその部屋で、彼は一言そう口にした。
「すいません。折角部屋で休んでいた所を」
 そう、ここにいるのは”永久機関”の船長、かおる。
 何故戻って来ているかと言えば、あの場にいたら皆に酒を飲まされまくって大変なことになるからだ。
 普段ならともかく、今日の酒宴は本当に、酒で人を殺しかねない空気が漂っていた。
「かおるさんにずっと訊こうとしてた事が有って……今しかないと思って、来ました」
「ああ」
 アフリカで経験した、幾つもの悲しい出来事。
 特にかおるに取っては何よりも辛いことだったに違いない。
 その証拠に、普段何時でもとぼけた顔をしている……とぼけた振りを装うのが彼の信条で有るはずなのに、アフリカでの彼はずっと真摯な表情をしていた。
 しかしその反動だろうか――リスボンに到着してからの彼は、まるで呆けた老人のようになっているのだが。
 だけど今は、違う。
 彼は確かに何時にない真剣な表情をして、リィのことを出迎えた。
 失礼します、と小声で言い、リィはかおるがいる場所の向かい側にある椅子へと座った。
「来ると思っていたよ」
 さて話をしようかと思ったその時に、そう言葉が口にされた。
「かおるさん……」
 やはり、この人は知っているのだ。
 私の――記憶のことを。
 そう意識すると、途端に言葉を口にすることに、躊躇いの気持ちを抱くようになった。
 けれどそれでも、今ここで訊かなければ何も進まない。
「あの、クライドさんは」
 何とか口に出した言葉も、直ぐにつっかえてしまった。
 落ち着くんだ、と心にそう強く言い聞かせる。
「クライドさんはどうなされたのですか。あの時に……」
 アフリカで、かおるが独りで海賊団と雌雄を決したあの日。
 クライドは海賊団の一員として立ちはだかった。
 リィもそれを見ていたけれど、結局その後に起こった全ての出来事を把握することは出来なかった。
「クライド?」
「ええ」
 何故そこで疑問系になる。
 リィは心からそう思ったが、言わない。
「ああ、HIGEのことか」
「ええ」
 何故いちいち言い直すのだ。
 リィもそう、いちいち細かいことが気になってならなかった。
「散ったよ。HIGEは」
 しかし次に吐かれた言葉を聞いて、リィの表情には悲しみが浮かんだ。
 その声が、あまりに無感情な響きをしていたからだ。
 元々感情の起伏があまり表に出ない人だけど、その一言だけは、意図的に感情を取り去ったようにして聞こえた。
 まだ、悲しみが生々しいからなのだろう。
「ごめんなさい。こんなこと、訊いてしまって」
「構わん。それでどうした?」
 ぶっきらぼうな返事を受けて、リィは早めに会話を進めてしまおうと思った。
 そうした方がきっと、互いの為にも良いだろうから。
「かおるさんは知らないかもしれないけど……私達、ルアンダで一度あの人に会ってるんです。その時はアスナさんも一緒にいて」
「ふむ」
「その時、クライドさんは去り際に……私に、言ったんです」
「だっふんだ、と」
「違います」
 少し嫌な流れを感じたリィであったが、気にしないようにして自分のペースで会話を続けようとする。
「あんたの中にある未知の部分を、無理に求めようとするな。今を大切に生きろ……と、あの人はそう言いました。……きっとあの人は、私の記憶のことを知っていたんだと思います」
 そう、砂漠で倒れていて――フェレット達に助けられて、そして一緒に旅をすることになった。
 求めてやまない、それよりも以前の記憶。
「かおるさん」
「プォ」
「真剣に聞いて下さい!」
 かおるが思わず飛び跳ねるほどの剣幕で、リィは言った。
「あ……ごめんなさい。つい……」
 はっとして、そう謝罪の声を口にして。
 そして彼女は再び、正面からかおるのことを見据えた。
「かおるさんはクライドさんと仲が良かったって、聞いてます。クライドさんが私のことを知ってるのなら、もしかしてかおるさんだって、私の記憶のことを何か御存知なのではないでしょうか?」
 それは疑問系だ。
 しかし彼女の中では確信があった。
 この人ならば、普段のあのポーカーフェイスの中に何を隠していてもおかしくない。
 現に、自らの過去のことも隠していた。
「ギャル」
 相変わらずの無表情。
 しかしリィは唇を噛んでいて、その表情はさらに真剣味を帯びていく。
 数秒、その場の時間が止まったかのように思えた。
 二人とも何も言わず、ただその空間を形成するモノの一部として、そこにいた。
 ――そして。
「はっはっはっは」
 かおるは笑い出した。
 リィは驚きのあまりに、椅子から転げ落ちそうになった。
 辛うじて持ち堪えたものの、心臓がけたたましく鳴り続けていて、神経が全てそちらに向けられている。
「スマンスマン」
 まだ、笑っている。
「正直なーんも知らん」
「え……」
 リィは再び仰天した。
「えええっ! 知らないんですか、何もっ?」
 今度は逆に眼前に有るテーブルに両手をついて、かおるのほうへと大きく身を乗り出す。
「だっ、だってクライドさんと仲良かったんでしょう! それなのに何も知らないんですかあっ!?」
「まぁ仲は悪くなかったが、私は奴とは相容れん部分があった」
「えっ!」
「あのヒゲの生え方だけは、何時だって腹が立ってならなかったよ」
 その一言は、ついにリィから全ての気力を完全に奪い去った。
 べしゃり、と彼女はテーブルに潰れた。
 いや、最後に一言だけ、辛うじて言葉を放つ。
「じゃあ……どうしてさっき『来ると思っていた』なんて、意味深なことを言ったんですか……?」
「私なりに場の空気を読んだ結果だ」
 その最後の一言は、完全に無駄な労力となって終わった。
「そ、そう、か……」
 よろめきながらも、リィは立ち上がった。
 そして覚束ない動作で踵を返して、ドアの方へと歩いていく。
「ごめんなさい、余計な手間を取らせてしまって。私、帰って寝ます」
「ギャル」
「はい?」
 既にドアのノブへと手を触れさせていたリィに、かおるが声を掛けた。
「記憶のことが、そんなに気になるか」
「気になります。すっきりしないですもの、やっぱり。……そう言ったら、何か教えてくれるんですか?」
「いや、なーんも」
「……失礼します」
 そうしてリィは扉を開き、帰って行った。

(記憶――か)
 誰も居なくなった部屋で、かおるは一人、昔の風景へと思いを巡らせる。
 自らの過去のことを。
 それはずっと、引き出しの中に閉まわれていた。
 一端閉じてしまったそれは中々開けられず、数年間も放ったままになっていたが、最近ではすっかり出し入れが自由になっている。
 誰にも言っていない様々なことを、脳裏に浮かべた。
 印度で過ごした記憶、アフリカでの、他にも様々な場所での記憶を――。
 目を細めて、そしてかおるは考えた。
 考えたが、
(やっぱ何も知らんわ)
 そこにある光景に、あの少女の名は刻まれていない。
 あっさりと諦めて、彼はベッドに入って寝た。

4

 直ぐに寝てしまおうと思っていたが、リィは帰りに何となしにフェレットの部屋を横切った。
 不思議なことに、そこには明かりが点いていた。
(もう帰ってるのかな? 早過ぎるような……)
 そう思いながらもドアを開くと、そこにはやはりフェレットがいた。
 いや、それよりもまず視線に入ったのは、赤い髪を持つ女性の姿だった。
「ロッティさん?」
「あっ!」
 フェレットはベッドに寝ていて、直ぐ傍に寄り添うようにして彼女がいる。
 リィはそれを見ても別に何も思わなかったが、ロッティーナの方はあからさまに表情を変えていた。
「ごっ、ごめんなさい! 私っ、その、別に何かしようとした訳ではないんですが……」
「何か有ったんですか?」
「いえっ、その!」
 彼女は何故か顔を赤らめて俯いている。
 酒に酔っているせいなのだろうか?
 そして何故だろうか、対照的にフェレットの顔は蒼ざめていた。
 それもまた、酔いのせいなのかはわからない。
「ちょっと、体調を崩されたみたいでして……。私が看ていたんですが……やっぱり、邪魔をしてしまいますよね。私、帰ります! それでは!」
「えっ? ちょっと、ロッティさん」
 リィが見送る暇さえなく、彼女は立ち上がって早々に部屋を出て行ってしまった。
 ばたん、とドアが閉じられて、場には二人だけが残される。
「どうしたのかしら……一体」
 それにしても面倒見の良い人だなぁと、リィはそんな感想だけを抱くのであった。
 そうした後改めてフェレットの方を見やる。
 最早人間の顔とは思えない程、顔色が悪くなっている。
「フェレさん。フェレさん、大丈夫ですか?」
 呼びかけても、返事が来ない。
 いや、数秒した後にようやく、ぽそりと声が届いてきた。
「リ……リィ、か」
「フェレさん?」
「僕は、もう……死ぬ」
「何大袈裟なこと言ってるんです。飲み過ぎただけでしょう?」
「ちっ、違う。海に投げ落とされ……いや、僕の不手際で、落ちたんだ」
「海に?」
 道理で、顔色がまるで海のようになっている。
 よく分からないながらも、リィはそんなことを思った。
「ラムが……もっと、大きいのを搭載しないと、歯が立たないと、実感……させられた」
「相当重症ですね。ずっと居てあげますから、じっくり休んで下さい」
「う、ん……」
 ぎりぎりの声を放つと、フェレットはもう口を開かなくなった。
 事情はよく解らないが、本当に辛そうだということは見て取れる。
(まったく)
 反応が完全に無くなったと見て、リィは彼の髪に触れて、優しくさすった。
 そうして暫くの間、彼女はただフェレットのことを見つめていた。
 ただそうやっているだけで何故だろうか、疲れ切った心が見る見るうちに安らいでいく。
(フェレさん)
 言葉には出さずに、心の中で彼の名を呼んだ。
 たまに、信じられなくなる時がある。
 この人が今まで、ずっと私のことを見ていてくれたということが。
 だってそれは、並大抵の苦労では無いはずなのに。
 この人が私を海に連れ出してくれて……大切な日々を、私にくれた。
 身体だってそんなに強くないし、別に取り立てて何か天才的な要素を持っている訳でもない。
 なのにこの人は、私の何もかもを受け入れてくれた。
 こんな幸せを、私に教えてくれた。
”かおるさんはなぁっ、僕らの想像もつかないスーパーマンなんだよ! だから絶対に生きて帰る!”
 あの時――アフリカの海で、かおるさんの安否を祈りながら、この人はそう叫んだ。
 ……スーパーマン、か。
(私にとっては、貴方だって)
 貴方のほうが……貴方こそが。
 心の中で思っているだけなのに、そう浮かべるだけで頬が紅潮するのが分かった。
「リィ?」
 不意に放たれた言葉。
 フェレットの瞳はまた閉じていたが、それがゆっくりと開いて。
 そしてリィのほうへと、向けられた。
「記憶のこと……気になるか?」
「どうしたんですか? 急に」
 本当に急だ、とリィは思った。
 アフリカではそんなこと、一度も訊かなかったのに。
「ん。いや……ね」
 声を口にしている最中、二人の視線はずっと互いだけを見ていた。
「かおるさん……隠してただろ、僕らに。昔のことを……」
「ええ」
「アフリカで、色々経験して……それで思ったんだ。あの人が過去のことを喋らなかったのは……隠したくなるほど、忌まわしい過去だったから……じゃなくて。本当に大事な、大事な日々だったから、だって。だから大切に、そっと閉まっておきたかったのかなって、思ったんだ」
 ゆっくりとだが、フェレットは確かな意思をもって言葉を連ねていった。
 リィはそれに頷くことも出来ず、ただ聞いている。
「本当に大切なものほど、迂闊に人には言えなくなるもんだ。君は暫く、自分の記憶のことを何も口に出さなかった。……僕がかおるさんを追おうとして君に呼び止められた、あの時までは」
 それもまたアフリカの、ルアンダの町外れでの出来事だ。
 かおるを追おうとするフェレットのことをリィは強引に捕まえて、そして心からの声を彼にぶつけた。
 直接記憶のことに関して台詞を口にした訳ではないが、しかし。
 フェレットはふうと音をさせて、大きく息を吐いた。
「記憶は戻りそうなのか?」
「今はまだ……分かりません」
 ようやく、絡んでいた二人の視線が外れる。
 リィはただ下だけを向いてしまった。
「けど少しずつ、何かが変わってきている気がするんです。私はそのことをもっと知りたいけれど、でも、恐くて……」
「リィ」
 再び名前を呼びかける声。
 それはリィの言葉を止めた。
「僕が、絶対に君の記憶を戻させてやるからな」
「フェレさん……」
「恐いかもしれないけど……恐さも、僕と分けよう。そうして一緒に味わおう。そしたら、少しは恐くなくなるだろ」
 ああ、何故だろうか。
 どうしてこの人は不意にこんなことを口にするのだろう。
 誰も入って来れないと思っていた、心の底に優しく触れてくれるのだろう。
 リィはその瞳から、涙が溢れていることに気が付かなかった。
「それで……それで、さ」
「はい」
「何もかもが判って……それでも君がまだ、僕と一緒に居ようって思えていたなら。――その時は、僕と」
 どきり――。
 その言葉は、リィの心臓を弾ませた。
 まずそうなってから、彼女はようやく言葉の意味を把握した。
 彼が何を言おうとしているのかを理解して……そして、その続きを待った。
 それなのに、続かない。
 数秒も待ったけれど、彼は何も言わなかった。
「フェレ、さん……?」
 逸らしていた視線を再び戻すと、フェレットはもう眠りについていた。
 振りをしているのかとも思ったが、一瞬にして寝息を掻きはじめている。
「しっ、信じられない。人間、そんなタイミングで眠ってしまえるものなの……?」
 愕然とするリィ。
 再び、どっと疲れが沸いてくる。
 けれど彼女は今、幸せ心地でいられていた。
 疲れと幸せが同居する、変な気分。
「ありがとう、フェレさん」
 眠っている青年の髪を撫でて、そう口にする。
「でも、今はまだ……。だからもう一度言って欲しい。私が何もかもを思い出した、その時に」
 大丈夫だ、私は。
 私の知らない私がどんなに恐ろしく、忌まわしい存在だとしても。
 この人を愛する気持ちだけは絶対に変わらないと、そう誓える。
 ――ああ、なんて幸せな日。
 幸せな時間を過ごしているのだろう。
 この瞬間のこの気持ちを、きっと私は一生忘れはしない。
「ありがとう。フェレさん……」
 言葉をもう一度口にして、彼女は泣き続けた。



  1. 2006/01/03(火) 03:04:14|
  2. 小説本文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

登場人物紹介【4】

koukai_kaoru2
かおる
 かつて印度にて”海狼”の異名を取った男。胡散臭い外見と言動、そして剣の腕においては右に出るものはいない。ガレー船”永久機関”の船長。

koukai_Eye2
アイ
 ”シャルトリューズ”の船長をつとめる女性。船団随一の酒飲みであると同時に一流の腕を持つ冒険家でもある。また唯一と言っても良い常識派で、変人揃いの船団の良い歯止めとなっている。

koukai_asuna
アスナ
 過去にかおるの乗る海賊船に襲われ、しかし命を奪われはせず、彼のことを家族のように慕うようになった少女。現在は”永久機関”に乗り込んでいる。

koukai_merukioru
メルキオール
 印度に大きな勢力を持つ海賊団の若き首領。ただ自らの野望の為だけに全てを使おうとする、冷徹な心を持っている。かつてかおるを部下に従えていた。




  1. 2006/01/02(月) 01:37:43|
  2. 登場人物紹介
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

フェレット(或いはスネばな)

12 | 2006/01 | 02
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Archives

Category

記事の検索

Link(公式・情報系サイト)

Link(友人・お気に入り)

TB People

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。