航海タイム

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第十八章 血と雨と(中編)

4

 左右からは風が横殴りに襲い、上空からは小石程の重さをした雨が絶えず降り続ける。
 そんな光景の中に、数十隻もの船が埋もれていた。
 嵐の中でも航海を続ける船乗りには愚か者の烙印を押される。
 下手に風に煽られれば転覆する可能性も有るし、でなくとも船員が船に落ちる危険も考えられる。
 次の町へ、或いは未知の場所へと向かう航海になる訳など無く、それは言うならば死への旅路のようなものだった。
 だが、今この海ではそんな船乗りの常識でさえ、通用しないのか。
 かつて見た事のない海の風景を見やりながら、フェレットは疑問ばかりを頭に並べていた。
 勝負を急がなければ、間違いなく双方に多大な被害が出る。
 そのはずなのに、海賊達はまるで波のように海を漂うことだけを繰り返し、目だった行動を取ろうとしない。
 攻めて来るかと思いきや、或る程度まで進んだところで退き、そしてまた押し寄せてくる。
 操縦が下手で、この風に良いように蹂躙されてしまっているとか?
 フェレットはあれこれと思案を巡らせ――やがて、一つの考えに行き着いた。
「恐らく、だけど。海賊達は僕等の船を分断しようとしてる」
「分断?」
 雨にかき消されそうだったその声に、辛うじて返事が行く。
 ロッティーナを始め、船員達は皆船長の方へと近付き、言葉の続きを待っていた。
「あいつらはさっき、白兵戦に持ち込むべく接近してきたかに見えた。けど、また波のように引いてったろ? 多分近付いてみて、わかったんだ。僕等の艦隊がまだにわかのものでしか無いってことに」
「……確かに冒険者の艦隊は、あからさまに散漫な動きをしています。しかし海賊達がそう知ったと言うのなら、わざわざ退く必要は無いのでは?」
 ロッティーナのその声は震えている。
 雨にずっと打たれたままで、少しずつ体温が奪われてきているのだ。
「だが僕等はずっと、敵の不規則な動きに混乱させられていた。周囲の”コンスタンティア”や”永久機関”が見えるか?」
 言うと、フェレットは雨霧に包まれた先を指差した。
 一見そこには何もないが、目を凝らして見れば、僅かに船の形が確認出来る。
 そしてその船は、出発した時よりも明らかに小さな姿へと変化をしていた。
 水夫達がそれを理解した上で、フェレットは話を続けた。
「少しずつ、船と船の距離が離れてってる。強風で流されていっているせいもあるだろうし……それに艦隊が、敵の不規則な動きにいちいち乗せられてるってことだ」
 押し寄せては引くのを繰り返す海賊達の船、修練度の浅いこちらの艦隊を撹乱しようという腹か。
 そうすれば細かく打ち合わせをしていないこちらの艦隊は、どう動いて良いか判らずに個々の考えだけに頼ることとなる。
 敵の動きに気をとられるあまり仲間の船との連携がおろそかになり、保っていた距離を離してしまったと言う訳だ。
「船長、敵の船がまたこちらに近付いて来ます!」
 水夫の一人がそう叫び声を上げる。
 また或る程度まで来たところで、後方へと退くつもりか。
 それとも機は熟したとみて、そのまま攻めて来る?
 見極めるより先に、”フォスベリー”へと砲弾が到達した。
 たった一撃だが、強風による揺れと混ざって、船には大きな衝撃が走った。
 フェレットは咄嗟に掴まって堪えたものの、数人の船員は耐え切れずに転倒する。
 船体に直撃はしなかった。
 ラティーンセイル(三角帆)が砲弾を浴び、破れた帆がそのまま風に吹かれ、海へと沈んでいった。
「直ぐ張り替えろ!」
「イェッサ!」
 フェレットの声を受け、数人の船員が素早く交換作業に当たろうとする。
 だが、それもまた強風に遮られることとなった。
 激しい揺れの中でまともに帆の張り替えが行える訳などなく、作業は難航した。
「くっ」
 フェレットは舌打ちをした。
 こちらが身動き取れなくなっているのも海賊達には解ってるのか、さらに加速して向かってくる。
 ――今度は牽制じゃない、本当に攻めてくるつもりだ。
 敵の進軍が殺気を帯びたように、フェレットには思えた。
「帆を張り替え終えたら、白兵戦に備えろ! 舵は回さなくていい!」
 そう指示を叫んだ。
 どのみち、この混乱状態では目立った行動は取れない。
 ”フォスベリー”だけでなく、他の船もだ。
 最早こちらが取れる行動は、敵の思惑の通りに超至近距離での戦いに応じることのみ。
 敵は遠距離戦でもこちらを圧倒していたのに、それでも接舷するつもりか?
(それ程自信があるってことだ。白兵戦にも)
 今自分達が相対している敵は、アフリカの海を制する海賊達。
 自信があって当たり前だ。
 僕ら冒険者が、旅の果てに手に入れた”未知”を自らの糧とするように、彼らもまた他人の船を襲い、命を貪り、それを自らの血肉と変えてきたのだろう。
 ――だが、僕達だって! 
「良いか、皆よく聞いてくれ」
 フェレットの声は決して大きなものではなかった。
 雨に掻き消されそうなその声は、しかし船乗り達の耳へはっきりと響く。
「正直なところ、僕らの艦隊は相当まずい状況にいる。船と船は分断されて、敵は僕らを各個撃破するつもりでいるんだろう。そして僕らに出来る事はただ一つ。自らの命を落とさないようにして、船へと乗り込んできた敵を撃退する、それだけだ」
 数年も航路を共にしてきた仲間達、その声を聞くことにも慣れていた。
 これから始まるであろう惨劇を知りつつも、一人として不安な表情を浮かべてはいない。
 揺らぐ心を必死に覆い隠しながら、彼らは黙って話を聞いていた。
「”フォスベリー”は普通の船じゃない。他のキャラック船と違い、一人欠けただけで航行不可能になっちまう、不完全な船だ。良いか、誰一人として欠けるな。何より命を最優先してくれ」
 そう静かに言い終えると、水夫達からは歓声にも似た叫び声が沸き起こる。
 船長の言う通りだ、ここで死んでたまるものかと。
 押し寄せる行軍は不吉な気配を帯びているように感じ、それを振り払おうと皆必死であった。
「船長。貴方の事は、私がこの命に代えてもお護り致しますわ。ですからどうぞ、ご心配なさらぬように」
 傍にいた女性、ロッティーナがしっかりとした口調でそう、言った。
 フェレットは困ったような笑みを浮かべる。
 今言ったばかりなのに……と。
「僕だって自分の命くらいは自分で護れるさ。それより、ロッティ」
「はい?」
 その声と次の言葉の間に、数秒の時間が空く。
 フェレットはちょっとの勇気を振り絞って、言葉を口にした。
「くれぐれも死なないでくれ。この船は四十六人乗りで、そのうち一人分は女性席として固定されてるんでね」
「女性席」
 ロッティーナはその意味を深く考えようとはせず、ただ言葉の通りに受け取った。
 意識して、数秒の後にその頬を僅かに赤らめ、あたふたとした。
(女性……女性。女性――)
 たった一言だったその声を、ロッティーナは何度も心の中で繰り返した。
 この興奮が傍目にはどう映っているか、さらに数秒が経ってからやっと気になりだす。
 それでももう、彼女はどうこうしようとは思わなかった。
 はしゃいだままで、純真な笑みを浮かべながら言葉を返す。
「そうですよね。私がいなかったらみんな、満足に掃除も出来ないような人達ですもんね……私が頑張らないと!」
「……申し訳ない」
 フェレットはたははと苦い笑いを浮かべた。
 彼女に言わせれば、相変わらずの頼りない船員であるのだ、僕等は。
 あっと言う間に素に戻り、何故か謝罪の言葉を口にさせられるフェレットであった。
 この女性の性格にもまた、何時の間にか慣れを感じていた自分がいる。
 あのどぎつい性格がこの船に馴染むのかなあと思いもしたが……今にしてみれば、彼女はちゃんと常識を持った女性であり、かおる等に比べれば遥かに付き合い易い人間であった。
 失いたくないものの一つだ、彼女もまた。
 彼女だけじゃない、この船の水夫達皆も、アイさんやリィ達、何もかも失いたくは無い。
 それは欲張りなのか?
 こんな状況であるのに、そう誰かが問い掛けて来た。
(何かを犠牲にして手に入れた幸せは、きっとかけがえの無いものになるだろう)
 無言のままで、フェレットは応じる。
(けれど僕は何をも失いたくない。大切なものを全て傍へと置いて、自分は今幸せだ、楽しい航海をしてるんだって、大声で叫びたいんだよ)
 返事はそこまでで終わった。
 それ以上に言いたいことはもう、何もない。
 噴出しそうな感情を抑えて、フェレットは海の先ばかりを睨み付けていた。
 豪雨の中、再び砲弾が飛来する。
 この視界の悪さだ、敵だって”フォスベリー”の位置を完全に捉えているはずはない。
 なのに、砲弾は船を直撃した。
 雨音を越える激しい轟音が鳴り渡り、そこにあったものが、まるで何も無かったかのように壊れて行く。
 辛うじて攻撃は船首楼を逸れたが、受けたダメージは少なくない。
 被害状況を確認すべくその場に集まる船員達。
 フェレットがまず始めに到達し、瓦礫の山を至近距離で見やった。
 目立って壊れた道具などは見当たらない。
 だが――フェレットは固まった。
 驚きも悲しみもせず、ただ、普段の表情のままでそこに止まった。
 そこにあったものを、彼の全てが拒絶して、受け入れないままでいる。
「パベル?」
 イスパニア、アンダルシアに住んでいた時からずっと一緒だった友人。
 運悪く砲弾を浴び、無残な屍となってそこにいる。
 その光景を、ただ黙ってずっと眺めた。

5

「おい見ろよッこの船! 女しか乗ってねぇみたいだぜえ!」
 下卑極まりない声が響いた。
 男としての欲望のままに吐かれた声はしかし、”コンスタンティア”の船員達に恐怖を抱かせた。
 視界の悪さに紛れ、敵がここまで来ていたことに気が付けなかったなんて。
 リィはそう歯噛みをし、剣をぎゅうと握った。
 フリュート船”コンスタンティア”の周囲を幾つかの船が取り囲んでいる。
 接舷してきたのは一隻のみで……他は牽制するかのように、ぐるぐると回っているだけのように見えた。
 この船じゃなく、他の船を狙っているのか?
 視界の悪さのせいで、それすら判別出来なくなっていた。
「みんなっ、絶対に離れないで、固まって動いて!」
 リィがそう、大声で指示を送る。
 ”コンスタンティア”の船員は皆女性、中には目に見えて怯えている者もいた。
(いけない、こんなんじゃ……)
 叱咤しても、彼女達の恐怖を取り去ることなど出来ないだろう。
 だが、怖がっているだけじゃ――どうなるかは目に見えている。
「撃って!」
 リィの声と共に、放たれる銃撃。
 それを浴び、船へと乗り込んできたばかりの海賊数人が、音を立てて地面に倒れ伏す。
 しかしそれは皮肉にも本格的な殺し合いの始まる合図となった。
 喋っている余裕は無いと判断し、海賊達もまた全速力で襲い掛かってきたのだ。
 まだ距離はある。
 幾つか取って置いた弾丸を改めて放ち、さらに海賊達を負傷させる。
 が、彼らの進撃は弛まない。
 こちらの船員は三十二人……敵は何人いる?
 リィが僅かに視線を動かした瞬間、
「ひゃはぁーッ!」
 狂気じみた声と共に、剣戟が襲い掛かった。
「くっ――!」
 敵が迫っているのは知っていた。
 それを冷静に払い除け、返す刃で首を海へと飛ばした。
 傍に居た副官リズウィーが言葉を失う程、鮮やかな手並みであった。
 そうしている彼女にも、直ぐ様刃が襲い掛かる。
 船内はあっと言う間に乱戦になった。
 リィも再び別の海賊に襲われ、刃を繰り出すもなかなか有効打を浴びせられない。
 警戒されて、敵は距離を取って攻撃を仕掛けてきているのだ。
 鋭い突きをリィは刃でかわし、そのまま攻勢へと転じようとする。
 そこに、シャワーのように背中へと降り注ぐものがあった。
 降り続く雨と同質のものであるはずなのに、それはやけに生暖かく、粘つくようにしてリィの身体を汚した。
 リィの剣は今度は違わずに海賊の体を捉えた。右腕を落とし、続く二撃目で胴体を叩き割る。
 そうした後にようやく振り返り、自分の背中に掛かった血が誰のものであるか、改めて確認をした。
 振り返った先には息を切らしているリズウィーがいて、地面に倒れている海賊がいる。
 降り注いだ血は、海賊のものだった。
「船長」
 興奮状態のまま、リズウィーが呟くように言う。
 だが、彼女は直ぐに表情を固めた。
「船長、大丈夫ですか! 怪我は……」
「私? うん、平気よ」
 彼女が何故慌てているのか、リィは解りかねた。
 だが改めて体に降りかかった液体の匂いを感じ、そして気付く。
 血は背中だけでなく、前半身にもべったりとこびりついていた。
 海賊二人を切った際についた返り血だ。
 この叩き付ける雨を受けても、それらはまだ意地悪く残ったままであったのだ。
「きゃあっ!」
 突如として、リズウィーが悲鳴を上げた。
 倒したと思っていた海賊がまだ生きていて、そいつに右足を引っ張られたのだ。
 予想外のことに対応できず、リズウィーは転倒した。
 虫の息の海賊は最後の力を振り絞り、手にした短剣を彼女の体に刺し込もうとする。
 だが、ここでもリィの動きが勝っていた。
 直ぐに何が起きたかを理解し、短剣が届くよりも先にリィの剣が海賊の右腕を刎ね、そして止めを刺す。
「船長」
 リズウィーは状況が飲み込めず、ただ呆然としていた。
 リィのことを凄いと、そう思う暇すらない。
「ねぇ、リズウィー」
 リィは逆に問い返した。
 まだ戦いは始まったばかり。
 周囲では耳を背けたくなるほど、数十の剣戟が鳴り響いて止まずにいる。
「私、殺されたくないもの。だから、倒すしかないよね……?」
 何よりこの状況が掴めていないのは自分。
 自分は今、どうしてここで……人を殺している? 殺せているの?
 今ここにいるのは、もしかしたら自分では無いんじゃないか。
 別の人格が私の身体から這い出してきて、そいつが戦っているのでは――リィはそんなことすら思った。
(だって、おかしいもの)
 私はこんなに戦えるはずはない。
 銃の腕に関して言えば相応の自信は有ったけれど、剣の腕はここまででは無かった。
 なのに、どうだ。
 瞬く間に二人を切り伏せ……自分は全くの無傷。
「船長っ!」
 リズウィーが叫ぶ。
 再び海賊が一人、リィへと刃を向けて来たのだ。
 俊敏な動きで、それを受けてみせる。
(これが私?)
 こんなに疑問を抱きながら、それなのに体は自然と、覚えていることを実行する。
 幾度か切り合った後、海賊はリィの刃を受け、死んだ。
(嫌だ、こんなの)
 私よ、掻き消さないで。
 あの楽しかった思い出の日々を、連れて行かないで。
 楽しかった日々。
 フェレットと出逢って直ぐ、”フォスベリー”の船上での一幕をリィは思い出した。
『――これ、どうするんですか?』
『どうするも何も、一つしかないだろう。これから僕等と行動して、任務をこなしてく上で……それなりの戦闘技術はどうしても必要になる。一朝一夕で身に付くものではないけど、せめて基礎くらいは教えておこうと思ってね』
 あの人はそう言って、私に剣を教えてくれた。
 今思えば彼も半分ふざけていたのだろうけど、初めて振るう剣は興味深くて、楽しさも感じた。
『これなら、鍛えたら結構なモノになるかもしれないな。よし、それじゃあもう一度』
 そう、言ってくれた。
 ……騙していたの? 私は、あの人を。
 思いとは裏腹に、彼女の視線は敵を探した。
 血を流して倒れている女性船員アタリーの姿が視線に飛び込んで来、付近にいる海賊の姿もまた目に入る。
 あいつを倒さなきゃいけない。
 私はこんなんじゃない。
 感情は休む間も無くせめぎ合いを続けている。
(許さない)
 しかしその華奢な足は迷わず、敵の下へと向かっていった。

 ”フォスベリー”、”コンスタンティア”よりもさらに後方に、”シャルトリューズ”はいた。
 船長アイは元々戦いが本分ではない。
 なるべくなら避けたいと思い、今回の戦いでも後方に配備してもらえるよう、予め話を通しておいた。
 しかしその位置までも敵船は到達し、他の船と同じように”シャルトリューズ”にもまた、黒き肌をした海賊どもが上がり込んできていた。
 アイが戦い嫌いとは言え、船員達は常々万が一の事態に備えての訓練をしてはいたのだ。
 伊達に百戦錬磨のガレー船”永久機関”の面々と一緒に旅をしていた訳ではない。
 決して優勢ではないが、海賊達と互角以上の戦いを繰り広げていた。
「おいっガキ! お前そんなとこから顔出してると、マジで殺されかねンぞ! 逃げてろ!」
 船員の一人、グラフコスが怒鳴り声をあげる。
 二十歳半ば程の年齢をした、頬に大きな傷をもったその男、剣術の腕には確かな自信を持っていた。
 船長を守るようにしてぴたりと動かず、向かい来る敵を片っ端から切り伏せている。
「ちょっとっ、誰がガキなのよ! あとで覚えててよ!」
 船室の方から聞こえてくる可愛らしい声は、すっかり”シャルトリューズ”のマスコットと化しているレティシアのものだ。
 しかしグラフコスの言うことが正しいのは解っているようで、言葉を言い終えると即座にその姿を引っ込めた。
「船長、こりゃ相当ヤバいことになってるぜ」
 ひとまず周囲の敵を倒し終えたと見て、グラフコスはそう、アイへと話し掛けた。
 彼女はと言えば、緊張した面持ちのままでそこにいる。
「前線を突破されて、敵がここまで来てるんだものね……。隙間を抜けられたのかもしれないし……みんな沈められたのかも、わからない」
「ああ。下手したら航海はここで終わるかもわからん」
 その声に、アイは返事を出来なかった。
 可能性は決して低くは無いのだ。
 あまりに不利な状況を突き付けられて、空元気を出す力さえもう体からは失われていた。
「……ま、死んでもゴメンだがな」
「え? グラフ、何が?」
 固まっていたアイの顔がきょとんとなる。
 敵はまだ、こちらに来る様子はない。
「折角見つけた旨いメシを食わせて貰える場所が、失くなるのは御免だって事だよ」
「お酒ばっかで毎日辛くなかったかしら」
「酒は好きだからな。……俺はここに来るまでは殆ど、獣みたいな生活をしてたんだよ。この船に乗って初めて知った、あれは人間の暮らしじゃなかったってな。静かな場所で飲む酒の味ってのも知ったな。それに」
「それに?」
「たまぁに船長自ら料理を振舞ってくれる日があるだろ。あれで、何だ……その。”おふくろの味”って意味が、ようやく解った気がしたんだよ」
「おふく……」
 その言葉を耳にして、アイの表情から色が失われた。
 今ここにある緊張に、さらに別種の緊張感が混じり込む。
「……嬉しいけど、せめてもう少し私に相応しい表現は思い浮かばなかったのかしら」
「この状況じゃ、あまり考えてる暇も無かったよ」
 嘘だ、絶対今の言葉が一番似合うと思って言ったでしょう。
 アイは心の中でそう断言をした。
  姉御、酒飲み船長……それに加え、新たな通り名がまた一つ。
 ――お袋。
 自らの行く末が心配になり、アイは思わずその場に崩れ落ちそうになるのであった。

6

 カリタスは険しい表情をして、海の方を見やっていた。
 閉ざされた視界の先に、幾らか知った姿をした船を発見したからだ。
(あれは、確か)
 キツネを象った紋章を掲げたキャラック船。
 あの男、ジャン・イーヴが船長をしていた船だ。
 砲弾を浴び、撃沈されたのは見ていた。
 その時はもっと離れた場所にいたはずだが……強風に煽られ、流されてきたのか?
「接舷してくれ」
 カリタスが指示を送り、”永久機関”はその船へと近づいて行った。
嫌な予感はしていた。
 風のせいで一ヶ所に留まっていられない二隻の船、ぎりぎりの所まで近づいて、橋を架けた。
 その船はすっかり生気を失っていて、人の影は全く確認できない。
(駄目な様だな)
 白目を剥き、血を流して倒れている人間の数、船内を探し回るうちに十を超え、二十を超え。
 船員達は皆沈痛な表情をして、ただその光景を眺めることしか出来なかった。
(もし生存者が誰一人としていないのなら、早めに捜索を打ち切るべきか)
 こうしているうちにも海賊達の静かな行軍は続いている。
 今”永久機関”を狙われればひとたまりも無いだろう。
「よし、”永久機関”まで戻っててくれ。船室を見ている水夫達が帰って来次第、私も戻る」
 カリタスは早々に指示を下し、付近にいる船員達を元の船へと帰らせた。
 あと数人、船室の最奥部まで捜索に行っている水夫達が帰ってきたら、自分も戻るつもりだ。
 恐らく生存者はいない……もしいたとしたら、この状態で船室に篭っていることは考えられない。
 操舵をしなければ船は果てまで流されて行き、それは死と同義なのだから。
 だが幸い、カリタスの予想は外れた。
”永久機関”の船員達は数人の生き残りを連れて、船室から戻ってきたのだ。
 その中にはこのキャラック船の長、ジャン・イーヴの姿も含まれていた。
「無事だったか」
 カリタスは無愛想な声でそう、爬虫類顔をした長身の男へと声を掛けた。
 ジャン・イーヴの右手には剣が握られたままだが、見たところは目立った怪我を負っている様子はなかった。
 或いはこの降り続ける雨で隠されているだけなのかもわからない。
「俺はな。だが、船員の大半は死んじまった」
 ジャン・イーヴはそう吐き捨てた。
 悔しさも悲しさも、表面上は感じられない。
「お前等も、あまりここに長居してねえ方が良いぞ。海賊はまだ山ほどいるんだからな」
「船内にか?」
 カリタスは驚き、周囲を見渡した。
「この海にってことだ。船内の奴等は全て殺した」
「そうか……」
 死体の数が多かったのは何も、こちらだけが一方的にやられた訳ではなかったのか。
「船はもう動かんだろう? なら早々に私達の船へと移動しよう。また何時敵が襲ってきてもおかしくない」
「ああ」
 ジャン・イーヴの声は何処か別の空を向いているようであった。
 仲間を失った悲しみのせいだと、カリタスは察する。
 だが、それだけではなかった。
「……あいつは何モンだ?」
 不意にそんな声が届いた。
 見ると、ジャン・イーヴは明後日の方角を向きながらぶつぶつと呟きを上げている。
「一方的に船を沈められて、下手すりゃ皆殺しの憂き目に遭うとこだった。……奴がいきなり飛び移ってきて、変えちまった」
「何を言っている?」
 気でも違えたのかと心配し、カリタスが近付く。
 ジャン・イーヴの視線の先へと、同じように目を向けてみる。
 甲板の隅で一人、雨に打たれながら何かを貪り食っている男が一人、そこにはいた。
 顔面部は、奇妙な形をした仮面で覆い隠されている。
 だが、その仮面ですらそこから生じるオーラを隠し通せてはいなかった。
「自分の船の食料が嵐で全部流れちまったらしくて、ここに来るまで殆ど何も食わずにいたんだとよ。この船に乗り込んだのも元々はメシに有り付く為だったらしい。考えられないだろ? そいつが、海賊達をたった一人で片付けちまったんだ」
 虚ろな声で、ジャン・イーヴはつらつらとそう説明をした。
 だが、カリタスにはその声は届いていなかった。
 ただぽかんと口を開けて、そこに固まっている。
 ――あの男、さっきからずっとあそこでああしていたのか。
 それなのに何故自分は気付けなかったのか、向こうは気付こうとすらしていないのか。
 疑問が雨に混じって降り注ぎ、開いた口が塞がらないままでいる。
 その疑問を解明しようとは考えず、カリタスはつかつかと歩いて行った。
「おい」
 仮面のと顔の間に器用に食料を潜り込ませ、食事をしている。
 あまりに異様な光景に、カリタスは表情を引きつらせた。
「……おい」
 もう一度声を出したが、男はこちらを意に介する様子はない。
 カリタスは座り込んで食事をしているその男の襟首を掴み上げた。
 ぎろり、と仮面がこちらへと向く。
「フオォオオッ!?」
 刹那、雨音すらも完全に掻き消してしまうほどの叫び声が響いた。
「何やってんだ、あんた……」
 仮面とカリタスの視線が合った。
 だがその仮面は直ぐにまた、食料のほうへと視線を戻す。
「私は祭礼をする為に産まれた祭礼用マスクマンだ。ナリタスと言う男の名など知らないな」
 先程とは打って変わって、虫の羽音のような声が響いた。
 それを聞き、カリタスの顔がいっそう引きつる。
「生憎、私もナリタスという名前の人間は知らない。だが」
 ぐいっ、と。
 強引に首をこちらへと振り向かせた。
「君はカリタスと言う名前の男を知ってるはずだ。知らぬとは言わせん」
「知らぬ」
 いい加減話の進まないやり取りにも飽きたようで、カリタスはその男の顔面を覆っていたマスクをがっと掴み、
「フゥアッ?」
 目の前の男が焦るのもまるで取り合わずに、それを素早く海へと投げ捨てた。
 仮面の中から現れた男の顔はやはり見知った顔であり――その顔は歪んでいた。
「あ、あんた何て非人道的なことを……もしや海賊か!」
 吐かれた叫び声は誰からも返事を貰えずに、空へと消えて行った。
 カリタスの視線は眼前の男だけを見据えている。
(やはり来たか)
 その男の名前、かおる。
 出身はイングランド、性格は極めて不可思議。
 それ以上は一切謎に包まれたこの男は、船員皆に愛される男であった。
 カリタスもまた、確かな信頼のおける男だと、彼をそう見ていたのだ。
 最後に会ってからもう数年の時が流れているが、かおるの顔は変わっていない。
 だが一つだけ感じる違和感、それは、
(……白髪?)
髪の色。
 かつて倫敦を訪れた時は紫色だったし、航海の途中に自分でちょこちょこと色を弄っていると言うのは、フェレットから聞いた覚えがあった。
 だが、今の白髪は……普段の人工色のものよりも、生気が感じられない。
 まあ深くは考えるまい、とカリタスは自らの意思で思考を切った。
「ここに来たと言うことは戦うつもりでいるんだろう? なら早く援護を頼む。現時点で相当まずい状況にあるんだからな。大体船はどうしたんだ?」
「船員に無理に付いて来て貰ったからな。先に船ごと帰ってもらった」
 どうせならそのまま戦って貰えば、とカリタスは思ったが、直ぐに考えを改める。
 時間を掛けている暇は無いと、早々に船へと戻ろうとする。
 だが、そうはいかなかった。
 かおるはあっと言う間に数人に囲まれて、そこから身動きを取れなくされていたのだ。
「船長」
 ”永久機関”の船員達は皆、感慨深げな様子で立っていた。
 かおるの姿を目にして、名前を呼ぶだけで、それ以上にどうしたらいいか解らないままでそこにいる。
「私はここまで”永久機関”に乗ってやって来たんだよ。ようやく慣れぬガレー船の船長と言う責務から解放される時が来たか」
 その様子を羨ましく感じながら、カリタスは言った。
「船を放ったらかしにして蒸発した男に、船長をやる資格なぞ無いよ」
 だが、かおるの返事は芳しいものではなかった。
 ずっとぶっきらぼうな口調で続けられていた声だったが、ほんの僅かの寂しさが抱かれたように、カリタスには思えた。
「それが本音か? なら言わせてもらう」
 本音じゃないだろう。
 カリタスは心ではそう見透かしながら言葉を続けた。
「放ったらかしにした船員達は君を慕ってここまで来た。その好意すらも無にした時、君は本当に船長の資格を失う」
 仏頂面をしている男に向け、カリタスはふふと笑みを投げかけた。
 口調こそ厳しかったが、つまりこの船の長として相応しいのは君なのだと、そう言っていた。
 彼はルアンダではかおると会わなかったものの大体の事情を聞き、そして察していたのだ。
「もう一度、自らの周囲を見回してみるんだな。彼らがどんな思いでそこに居るのか、じっくり見てみると良い」
 言われるがままに、半ば無意識にかおるの表情が動く。
 ゆっくりと視線を傾けると、”永久機関”の船員達は皆、歯を食いしばるようにして泣いていた。
 その光景を目にし、ずっと石像のふりをしていたかおるの表情が、耐え切れずに歪む。
 襲い来るのはただ後悔の念だった。
「それに私にはやっぱり、百足みたいな形をしたガレーよりも帆船のほうが似合うんでね」
 言いながら、カリタスは右手を差し出す。
 かおるは再び顔面に無表情を貼り付けて、それでも数秒の後に自身の右手を重ねた。
 まだ躊躇いは有るようだったが、確かな彼の本心であった。
 ”永久機関”の船員達が歓声を上げ、一層の涙を流す。
「迷惑掛けたな、ジャッキー」
「ジャッキー? 誰だそれは?」
 かおるの突拍子もない声を受け、カリタスはただ訊き返すことしか出来なかった。
 数秒後にはそうしたことを悔やむ羽目になると言うのに。
「ジャッキー・カリタス(カルパス)」
 呟くように声が重なると、その場は気まずい沈黙に包まれた。
 雨の音、風の音が耳を劈くように鳴り渡っているはずなのに、全くの無音のように思える。
「んじゃ、行くか」
 かおるは踵を返した。
 甲板に転がっている食料をがっと拾って、そのまま海の方へと歩いていく。
 海より先に視線に入ってくる姿があった。
 ”永久機関”と名付けられたガレー船。
 一見して禍々しささえ抱かせるその船は、数年間の時を共にしてきた大事な仲間。
 前に見た時よりも老朽化が進んでおり、自分がどれだけそこから離れていたのかを表していた。
 あの船に乗り込んだとき、さらに実感することになる。
 何を忘れようとして、何を置いて来たのか――それらがどれだけ大事なものだったか、再び思い起こすこととなるだろう。
 大切な場所を一つしか選べないとして、二つの場所が同時にこの海に存在していることを、改めて自分は知る。
(――行かねばならぬ)
 暗礁に乗り上げようとする思考とは裏腹に、両足はもう迷わなかった。
 誰よりも先んじてタラップを渡り、そして自らの船へと歩いて行く。
 ”永久機関”の船員達は歓声を上げながら、それに続いた。
(今はただ、彼らとの再会を喜ぼう)
 やがてそう、思考は落ち着いた。
 彼らがどれだけ愛しい存在であったかを改めて知る……知れば良い。
 そうして悩むことがあるのなら、ひとしきり喜んだ後に死ぬ程悩んでやる。
「さて……私達も行かねばな」
 かおるが”永久機関”までたどり着いたのを確認した上で、カリタスは背後に振り向いた。
 そこにはまだジャン・イーヴの船の水夫達が残されている。
「ジャン・イーヴと言ったな。君達も早く乗り移らないと置いてくぞ」
 そう呼び掛けても、ジャン・イーヴはぽかんとしてそこに立ったまま。
「どうした?」
「何も実感が沸かねぇんだよ。船員が殆ど死んじまったことも……俺がなんで生きてんのかもな」
 それは乾いた空気のような声で、感情が乗ってはいない。
「全部あの野郎のせいだって解った。全く理解がつかねぇあの男のせいで、まるで夢かなんかを見ているような気分にさせられてんだよ。……あいつは何だ。何モンなんだよ、一体……」
「何者だ、か」
 視線の先にいる男。
 カリタスはその男のことを知っているつもりでいた。
 それなのにその像は時々ぼやけて、霧の中に消えてしまおうとする。
「私が知りたいな」
 まごうのことのない本音で、カリタスはそう言った。

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  1. 2005/09/26(月) 15:13:13|
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第十八章 血と雨と(前編)

1

 吸い込まれそうな青があって、遠く連なる岩山がそこにある。
 何たる雄大な眺めをした土地だ――ケープ。
 素晴らしき景色のどれよりも強く目に焼きついたのは、町を見下ろすようにして聳える山の存在。
 頂上が平らな山……その名をテーブルマウンテンと言うらしい。
 船団の面々誰もが、如何にしてあの山がああなったのか、興味を抱かずにはいられなかった。
「地盤の柔らかい部分が風雨で削り取られて、ああやって固い部分だけが台形上で残ったんだそうよ」
 この地の人間と面と向かって会話を出来るアイが、ケープの民からそう情報を仕入れてきた。
 町に着いてすぐなのに、フェレット達は一列横並びになって、皆同じ顔をしてあの山を見ている。
 何たる珍妙な集団、と地元の人間には思われていそうだが、それすら気にならないほどの興奮を胸に秘めて。
「……間違いなく、世界でここにしかない山だぜ。あれは。なあ、リィ」
 無我夢中になりながら、フェレットは呟くように言う。
 こくりと頷きを受けて、また瞳を山のほうへと向ける。
「凄ぇ……」
 僕らは船乗りで、冒険者だった。
 あのテーブルマウンテンが、それを強く実感させてくれた。
 ――船乗りでいて、良かった。
 全てを投げ出してでも、目にする価値がある山だ、あれは。
 フェレットはそんな言葉を、頭の中で何度も何度も繰り返していた。
 彼だけじゃなく、皆そうだ。
 だから山だけを見たまま、何処にも行こうとしない。
「船長」
 女性の線の細い声が左方から響く。
 すっかり聞き慣れたものとなった、ロッティーナの声だ。
「私、この船団に入って本当に良かったと思っています。海軍にいたら絶対に見られない光景です、あれは」
「ああ! 僕も似たようなこと、感じてたよ」
 歓喜の声をフェレットは返す。
 そうだ、ここ最近は色々複雑な事情も絡んでいたけれど……今も絡んでいるけれど、僕らが旅を続ける理由は未だ目にしたことのない場所を探す為。
 例えばあの山のように、これからも未知の光景が僕らのことを待ち構えているのだろう。
 そうに違いない。
「んでも、ロッティが素直に褒めてくれるのって珍しいな。こりゃ嵐が来るかもしれん」
「船長から見て、私はどんな短気な女なんですか? 私だって素直に良いと思ったものは良いって言いますよ、全く!」
 どんなと言うか、そんな位だと思っているけど。
 そう、フェレットは心の中でだけ呟いた。
「……それに、褒めたのは山で、別に船団そのものを褒めた訳じゃないですし……でも、入って良かったとは思ってますけど……」
 感想を抱き辛い呟きがさらに届いて、フェレットはとりあえず何も返さずにおいた。
 こんな知らない大地に自分達はいるけれど、心地良い空気を感じている。
 もう少しこうしていられたらと思うが、しかし本来の目的は他にあるのだ。
「……これでこの後に控えてる海戦さえ無けりゃ、本当に楽しい旅だったと言えるんだけどな。つくづく難しいもんだよ」
「ええ」
 冗談めいたやり取りをしていたが、その言葉を境にロッティーナは表情を引き締めた。
「そもそも今ここでこんなことをしている時間だって、本当は無いのですからね。同胞達は、休憩所で待っているとの事ですよ」
「そうだな……。ああー、こんなだったら依頼なんか受けないで、ただの遊びとして来るんだったよ」
「今回ばかりは私もそう思いますね」
 苦笑する二人。
「とは言え、期限が間近に迫っているからな。行く気でいるんだったら早めに一度、顔を出しておいた方が良いと思う」
 休憩所の方角を指しながら、現在暫定で”永久機関”の船長として納まっているカリタスが言った。
 あくまで暫定で、この先彼が正式の”永久機関”の船長になることはおそらく無いだろう。
 彼自身も自分があのガレー船の長として相応しいとは思っていない。
 資質、能力の問題でなく、単純にあのガレー船が最も似合う男が、他にいるからだ。
 この旅はその男を船団へと連れ戻す旅。今もまだ、その航海の途中にいる。

 ヨーロッパにあるような酒場、宿屋はこのアフリカにはない。
 店の半分程が剥き出しになった休憩所が代わりとしてあって、親しい家族のような風景がそこにあった。
 言葉は違えど団欒の風景はヨーロッパもアフリカも同じだ。
 居るのはアフリカの人間ばかりで、今回の依頼をこなす為に北から訪れた同胞の姿は見られない。
「案外、これからお仲間になるその人達も、アフリカの風景に見惚れてたりするんじゃないかしら?」
「こんな素敵な場所ですもの。二つの目が付いていれば、誰だって魅了されますよね」
 アイとリィの二人は談笑しながら席へと付いた。
 今回、休憩所の主人と会話をする役はルーファ、カリタスに任せている。
 どんな料理が来るかと楽しみにしていたが、ふとちらりと視線を傾けてみると。
「ファッ!?」
 そんな奇声を、二人ほぼ同時に放った。
 いきなりのことで周りの人間は驚き、怪訝そうにして二人へと視線を集中させる。
 なんだこいつら……と、最も二人のほうを怪しむかのように見ているのは一番の身内、フェレットだったりする。
「ちょっとっ、フェレさん!」
「んー? アイさん、幾らケープの町並みが物珍しいからって……恥掻かせないで下さいよ、僕らに」
 少し嫌らしい笑みを浮かべながらフェレットは言った。
「いや、違うのよ! あっち見て、フェレさんも!」
「あっち?」
 アイがばっと指差した先に、フェレットは素直に視線を送った。
「フゥァアッ!?」
 再び放たれる奇声。
 送るなりぱっと見開き、後ろにさっと飛び退く。
 アイ、リィの二人はほれ見たことかと、じと目で彼のほうを見ている。
(何たる事……)
 彼等三人が一体何を見て驚いたのかと言うと、それは休憩所の店員の姿。
 看板娘……と呼ぶには薹が立ち過ぎていて、そして恰幅が良すぎる、そんな女性がいた。
 彼女のその力強く陽気な雰囲気に圧倒された訳ではない。
 ただ、よく知る人間の姿に酷似していたのだ。
「……あれ、フアナおばさん……?」
 アイへと囁き訊ねるフェレット。
「有り得ないわ。大体肌の色からして違うもの……」
 肌の色からして? いや、肌の色だけが違う。
「凄いですね……。国が違っても、あんなにそっくりな人がいるなんて」
 あまりのそっくりさにリィも半ば呆然としている。
 フアナと言うのは地中海に面する町、セウタで暮らしている女性の名だ。
 同じように酒場の店員をしていて、記憶を失ったリィに優しくしてくれた親代わりのような存在でもある。
「アレクサンドリアでもリィにそっくりな子がいたな。……人種が違っても、何処かで繋がってるのかもな」
 後半の科白はしっとりとした空気を持たせて、フェレットは言った。
 何が繋がっているとは言わないけれど、種類こそ違えど同じ人間であることには変わりない。
 閑話休題して、思考は再び、後に控える海戦へと向けられる。
「にしても……他の冒険者の方達は、どの辺りにいるのかしらね?」
 アイが言う。
 期限の日までまだ数日有るし、もしかしたらまだ自分達以外の冒険者達はここまで辿り着いていないのかもしれない。
「大体依頼内容自体が、大きな依頼の割に細かい部分が適当だからな。『ケープの港から近い休憩所に期日までに集まった冒険者達で力を合わせて海賊を倒しに行け』って、それだけだもん」
 やれやれと息をつき、フェレットはぼんやり海のほうを眺めた。
「セビリアからこんなに離れてるんだもの。緻密な指示なんて出せっこないわ」
「確かに」
「依頼人の思惑としてはとりあえず冒険者達に依頼してみて、もし海賊達を倒してくれたら儲けもの、ってスタンスなんじゃないかしら?」
「仮に冒険者達がやられても、向こうからしたら損害を被る訳でもない……僕らは都合の良い協力者ってことか」
「フェレさんはともかくとして、私達はイスパニアの出身ですらないからね。向こうからしたら、さぞかし便利に思われてるでしょう」
「ふむー、まあ頑張るしかないですね。ここまできたら」
 投げやりな口調でフェレットは言った。
 自由な船乗りを気取るフェレット、出来れば国家間の汚い部分には関わりたくないらしい。
 セビリアだってリスボンだって、倫敦だってアムステルダムだって、みんな素敵な場所だった。
 だけどその町の人間達が全て平等に、仲良くやれるかと言えばそんなことはない。
 スペインの支配下にあるネーデルランドでは独立運動が活発化して来ていると聞くし、新教国のイギリスもまた、旧教国のスペインとはかねて対立関係にある。
 イギリスとスペインの間でもし戦争が起こりでもしたら……どうなってしまうのだろう? この船団は。
 スペイン人である僕と、イングランド人であるアイさんやロッティーナ達、皆離れ離れになってしまうのだろうか?
 そんなことを深く考えたこともあったが、”実際にそうなってから考えよう”と言う結論に落ち着き、最近は考えないようにしている。
「なんか面倒になっちゃったなあ。依頼を放っぽって、ただのアフリカ旅行にしようか」
 彼の思惑では元々、海戦に赴く前にかおるを再び仲間に加え、彼が先頭に立って戦うその場所を用意するつもりだった。
 何でも子供と一緒にいるとかで腕もなまってそうだし、リハビリ代わりに丁度良いのではないかと。
 しかし色々複雑な事情が絡み合った末に結局、今かおるはここには来ていない。
「数秒前と言ってることが違うわよ。フェレさん」
「だって、元々戦う事はあんまり好きじゃないし。報酬額は凄まじいけど、僕らそこまで金に困ってる訳でもないしな」
「新しい船を買おうよ。今でも大分貯金はあるけど、さらに一段階大きい船を買う勢いでやりましょう」
「そっすね」
 また、投げやりな返事。
 今回の依頼に抱いていたはずの興味の三分の二程は、ルアンダに置き忘れて来たままのようだ。
「わざわざ依頼する位なんだから、海賊の戦力はかなりのものなんだろうな。かくなる上は、他の冒険者の戦力に期待するしかない。僕らはまあテキトーにやるとするか」
 覇気のない声でぼやくフェレットであった。
 どうせ言葉が聞き取れているのは船団の仲間達だけだし、何時もの冗談と思って流してくれるだろう。
 そう思っていたのだが、しかしタイミング悪く。
「はっ、戦いがお嫌いなら、わざわざ参戦しなくても丘に上がって応援だけしてても良いんだぜ?」
 休憩所の外から、そんな声が響いた。
 言語はスペイン語。
 だらけていたフェレットの顔が、一瞬にして引き締まった。
「わざわざアフリカくんだりまでご苦労なこったが、俺達も無駄な死人を出したくないんでな」
 クックッ、と笑みを含ませた声。
 それを鳴らしながら、彼等は休憩所内へと入ってきた。
 声の数は一つだったが、人間の数は二人。
「誰だ? あんた達は」
 フェレットが問うが、直接の返事は無かった。
「Hola(こんにちは)、盟友達。アフリカ観光は楽しめたかい?」
 わざとらしい言い回しをして、その声はまた笑う。
「エメラルドの海もじきに赤が目立つようになる。そうなる前に観光を終えて、さっさと引き上げった方が身の為だぜ、お坊ちゃん」
 声の主は細長い体躯をしていて、その瞳はぎょろりと大きく、爬虫類のそれにも似ていた。
 その隣には対照的にがっしりとした四角形の肉体を持った、落ち着いた雰囲気をした男がいる。
 身長は大きくないが、まるで岩のように頑丈そうだ。
「よせ、ジャン・イーヴ。まだろくに会話もしていないのに、突っ掛かることも無いだろう」
 見た目通りの物静かな口調で、男は諭すように言った。
 だが、そのジャン・イーヴと呼ばれた男は益々声を荒げるばかり。
「だってよ、こいつらんトコの陣営をよく見てみろよ。どいつもこいつも役に立ちそうも無え女ばかりだぜ! よく言うだろう、航海に女は不吉だってな!」
 その声はアイを始めとした女性船員達の目の色を変えさせたが、それでも何とか抑えている。
「命がかかった戦いに女連れで来るような奴らに、背中を預けることなんか出来ねえだろう。俺らは戦いに勝って、報酬を受けるために此処に来たんだからな。そうだろ? ピオ」
 岩のような体をした男、名前はピオと言うらしい。
 しかし名前を呼ばれたものの、彼は憮然として返事をしなかった。
 あまりな物言いに、仲間である彼までもが腹を立てたのだろうか。
 憮然としているのは彼だけではない。
(まったく、何時かの時と言い……どうしてこう女性蔑視主義の男が後を絶たないのかしら)
 今回は怒っては駄目だ、他人事として聞いていよう、とアイは自分に言い聞かせていた。
 彼等とは、今後共同戦線を張ることになるのだ。
 ここで迂闊なことを言って、関係が悪くなっては困る……もう十分悪くなっている気もするが。
 アイはちらりとフェレットのほうを見た。
 船長として、びしりとあの男に言ってくれないだろうかと、一縷の希望を抱いて。
 だがフェレットはあからさまに狼狽しており、どうやってこの場を纏めようか悩みに悩んでいる様子。
 あれではとても、ウィットに富んだ発言など期待出来そうもない。
 アイは溜息をつきそうな顔になった。
「悪いがそれは、少々知識に欠けている所が有るんじゃないか?」
 と思いきや、曇った空を切り裂くかのような鋭い声。
 見るとフェレットは相変わらずで、彼の口から出たものではないようだ。
「何者だ? お前は」
 カリタスが何時の間にか席から立ち上がり、そしてやって来た二人の方へと進み出ていた。
「海は男だけの物じゃあない。この海には女の冒険者なんてそれこそ星の数程いる。まさかそれを知らずしてここまで来たわけでは有るまい」
「死んだ星ばかりだったぜ。ろくな航海技術も持ってねぇ上に、他の船員を混乱させるだけのな。それに身体も弱ぇ。海戦なんてもっての他だ」
「凶悪さで歴史にその名を残した女海賊、アルビダを知らないか? 彼女の船も皆女性の船員ばかりだったと聞くが。仮に彼女達と戦いになったとして、君達は百パーセント勝てると言えるのか?」
 カリタスが挙げたアルビダとは、かつてバルト海を中心に活動した女海賊の名だ。
 元々スカンディナヴィアの王女だったが、他所の国の皇太子と結婚させられることを嫌がり、海へ出て名を馳せたと伝わっている。
「屁理屈言ってんじゃねえよ。アルビダ自体、実際に居たかどうかも判らん人物だろう」
「だが、万が一つでも負ける可能性があると思うのなら、君にこの船団の女性船員達をけなす権利は無くなる」
 へらへらと笑っているジャン・イーヴに比べて、カリタスの視線は真摯そのもの。
 真っ直ぐな光を湛えていて、そこに一寸の曇りもない。
「何故なら、彼女達がアルビダに劣らぬ資質を持っているかも、判らないからな」
「ハハハハ! すかした顔しやがって、どんなこと言うのかと思えば! 自分の船団贔屓もいい加減にしとけよ!」
「私は正確にはこの船団の一員じゃない。あくまで手伝いに来てるだけだ」
 侮辱の声を受けても、カリタスは至って平然としている。
 自身の言葉が間違ったものではないと、確信が有るからだ。
「まあ君の人間性にどうこう口出しするつもりはない。だが、余計な偏見は捨てた方が身の為だと、そう言っておく。命を落としてからでは遅いからな」
「テメェ、それは挑発のつもりか? 何ならお前らが本当に今回の依頼を受けられるだけの力があるが、この俺様が確かめてやろうか?」
 ジャン・イーヴがぺろりと舌を出し、下唇を舐めた。
 手に獲物は握られていないが、このまま続けば殴り合い、殺し合いへと発展しかねない雰囲気だ。
「よせ、ジャン・イーヴ。いい加減にしろ」
 のそりと立ち上がって、カリタスとジャン・イーヴの間に割り込んだ男がいた。
 岩の様な姿をした白人、ピオだ。
 視線は低いながらも刺すような鋭さを帯びており、下手な真似は許さんと、そう言っている。
「この方の言う通りだ。男だろうが女だろうが、今日会ったばかりの人間を決まったような目で見るのは良くない」
「だがよ、ピオ」
「この危険なアフリカまで辿り着けただけでも、この方達の能力は並のものじゃないはずだ。現に我らの船団でも、辿り着けなかった奴らが何人も居ただろう」
 寡黙そうな男だが、ピオは畳み掛けるようにして言葉を連ねた。
 ジャン・イーヴを黙らせるにはこうするのが一番だと、彼はそう理解していたのだ。
「船団の長は俺だぞ、ジャン・イーヴ」
 最後にそうびしりと言われ、ジャン・イーヴは下を向いて黙り込んでしまった。
 まだ怒っているのか、ただ拗ねているのか、よく解らない。
 ピオは彼のほうをさて置き、フェレットらのほうへと振り返った。
「すまないことをした。折角いい気分で休んでいた所だったろうに」
「いや、気にすることはない。私達は今着たばかりだ」
 返事をしたのはカリタスだ。
 フェレットらもわざわざ声を挟まず、黙ってやり取りを見ていることにする。
「俺はピオと言う。で、こいつはジャン・イーヴだ。……俺達の船団の船は三隻、本当はもう一人船長がいたんだが、今回の航海の途中に風邪をこじらせて死んじまった」
「おい、ピオ! なんでこいつらにそんな事!」
 俯いていたジャン・イーヴがいきなり慌てた声を上げたが、ピオは構わず続けた。
「船団唯一の女、それでいて随一の船乗りだった。コイツはまだ、その悲しみから逃れられないでいたんだ。許してやってくれないだろうか」
 ピオは人差し指を仲間のほうへと向けた。
 ジャン・イーヴは何を言って良いのか分からずに、顔を休憩所の外へと背けている。
 黙って聞いていたフェレットだったが、そんな彼のほうを見て、いたたまれない気持ちになった。
 船長が三人、男二人、女一人。
 自然と思い浮かぶのは自分達の船団だ。
 ……僕がいて、かおるさんがいて、そしてアイさんがいる。
 誰か一人でも欠けたならどうなるだろうか?
 航海を続けられなくなる位、悲しいに違いない。
 そう考えたら、ジャン・イーヴを責める気持ちなど一片も残らずに消え失せてしまった。
 フェレットは勢い良く立ち上がり、ジャン・イーヴのほうへとつかつか歩いて行った。
 そっぽを向いている彼の視線にわざわざ自分の顔を持って行き、
「印象的な出会い程、長続きする関係を築けるものですよ。宜しくお願いします」
 そう言って、右手を差し出した。
 にこり、と多少無理な笑みを作っている。
 殴られやしないかなぁ、という微かな恐怖心もまだ完全に消えた訳ではないのだ。
「……依頼が終わるまでは、しょうがねぇか」
 ジャン・イーヴはよくわからない顔のままで、躊躇いがちに右手を出した。
 恥ずかしがっているのだろうか?
 怒ってはいないだろう。
「宜しく」
 フェレットの右手と重なり、互いの手がぎゅうと握られる。
 ……しかし本当に人間らしからぬ、蜥蜴みたいな顔をした男だ。
 握手をしながらも、フェレットはそんなことを考えていた。
 僕らの船団に当て嵌めるなら、間違いなくこの人はかおるさんに相当するだろう。
 だって男で僕じゃないんだったら、かおるさんしかいないから。
で、あの身長は低いけど、良い人っぽい船長が僕……で、アイさんは……。
 ……いや、僕らの船団には当て嵌まらないな。
 うん、やめよう。
 僅か数秒の時間、フェレットはこんなことを考えていた。
「……おい、放せよ」
「あぁ、ごめん」
 大分長い間手を握ったままだったらしく、フェレットは慌てて右手を離した。
 やけに微笑ましいやり取りに見えたようで、休憩所内にくすくすと笑い声が響いている。
「今ケープに来ているのは俺達の船団だけじゃない。あともう一つ、結構なでかさの船団が既に到着している。それに君等の船団が加わっておそらく最後だろうな」
 やり取りが一段落ついたと見て、ピオがそう説明を始めた。
「敵の戦力はかなりのものだ。ここから南西の海に、一大艦隊が集結してる」
「……もう集まってるんですか?」
 驚いて、思わずアイがそう訊ねた。
「ああ。スペインの船が来ることを知っていて、どうやら迎え撃つ気満々でいるようだ」
「戦力はどの位なのです?」
「十数隻と言った所かな。偵察船で遠くから捉えただけだから、まだちゃんとは解っていない。奴等、この辺りを行き来する船にもちょっかいを掛けているらしく、ケープの南は殆ど封鎖されたようになってるそうだ」
「責任重大ってことですね。僕等」
 ははは、とフェレットは乾いた笑いを浮かべた。
 自分等がどかさねば、海賊達はそこに居座るつもりなのだろうか。
「早急になんとかせねばと思っていたが、戦力が整っていない状態で行っても犬死にするだけだろうからな」
「期日までまだ数日有りますね。ぎりぎりまで待って、それから出発するとしますか」
「ああ。あまり寸前に来られても困るが……」
 出会った当初とは一転して、話し合いは和やかな空気の元で続けられた。
 やがてピオ達の船団の水夫達、それにまた姿を現していなかったもう一つの船団もそこに加わって。
 冒険者達の船の数は十六隻までに膨れ上がり、船の数だけで言えば海賊達とも対等に渡り合える程になった。
 期日を迎えてもこれ以上船団が増えることは無く、そして出発の時を迎え。
(かおるさんもいないし、ここで躓いてられるか。そうだ、ここはまだ通過点だ)
 船が海へと出る直前、フェレットはそう心にぽつりと浮かべ……そして冒険者達は不穏な気配のする、海へと向かった。

2

 ずんぐりとした形をした軍船、ガレアス。
 ”ルーレライ”と名付けられたその船こそが、メルキオール海賊団の旗艦である。
 帆の色は燃え盛る炎、或いは血の赤色で統一されていて、見る者に独特な印象を与えるが、しかしこの船の姿を間近で見て生き残った船乗りは未だかつていない。
 船の中の一室に、海賊達を束ねる主であるメルキオールと、そしてクライドがいた。
「海が慌しくなってきた。じき、戦いが始まるようだな」
 ここは地下にある船室で、海の青色は四方どこにもない。
「俺にはさっぱり判らんが?」
 不思議に思い、クライドは言った。
「海賊としての勘という奴かな。海の流れは何時も、これから起こる様々な事象を反映するのだよ」
「ほう、どうやら俺には海賊の才能が無えらしいな」
 くっくっと笑う。
「海の流れはお前に取って良い方向に向いてるか? んや、そんなことまでは解らねぇのかな。よく知らんが」
 クライドは何となしにそんなことを訊ねてみた。
 メルキオールは柔らかい表情のまま、それに応じる。
「どうかな。少なくとも海戦の行方についてはわからない。個人的に勝って欲しいのはスペインなんだが、期待して良いものか。ちゃんとした軍をよこさず、寄せ集めの冒険者達が集結しているとの噂だからな」
「寄せ集めの冒険者ねぇ」
 その言葉を聞き、思い出すことが一つある。
 今より数日前、ルアンダを訪れた冒険者達の姿。
 アスナから聞いた話では、彼等は「海賊と戦わなければならない」と言っていたのだとか。
(あの嬢ちゃんのいた船団もそうか。それにあそこは確か、以前かおると一緒に、北海の海賊を始末したそうだしな。案外解らんかもしれねえぞ)
 それに……とクライドは思うことを続けた。
 天上天下唯我独尊、とにかく協調性と言うものに欠けた”あの男”と、何年も航海を続けていた船団――それだけでもう、只者ではない。
「クライド、お前はどう思う? どっちが勝つか」
「さぁなぁ。占い師の才能ってモンも俺には無いんでな」
「そうか。ならいい」
「……ああ」
 クライドは不思議に思い、僅かに眉根を寄らせた。
 何気ない会話を交わしていたはずなのに、メルキオールの声が寸分、冷たさを帯びた気がしたのだ。
「クライド。もう一つ、お前に訊きたい事がある。かおるのことだ」
 メルキオールの声が変わったその理由。
 それは解らないが、この先はこちらも言葉を選択しなければならない。
 そう思い、クライドは緊張を隠そうと、右手で顎鬚を弄くるのだった。
「かおるは帰って来ないか? まだ」
「ああ。また何時もの所だろう」
「そうか」
「何故そんなことを訊く?」
「波が、似てるんだよ。あの時と」
「あの時だと?」
「かおるが俺達の元から居なくなった、あの時だ」
 そのメルキオールの様子を見て、クライドは自身の目を疑った。
 何時も沈着冷静で……仲間が死んだ時でさえ目の色一つ変えることのないメルキオールが、焦りを浮かべている?
「落ち着け。波の流れなんぞ、思い込みでしか無え。何も表しちゃいねえよ」
「なあ、クライド。もしもあいつが……」
 僅かな膨らみを持った胸が、不規則なリズムで揺れている。
 その声も同じように、不穏な揺らぎを抱いていた。
(落ち着け。平静を装え)
 クライドは自分にそう、言い聞かせた。
 こいつはこれから俺に何を問う?
 俺にどうしろと言って来るのだ?
「……あいつが俺達の所を去るとしたら、一体何処へ向かうと思う?」
「言うまでも無え。あのガキ共の所だろう」
 クライドは一瞬悩んだが、そう答えた。
 ……まさかあの船団の元へは帰るまい。
 彼等と遭遇した上で、あいつはそれでもアスナ達を選んだのだ。
「何故、あいつは俺達を選ばない。見知らぬ子供などと一緒にいようとするのだ。あんな子供を育てた所で何も得るものなど無いだろう。あいつがいなくなってから数年間も待って、やっと帰って来たと言うのに……」
「落ち着け、メルキオール」
 自分にも言ったことを、クライドはこの部屋にいるもう一人の人間にも聞かせた。
「あの子供達がルアンダにいる限り、あいつはずっと俺達の船団にいる。だってあの子供達は、あそこから離れられないのだからな。……仮にもし子供達があそこからいなくなったら、かおるはそれを追って、この船団を出て行くだろう」
(……どうかな)
 出て行くことは有り得ないと、クライドは知っていた。
 あいつらは皆、海を何よりも嫌っている。
 恐れている。
 脳内に刷り込まれた忌まわしき記憶が、海を見る度に再び襲い来るのだろう。
 陸路を取るにはアフリカの大地はあまりに広大で危険過ぎるし……何より、アスナ達は今のあの生活に満足しているのだ。
 あいつらはかおるが影で海賊をしていることなど、少しも知らされていないのだから。
「ガキ共はあそこからいなくならんだろうよ。今そんなことを考える必要は無い」
「あの子供達がいなくなったら……かおるは後を追う。だがもし、追えないような場所に行ってしまったら、どうする?」
 ……追えないような場所だと?
 クライドはその意味を解りかねた。
 一挙一動に反応することをやめ、黙って言葉を聞こうとする。
「あの子達は本来、あそこにいるべきではなかった人間だ」
 その声には暗き感情が篭っていた。
 メルキオールにとっては別に子供の命など、どうでもいいものでしかない。
 言わば道端に生えている草木のような存在だ。
 しかしメルキオールは彼らを助けた。
 何も子供達の為を思ってのことではない。
 そうしなければかおるはきっと俺の手元を離れてしまうと、そう思ったからだ。
 数年の時を経て、かおるは帰ってきた。あの子供たちがいたからだ。
 最初はそれでも良いと思っていた。
 たとえあいつが何より欲するものがこの船団ではなく、俺でも無かったとしても。
 それでもあいつはここから離れられないのだから……それでも良いと、そう思っていた。
 だが、それは自己欺瞞でしかなかった。
 どうすればあいつを、かおるを俺の手元に置いておける?
 誰にも束縛されることのない、獣の顔を持ったあの男の心を、こちらへと向けさせられる?
「このアフリカの波を感じながら、ずっとそう思案に暮れていた。そして解ったんだよ。彼らに相応しい場所はあんな汚い場所ではなく、もっと澄み切った――光に包まれた場所だとな」
「光だと? メルキオール、お前何を考えて」
 そこまで言った所でクライドは言葉を止めた。
 無意識に止まってしまったのだ。
 暗い船室の中で、海がある方角を眺めているメルキオール。
 その眼差しに秘められた暗き炎の輝きを目にして、クライドは色を失った。
(今直ぐにでも襲い掛かって来そうな、そんな目をしてやがる)
 感情をそう表に出すことのないこの人間が、怒りを露にしているその理由。
(独占欲……か。ヤツに対する)
 かおるに対する執着、そしてそれと同等の怒り。その矛先にいるのは……。
(なら、俺はどう動けば良い)
 こいつは何時だって、強固な意志の元に思いを巡らせる。
 俺が口で言っても、止まりはしないだろう。
(――どう動けば、アイツらを救える?)
 その問いに応じることの出来る人間はいない。
 無言になった船室に、ほんの僅かな波音が届いてきて、クライドはその答えを海へと求めた。

3

 冒険者達の連合艦隊がケープの海へと姿を現してから、早くも五時間が経過した。
 彼らの眼前には海賊の艦隊がおり、一触即発の雰囲気の中にありながら、未だに砲撃は一つとして放たれてはいない。
 海賊の艦隊は一箇所に密集した形になっていて、迂闊に攻められないような状況だし、実際に砲撃するにはまだ距離が遠い。
 フェレットら十数人の船長達は皆、どう動いて良いか判りかねて、敵味方構わず、誰かが動き出すのを待っていた。
(戦力はそう変わらないはず……)
 右手で顎を弄くりながら、フェレットはぼんやりと考えていた。
 時刻はもう真夜中。普段なら就寝している時間である。
 船団はそれでも少しずつ前進をしていて、このままの速度で進めば、数時間後にやがて戦闘状態に突入するだろう。
(眠い)
 緊迫感に満ちた状況であるにも関わらず、事あるごとに欠伸が出て、思考を寸断した。
 既に戦いは長期戦の様相を呈している。
 長丁場を乗り切る為に、現在水夫達の半数は睡眠を取っている最中だ。
 他の船、他の人達は眠くないのだろうか?
 妙に静まり返った船の中で、フェレットは続けて考える。
 今回の依頼をこなすべく集まった冒険者は皆、気の良い人物ばかりだった。
 最初はとんでもない出会いとなったが、結局あのジャン・イーヴとか言う男も話せば気の良い男であったし、彼らとならば今回の依頼だって無事にこなせると、そう思うことが出来た。
 とは言え、やはり出会ってから間も無い間柄だ。
 例えばかおる、アイのようにその人柄を知り尽くしている訳でもないし、彼らの思惑は殆どが霧に包まれたままである。
 動きに統一感が無いのも仕方のないことだ。
 この艦隊は、戦いでは無く冒険を生業とする人間達の船によって構成されているのだから。
 そしてその冒険者達もまた、未だに互いの性格すらよく知らない間柄。
 こんな状態では、どんな天才であろうとも理路整然とした動きを取れるはずがない。
 予め行動の方針を話し合ってはあるものの、乱戦へと持ち込まれれば、船一つ一つで行動するしかなくなる。
 ……しかし、海賊達は一向に動き出そうとしない。
 自分達に有利な陣形を保ったまま、こちらを迎え撃つつもりか?
 悶々としながらフェレットはずっと海の先を見据えていたが、状況はそれから一時間もの間、一つとして変わりはしなかった。
 ――そう。
 一時間して、ようやく止まった時の中にいた、海がまた揺らぎ始めたのだ。
 変わった動きを見せ始めたのは、こちらの船団ではない。
「……海賊達も、ようやく目を覚ましたようですね」
 口にしたのは副官のロッティーナ。
 彼女もまた異変を知らされて、たった今目を覚ましたばかりである。
「ああ、こちらへと向かって来てる……。今更何のつもりだ?」
 フェレットはもう眠気を感じてはいなかった。
 伊達に船乗りとして数年間もやって来ている訳ではない。
 睡眠欲ですら、或る程度コントロールする術を覚えているのだ。
「彼らはこの辺りの地形をよく知っていますから、自分達が一番戦い易い場所に来るまで、待っていたのかもしれませんね」
 ロッティーナが言う。
 さっきまで全く動こうとせず、まるで要塞のようになってそこに留まっていた海賊達。
 こちらへと向かって来つつ、段々とその速度を上げて来ている。
 冒険者達の船団はと言えば、相変わらずのゆっくりとした前進を続けている。
(……じき、砲撃が届く距離に到達するな)
 まず戦闘状態に入るのはフェレット達の船団ではなく、ジャン・イーヴやピオの船だ。
 彼らの船団ともう一つ、十隻近くもの船を所有する”アンヌ・マリー商会”の船団が陣の前列にいて、フェレットらは殿を務める形になっている。
 迫ってくる船の数はこちらとほぼ同数。
 数で劣っていなければ、物を言うのは船一隻ごとの戦力、そして戦術だ。
 冒険者達の船もようやくその速度を上げ、距離はどんどん縮まっていく。
「あっ!」
 ”フォスベリー”の水夫の一人が叫んだ。
 海賊の船から砲撃の放たれたのが、目で確認出来たのだ。
 遠目でもよく見えるほどの巨大な砲弾は、数十発も同時に放たれて――そして、対象の船を直撃した。
 こちらにまで衝撃が伝わってきそうな程の轟音が鳴り響き……攻撃を浴びた船は、たったそれだけで、沈黙した。
 その瞬間、この海を渡って冒険者達の船団全てに、戦慄が走った。
「おいおい!」
 目を疑ったのは”フォスベリー”の船員全てだ。
 彼らだけでなく、冒険者達全員が身の毛を弥立たせていることであろう。
「嘘だろう、あれだけで沈んだんじゃないだろうな! まさか!」
 フェレットが叫ぶが、返事が出来る者は誰もいない。
 やがてロッティーナの方に振り向くと、彼女は不安に満ちた表情をしていた。
「やられた船は確か、ジャン・イーヴさんが船長をしていた船です。だとしたら……私達と同じ、キャラック船だったはずですわ」
「……”フォスベリー”もあれを食らったら一撃ってことか? そんな馬鹿な」
「当たり所が悪かったのかもしれませんし、混乱して動きが止まっているだけなのかもしれないです。まだ、判断するには早いですわ。……けれど、敵が全て、あれだけの威力を持った砲を積んでいたとしたら……」
「こりゃまずいな。アフリカの海賊をなめてたのかもしれん。これなら下手に撃ち合うより、白兵戦に持ち込んだ方がまだ勝機が有るか?」
「いえ、敵はこのまま近付いて来る様ですよ」
 ロッティーナは悔しそうな顔をしていた。
 敵の思惑が未だ掴めないまま、船内には俄かに不穏な気配が漂い始める。
 砲撃は既に冒険者達の船からも放たれていて、響き渡る轟音はまるで雷鳴のようだ。
 身近で鳴り響くそれは、いつこちらを直撃してもおかしくない。
 動きが止まっているジャン・イーヴの船を、さらに数発の砲撃が襲う。
 敵船が完全に沈黙したと知りながらも、海賊達の船はそのまま近付いていく。
「何もかも、奪い尽くすつもりか……?」
 遠距離での撃ち合いを繰り返しながらも、海賊達は進撃を止めない。
 こちらの陣形を切り崩すこともせず、そのまま滑るようにして、隙間へと潜り込んで行く。
 敵の狙いは……強力な砲撃でこちらを怯ませ、その隙に白兵戦を仕掛けるつもりか。
 海賊達の動きを目の当たりにしながら、”フォスベリー”の船長はそう判断をした。
「そちらのほうがこちらとしてもまだ、やり易い。もしもの時は頼むよ、ロッティーナ。みんな」
「はい」
 一挙一動を全て自らの手中に収めるべく、フェレットはじっと敵の動きを観察していた。
 そのせいだろうか、彼が何時だって気にしていたはずの……足元に有る蒼き海から視線が逸れ――気付けずにいたのは。
 海は確かに、異変の兆しを表していた。
 波は怒気を孕んだようになって、やがてこの戦場に混乱を巻き起こそうとしていた。

 ルアンダの町から遥か遠くの海をぼんやりと見つめている、一人の胡散臭い男。
「ねーえ。かおるさん、こっちにおいでよ。そんな所にいちゃ、濡れちゃうよ」
 可愛らしい少女の声が男へと向けられたが、凄まじい轟音によって遮られた。
 絶えず降り続ける雨は全ての音、そして光景を遮断し、まるで怒りを湛えているようだった。
 土を穿ち、泥へと変貌させ、それをもさらに刺し続ける雨。
 かおるはそれをずっと浴びていながら、それでも呆然としてそこに立っていた。
 既に雨が全身を浸しており、ここまで来たら今更雨を避けても何も変わらない、そんな段階にまで達している。
「ちょっと、もう! どうしたの?」
 休憩所から少女が一人、飛び出して来た。
 豪雨は彼女にも降り注ぎ、一瞬にしてその姿を湿らせてしまう。
「アスナ、中に入ってろ」
 雨に阻害されながらも、その声はなんとか届いた。
「そのつもりだったけど、かおるさんが来ないから……。みんな、不思議に思ってるよ」
「倫敦ではこうやって、雨を浴びるのが日課だった。で、雨が上がったら乾布摩擦を……」
「聞いたことないよ、そんな話」
 かおるの冗談めいた口調を受け、アスナは首を傾げた。
「とにかく放って置いてくれ。おじさんは今自分が雨男であるか、そうでないかを試している最中であって……」
「……よく解らないけど。なるべく早く、中に入ったほうが良いと思う」
 アスナは諦めた口調で言ったが、そこからいなくなろうとはしなかった。
 ただ海だけを見つめているかおるの背中を、彼女はずっと眺めている。
 かおるはそれを気にせずに、遥か先の海だけを目にして、思いを巡らせていた。
『私達、あと五日位したらケープに行くわ。そこで海賊達と戦わなきゃいけないの。……あと五日、ここにいる』
 思い出されるのはそんな声。
 休憩所で、酒瓶を手にした女性が口にした言葉。
 あの時のやり取りは何もかも、記憶の中に明確に残ったままだ。
 浮かんでくるその声に対して、かおるは心の中で一言ずつ感想を口にした。
『カリブにも行こうって言ってたでしょ、宝の地図がたっくさん溜まってるんだから』
 ああ……そんなことも言ってたっけ。
 カリブに行って、本場のパイレーツ・オブ・カビリアンを見ようとか話してたんだった。
『フェレさんとリィちゃん、恋人になったのよ。かおるさんがいなくなってから直ぐに』
 そんなこと言われても今更コメントし辛いよなぁ。
 それにほら、おじさんそう言うのは横から生暖かく眺める主義だし。
 ……まあ、これはほぼ確実にそうなってるだろうと思ってたけど。
『ワタシはかおるではない。印度出身のトンドル・ズラトゥコフ二世だよ』
 うん、ああ、これは私が自分で言ったんだっけか。
 雨に打たれながら、かおるはずっとそんなことばかりを考えていた。
『あと五日位したらケープに行くわ。そこで海賊達と戦わなきゃいけないの』
 再び、心の中で繰り返される言葉。
 ……フェレッチ君達がいなくなってから、今日で十日目、か。
 全てを忘れて、今ここにある幸せだけを抱いて生きるつもりでいた。
 だがさっき出航所で一人の商人と出会い、そうしてはいられなくなった。
「いやぁもう、とんでもない目に遭ったよ。九死に一生を得たとは、正にこの事だ」
 嵐に見舞われて、散々な思いでルアンダへと辿り着いたのだと、その商人は言っていた。
「ここに来る途中さ、この嵐の中でドンパチやってる連中を見かけたんだよ。いや、命知らずってのはああ言う奴等を指す為に使われる言葉なんだろうな。奴等ありゃぁ、絶対に溺れ死ぬぜ」
 閉まい込もうとしていた記憶の数々を、その言葉が無理矢理に引っ張り出した。
 日数的に言っても……その命知らずとは間違いなく、彼らのことで有ろう。
(何故、この嵐で? 海賊達が逃がしてくれないのか……今もまだ、戦い続けているのか?)
 メルキオールは、このアフリカの海賊達は命知らずが揃っていると言っていた。
 自らの命すらも投げ打って金銀財宝を求めるような奴等が揃っている、と。
 この嵐でさえも、彼らを退かせるには足りないと言うのか?
(船はある)
 数分前と状況は何も変わらない。
 只管降り続ける雨と、その場に呆然と立ち続けるかおる、アスナ。
 しかしたった一つだけ、変わったことがある。
 それは目に見える事象ではなく。
「アスナ」
 雨と雨の間を縫って、言葉が届いた。
「えっ?」
「マグロ漁に最適の天気だ。私は行く」
 そう口にするや否や、かおるは即座に身を翻した。
 アスナが表情を変えるよりも早く、その場を離れようとする。
「待って!」
 少女アスナは知っていた。
 彼がどんな思いで海を眺めているのか、その視線の先に誰がいるのかを。
 だから不安でならなくて、この雨の中、彼を見守っていたのだ。
 かおるの足は速かった。
 アスナが追おうとしても、比べ物にならない速度で引き離す。
「待ってぇ!」
 叫んでも、返事はなかった。
 この雨に掻き消されたんじゃない。
 彼は何も口にはしなかったのだ。
 泥だらけの地面に足を滑らせ、アスナは転倒した。
 身体にも服にもべっとりと泥が付着し……それでも、誰も振り返りはしなかった。
(かおるさん!)
 駄目……行ってしまっては。
 もう、二度と帰って来ない気がしてやまないのだ――あの時と同じように、また。
「かおるさんっ、嫌だ! 行っちゃ駄目!」
 瞳から零れるものは涙なのか、雨なのか、それとも泥なのか。
 それすら判別できず、アスナは何度もそう叫び続けた。
 だがそんな思い虚しく。
 胡散臭い男はもう、止まらない。
(行かねばならぬ!)
 アフリカに来てから初めて、彼は自らの意思で戦場へと向かった。



  1. 2005/09/18(日) 06:54:17|
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第十七章 憧憬ふたつ(後編)

5

「それじゃあな。悪かったな、遊んでたとこの邪魔しちゃって」
 四人でわいわいと走っていく子供達に、フェレットは手を振りながら言った。
 その言葉も通じてはいないだろうが、彼らも手を振ってくれている。
 全てが片付いたらもう一度彼らに話しかけてみようと、フェレットはそんなことを思うのだった。
 直ぐに思考を切り替えて、セルマのほうへと視線を落とす。
「君にも、お世話になったね。見たところ白人みたいだけど、この辺りの言葉を話せるなんて凄いな」
「……話せないのに、なんでここにいるの?」
 少女の純粋な言葉はしかし、槍のような鋭さでフェレットを突いた。
 彼女の言うことはもっともだが、少しやるせない。
「仕方無いだろ。僕はスペイン人なんだ……」
 フェレットはそうぼやいて、肩を竦めた。
 そうした後、少し考える。
 自分達が人探しをしているということを、あまりべらべら言いふらす訳にはいかない。
 だが、この少女になら話しても大丈夫だろうか。
 何より自分がまともに会話出来るのは多分、この少女くらいしかいないのだ。
「フェレさーん!」
 そんな悩みを吹き飛ばすかのような清々しい声が、後ろから響いてきた。
 続いてぞろぞろと足音が鳴り渡り、たくさんの人間がこちらへと歩いてきたのだ。
「アイさん、それにリィも。そうか、皆無事だったんだな」
 フェレットは素直な声をアイへと向けて放ったが、彼女の方は渋い顔つきをしている。
「皆無事だったって……私達は今まで出航所で手続きをしてたんだから、当然よ。フェレさんこそ、言葉の壁にぶつかって泣いているんじゃないかと心配してたわ」
「どうしてわかったんです?」
「出航所の方が、西アフリカ諸語を使ってたから。そう言えばフェレさんは喋れないんじゃないかなぁと思って」
「成る程」
 フェレットは感心してぽんと手を打った。
 とは言え、本来ヨーロッパに住む者が西アフリカ諸語を知っていることはまずないのだ。
 数ヶ国の言葉に精通しているアイはともかくとしても、船団の中でも西アフリカ諸語を話せるものは殆どいないのであった。
「まともに話せるのは私と、後はルーファちゃん、カリタスさんくらいね。これから色々と大変だわ……」
「こんなことなら少しくらい勉強しておくんだったなぁ」
 今更ながらに倫敦での怠惰な半年間を呪ったが、それは大した後悔ではない。
 アフリカにいる最中、アイやルーファ達におんぶにだっこでいようと誓うのであった。
 ふとあることに気付いて、フェレットは小首を傾げる。
「ありゃ? リィも話せないんだっけ?」
「私は……」
 何故だか顔を沈ませているリィを見て、フェレットは不思議に思った。
「ほら何時だったか、君が一体どれだけの言語が話せるのか、試したことがあっただろ。あの時、結構色々な言葉を話してた気がするけど」
「はい……。多分、私も話せると思います……」
「えっ?」
 横で聞いていたアイがきょとんとする。
「なんだ、リィちゃんったら。話せるんだったら謙遜しないで言ってくれれば良いのに……」
「えぇ、別に謙遜した訳じゃぁ無いんですけど……」
 自分は西アフリカ諸語を耳にした覚えがあって、幾らかは喋ることが出来る。
 リィはそう気付いていたが、英語やスペイン語に比べると、解らない単語が多いことにも気付いていた。
 だから黙っていたのではない。
 何故自分がこの辺りの言葉を話せるのか、改めて考えると不思議で――怖くてならなかったのだ。
「あの、あたし、戻らないと……」
  気弱な声が何処からか吐かれた。
 それはリィのものではなく、セルマの声だ。
 突如現れた大勢の人間を前にして、圧倒されているようである。
「大丈夫だよ。皆僕の仲間だから」
 踵を返そうとしていたセルマの腕を、がっと掴んだ。
 思いのほか力が入ってしまい、すぐにその手を離したが……。
「あ、ごめん」
 セルマは少し怯えた表情になっており、フェレットは素直に謝罪をする。
「……でも、どうしても君に一つだけ、訊きたいことがあるんだ。もう少しだけ付き合って貰えないかな」
「訊きたいことって?」
「僕ら、人を探して此処まで来たんだ。僕らの船にずっと乗ってた人が突然いなくなっちゃってね。で、ルアンダにいるって聞いたからここまでやって来たんだよ」
「なんて人なの?」
「かおるさん、って言うんだ」
 フェレットは躊躇うことなく言った。
 当然だ。
 その名前がセルマをどれだけ驚かせるのか、彼は知らない。
 まだ何処かに疑いのあったセルマの顔が、春風を帯びたようにぱっと明るくなった。
「かおるさんのこと、知ってるのっ!?」
 今度は両手を思いっきり握られて、フェレットのほうがたじたじとなった。
「あたし、かおるさんと一緒に暮らしてるんだよ。毎日すっごく楽しそうにしてるよ、かおるさん」
「一緒に暮らしてるっ!?」
 フェレットもまた意識せずして大声を上げた。
 予期できぬ言葉を聞き、耳を疑うことさえ出来なかったのだ。
「じゃ……じゃあ、やっぱりここに住んでるのか! 何処に、何処にいるんだ?」
 フェレットはセルマの手を握り返した。
 セルマが顔をしかめる程、力が篭っていて、今度はそれを離す様子もない。
「……今、休憩所に来てるの。かおるさんもみんなも休憩所にいるよ」
「案内してくれないか!」
「うん、いいけど、でも……」
「でも?」
 勢いが止まらないフェレット、既に足は歩き始めようとしている。
 しかしセルマは対照的だ。
 春風のようだった笑顔は曇り空に覆い隠されて、その暖かさを失っていた。
 一旦承諾はしたものの、その胸の内に躊躇いの気持ちが生まれていた。
「かおるさんのこと、連れてっちゃったりしないよね……?」
「え……」
 逸る気持ち、心の中に混在する幾つもの思い。
 セルマの一声だけで、それらが一瞬、無に帰った。
 フェレット達一行は顔を見合わせた。誰もが同じことを思っていた。
 ――連れて行ったりしないよね?
 何故そんなことを問うんだ?
「ねぇ、連れて行かないよね?」
 連れて行くよ、連れて行くに決まってる。
 その為に僕らは長い時間をかけて此処まで来たんだ。
 ……さっきこの子はかおるさんと一緒に暮らしていると言った。
 どうしてだ?
 かおるさんはどうして僕らの処から去って、この子達と一緒に?
 脳の中をまた、不安が渦のようになって回り始めた。
「……案内してあげる。けど、かおるさんはあたし達の家族だよ。連れて行かないでよ、絶対」
 この子がどれだけかおるさんのことを大切に思っているのか、少ない会話の中でも簡単に掴み取れた。
 だからフェレットは返事を言えなくて、無言で小さく頷くことしか出来なかったのだ。
(連れて行くよ)
 その頷きも決して本心からではないと、知りつつも。

 出航所から休憩所まで、歩いてそう時間はかからない。
 セルマの案内で、フェレットとアイ、そしてリィの三人は逸る気持ちを抑えながら歩いていた。
 他の船員達は出航所の付近に残ったまま。
 久々の再会だからと、無理を言って遠慮してもらったのだ。
 元々かおるの船であった”永久機関”の船員達には散々渋られたが、今回ばかりは譲れない。
「私も付いてきちゃって良かったんでしょうか……?」
 皆より少し後ろを歩いていたリィ、心配そうにそう問いかけた。
「フェレさんとアイさんに比べたらかおるさんとの付き合いも浅いし、私より”永久機関”のみんなのほうが……」
「良いんだよ!」
 フェレットは少し足を止め、リィが自分の横に並んだ所で、いきなり彼女の肩をがっと抱きかかえた。
 そのまま右手で、彼女の金色の髪を弄くる。
 突然のことにリィはぽっと顔を赤らめ、アイは何時ものこと、と流している。
 セルマは気付いていながら、敢えて見ないようにしていた。
「かおるさんに報告しなきゃいけないことがあるだろう、僕らは。なっ?」
「はい……」
 満面の笑顔を投げ掛けてくるフェレットに対して、リィは恥ずかしそうに目を逸らしている。
 二つの顔は今にもくっついてしまいそうなほど、近くにあるのに。
「まあ報告してもどうせ『おう』とか『そうか』とか、無愛想な一言で済まされそうな気もするけどさ。でも」
 心の底ではきっと喜んでくれる。あの人はそんな人なんだ。
 言葉を聞いていたアイも、心の中で静かに頷きをした。
 そしてまた、足音が数回響き渡る。
 他人に見られてやしないだろうかと、リィはきょろきょろとしていた。
 今更恥ずかしがることでもないだろう、とフェレットの視線はそう言っているが、やはり彼ほど明け透けにはなれそうもない。
「……そうかぁ、かおるさんは知らないんですよね。なんか意外だなぁ……」
 そう言うと、リィは照れ笑いを浮かべた。
 まだ、フェレットの腕は肩に回ったままだ。
 セルマは相変わらず見ない振りをしていたが、彼ら二人の姿はしつこく視線に飛び込んで来る。
 先導していて彼らは後ろにいるはずなのに、現れたり消えたりする。
 考えないようにしていたはずなのに、やがて”うらやましいな”とそんな思いが浮かんだ。
 自分にはまだ早いかもしれないけど、でもうらやましい。
 セルマが想像する図――彼女の隣には勿論かおるがいる。
 かおるが自分の肩に手を回して……と、とても有り得ない光景が浮かんでくる。
 今までに感じたことのないくすぐったい気持ちを覚えて、セルマは頬を赤らめ、うつむいた。
(……せめて、あと三年か四年くらい。そうしたら……かおるさん、もうおじさんだけど)
 改めて思い浮かべたその景色には、ほんのちょっと背伸びをした自分と、変わらぬ姿のままのかおるがいた。
 訪れればいいな。
 素直にそう思って、その景色を疑う理由は一つとして無かった。
 それから少し、四人は無言のままで道を歩き。
 夕闇は徐々に黒色によって侵食されて行き、たった数分の間に空は、殆どが黒色で埋め尽くされてしまった。
 そう言えば寝る場所も決まってないな、とふとフェレットが思い始めた頃、只管地面ばかりが続いていた視線の先に、一つの建物が飛び込んできた。
「あそこだよ、休憩所」
 セルマが言うと、フェレット達はその足を止めた。
 無意識に止まってしまって、石のようになって固まった。
(あそこにかおるさんが)
 たったそれだけの思いがまじないのように繰り返し流れて、それが意識を攫っていた。
「待っててね。あたしが先に、かおるさん達に言ってくるから。もしかしたらかおるさんは貴方たちのこと、知らないかもしれないもん」
 そんなことあるか、とフェレットは言いたかったが、子供相手に怒っては大人気無さ過ぎる。
「かおるさん達……って、他に誰がいるんだ?」
「家族だよ。かおるさんの」
 少し無理をした低い声を出し、返事すら聞かずに走っていってしまった。
 たったっと響く足音が消えていくと、短い沈黙がそこに訪れた。
 彼女はかおるさんのことをあんなに慕っている。
 自分達が知らない所で何があったのだろうか……?
「ああ!」
 沈黙をばっさりと断ち切ったのは、リィが突如として放った大声。
 フェレットとアイがびくりと肩を震わせたのは、言うまでもない。
「驚かせるなよ……どうした?」
「あれっ、あれ!」
 リィがフェレットの袖をぐいぐいと引っ張って、何事かとフェレットが振り向くと。
 袖を引っ張っていた手は、今度は休憩所のほうを指差した。
「あそこ……建物の隅っこから、見えてるのって……」
 休憩所の席が並べられている場所から、フェレット達はまだ離れた位置に居る。
 そこに何人が居るのかすら判らないが、建物が隠していない足が一つだけ、向こうにはみ出ていた。
 何処の誰の者かさえわからない足を見ていちいち勘繰るのも妙な話だが、その足は特徴ある靴を履いていたのだ。
 アラビアンシューズ。
 金色の決して良い趣味とは言えないその靴は、つま先が斜めに立っているという特徴ある形をしている。
「あれ……かおるさんが履いてたわよね」
 興奮気味に呟くアイ。
 この辺りで、かおる以外にあの靴を履く人間がいるのだろうか。
 絶対いない、いる訳ない。
 そう、強引に決め付ける。
 ――居るんだ、確かに。
 あそこに、かおるさんが。
 思えば思う程、待ち遠しくなる。
(遅い!)
 セルマが休憩所の方に行ってから一分は経った。
 何かを準備する時間など要らないだろう?
 フェレットなど、足が勝手に半歩程進み出ている。
「待ってないでこのまま行っちゃおうか……?」
 そう提案したところでようやく、セルマがこちらへと戻ってきた。
「お待たせ」
 やって来るなり小声で一言、そう呟くがフェレット達は聞いていない。
 待ちきれないとばかりに進んでいこうとするが、
「待って、待って!」
 セルマが三人の前に進み出て、両手を広げて彼らのことを制止した。
「もういいだろう!」
 耐え切れずにフェレットは声を上げたが、セルマはどこうとしない。
 何故なのか、その意味は直ぐに説明された。
「ごめんね。かおるさん、やっぱりもう、あそこにはいなかったの。他に移動しちゃったって……」
 それはセルマのついた嘘。
 フェレットにはそうとしか思えなかった。
 その証拠に、建物の端から見えているアラビアンシューズは確かにかおるさんのものだ。
「この目で見ないで信じられるか!」
 フェレットはするりとセルマの横を通り抜け、そのまま休憩所のほうへと一歩一歩、重い足音を踏み鳴らしていった。
 アイとリィもそれに続く。
 セルマは制止しきれない。
「ちょっと待ってぇ!」
 彼女がそう叫んだ時には、三人は既に休憩所の直ぐ傍まで到達していた。
 アラビアンシューズを履いた主はまだ、その姿を確認できない。
「かおるさん! いるんでしょ!?」
 怒鳴り声を上げながらフェレットはさらに近づいていった。
 薄暗くなっている建物の奥へと入っていく。
 アラビアンシューズを履いた人間の傍まで、近付いた。
 薄暗闇のせいで寸前まで行かないと姿が確認出来ない。
 確認出来る位置まで、さらに近付いた。
「かおるさん!」
 三人の視線が一斉に、その男を捉えた。
 ――そこにあったのはとにかく胡散臭い顔。
 目は細長く、まるで半分閉じかかっているよう。
 無表情だが、見方によっては薄ら笑いを浮かべている風にも取れる。
 特徴は確かに、かおるのそれとほぼ一致していた。
 しかしたった二つ、あまりに大きな違い。
 顔が異常にでかい。そして、頂点から葉っぱがたくさん生えている。
「……?」
 かおるさんの顔……じゃない。
 違う――初めて見る、人種だ。
 アフリカの、もっと別の世界の人種か?
 その不気味な迫力に圧倒され、リィなどは意識さえ失いそうになった。
 だがそんなごまかしは、たった数秒しか通用しない。
 どんな変てこな顔になっていようとも、全身から醸し出す雰囲気が、あまりにらしすぎた。
 何より纏っている服装が、金色刺繍のドルマンにアラビアンシューズと、かつて行方が知れなくなった時と同じものであった。
「かおるさん……何やってるの? そんなマスク被って……」
 アイがそう、呼びかける。
 かおる、という単語に彼はぴくりと反応をした。
 何ともわかりやすい習性だろうか。
 かおるが居るその席の周囲には、子供達が数人座っているが、今のフェレット達には全く見えていない。
 変てこな仮面を被っているけれど、この人は間違いなくかおるさんなんだ。
 むしろその奇妙ささえ彼らしい。
 三人はただ、その仮面だけをじっくりと見据えていた。
「かおるさん……」
 万感の思いを込めて、アイが呟く。
「ずっと探してたのよ。だって、いきなりいなくなっちゃうんだもの。北海を探して東地中海を探して、それでようやくここまで辿り着いたの。お土産話、たくさんあるのよ」
 仮面に向かって、アイは言葉をたくさん贈った。
 表情のない顔のその奥に、同じくらい表情のない人がいるのだと知っているから。
「フェレさんとリィちゃん、恋人になったのよ。かおるさんがいなくなってから直ぐに、ね。……ねぇ、早く顔を見せてよ」
 溢れ出て行く言葉を抑えられず、言葉が漏れていく。
 フェレットはと言うと、感極まって何も言えなくなっているようだった。
 私はやっぱりお邪魔だったのかも、とリィは思った。
 フェレットとアイ、二人を見ているだけでそう感じずにはいられない。
「かおるさん……」
 こんなに二人は待っていてくれたのに、かおるさんは何で仮面なんか被ってるの?
 どうして何も言わないの?
「……アー……」
 彼らの思いに急かされる様にして。
 奇妙なマスクを被った男は、一言だけ発した。
 一言というかただの奇声、あまりにもそれらしい声。
 こほんと聞こえよがしな咳払いをした。
 そうして、
「ワタシの友人かおるはたったさっき、印度へと向かう船に乗って出かけてったね。だからもうここにはいないから、さっさと彼の行方を追うといいね」
無機質な声で、つらつらとそう言葉を並べた。
 その声がフェレット達を納得させる訳などない。
「何言ってるの、かおるさん」
 アイは笑った。
 温かな笑みは一瞬で氷のような冷たさを帯び、かおるに問いかける。
 確かにあなたは、冗談がドルマンを羽織って二本の足で歩いているような存在だけど。
 こんな時に冗談はやめて。
 そう、彼女の声は言っていた。
「ワタシはかおるではない。印度出身のトンドル・ズラトゥコフ二世だよ。」
 反復運動の如く、言葉は同じ響きをもって繰り返された。
 つこうとする嘘とは裏腹に、会話はさっきから全て英語で行われている。
「かおるさん……?」
 数年間も待ち望んでいたその思いは段々と行き場を見失い始めて、少しずつ、それは腹立たしさへと変わっていく。
「かおるさん、変な嘘はよして下さいよ。どっから見てもかおるさんだって、バレバレなんだからさ」
 フェレットが震えた声で言う。
「かおる氏はもう、ここにはいない」
 なおも返事は変わらない。
「いい加減にしてください。皆待ってたんだから、これ以上じらしても何も面白いことなんか無いよ」
 僕らが抱いているこの思い、わからないのか。
 ……二年近くもの間、僕らがどれだけ貴方のことを探したか。
 どれだけ苦労したか。
 フェレットはやがてそう、思いを押し付け始めた。
 彼じゃなくてもきっとそうしたであろう。
「ワタシは」
 だが、その珍妙なマスクから吐かれた言葉は変わらずに、寂しいもので。
 それでいて、別の人間へと向けられた暖かさを抱いていた。
 フェレット達が眼前にいるというのに、彼の視線は他所を向いたのだ。
 仮面に覆われた瞳が見つめるのは、アスナ達少年少女の姿。
「――私は、この子供達の親だ。君達の知っている男とは、違う」
 決定的な言葉だった。
 最も言って欲しくない、聞きたくない言葉を吐いたのだ。
 その声が、ずっと堪えていたフェレットの何かを寸断した。
「馬鹿なことを!!」
 椅子に座っていたマスク男の胸倉を、フェレットは強引に掴み上げた。
 殆ど無抵抗のまま、男は中空にぶら下げられる。
「違う訳ない! そんなことすら判らないほど、あんたのことを気にしてないとでも思ってたのかよ!」
 睨み付ける男の顔はただ無表情。
 それすら腹立たしくてならない。
「まだっ、旅してないところが幾つも有るでしょう! こんな子供達なんて知るかよ、あんたは僕と一緒に旅をしてたかおるさんだろ! ねぇ、そうでしょう!?」
「フェレさん、やめて!」
「カリブにも行こうって言ってたでしょ、宝の地図がたっくさん溜まってるんだから!」
「フェレさん……」
 リィが声を上げて制止するが、止まらない。
 フェレットは今にも殴りかかりそうな勢いで、凄まじい形相で仮面の男を睨み付けている。
 怒りと、それ以上の悲しみをその瞳に秘めて。
「僕らが……僕らが、どんな思いをしてここまで来たと……」
 声は、そこまでで止まった。
 それは今まで一言も発していなかった少年による仕業だ。
 言葉で止めたのではなく、強引に力で。
「ぐぁあっ!?」
 フェレットの後頭部に向けて、その少年はいきなり飛び蹴りをお見舞いしたのだ。
 子供の力とは言え予期できぬ攻撃を受けて、フェレットは地面に転がった。
 マスク男もまた、同じように転がるが、直ぐに立ち上がる。
 寸分遅れてフェレットも立とうとしたが、そこにさらにもう一撃、少年の蹴りが叩き込まれた。
「何しやがる!」
 所詮子供の力だ、痛みは殆どない。
 フェレットは立ち上がるなり、今度は少年に食ってかかった。
「かおるさんは俺達の親なんだ! お前みたいなオカマ野郎とは知り合いでも何でもないんだ!」
 さらに何度も蹴りを入れてくるが、フェレットはもうそっちは気にしなかった。
「親だと?」
「ああっ親だよ! 俺達みんな、赤ん坊の頃からかおるさんに面倒見て貰ってたんだ!」
 ――赤ん坊の頃からだって?
 僕達より……長い付き合いだってのか?
 いきなり現実世界に戻されたようになって、フェレットははっと周囲を見回した。
 セルマもこの少年も、十代前半であることは間違いない。
 この子らが赤子の頃から、かおるさんが世話していたって……?
 子供が好きか嫌いかはよく解らないけど、他人の面倒なんて絶対に見れなさそうな、あの人が。
「お前らなんか、かおるさんがたまたま気まぐれで付き合ってやってただけなんだよ。それを勝手に勘違いしやがって……。連れ戻しに来たのか何だか知らないけど、ここが本来のかおるさんの居場所なんだ! わかったらさっさと帰れよぉ!」
 思いは混乱し、混沌の渦へと吸い込まれていく。
 耐え切れず、フェレットの思考はただ逆上することを選んだ。
「このガキ、言わせておけば!」
 フェレットが少年に殴りかかろうとするのを見て、リィは咄嗟にフェレットの背中に飛びついた。
「やめてっ、フェレさん!」
「離せ、リィ!」
 彼のことを羽交い絞めにして、何とか動けなくさせる。
 すかさずアイが割って入り、フェレットの姿を完全に遮った。
「……ねぇ、マテウスもやめて。やめてよぅ……」
 涙に侵されたセルマの声、それがマテウスの動きをも止める。
 その場にいたマテウス以外の子供達はずっと、動くことも出来ずに怖がっていた。
 セルマはずっと泣きじゃくっていて、彼女の傍に居た穏やかそうな顔をした少年も、同じように涙で顔を腫らしていた。
 彼らはただ眼前の光景が怖くて堪らなかったのだろう。
 かおるを除けば最年長の少女、アスナはもまた怯えて立ち尽くしていたが、彼女の思惑はセルマ達とは違った。
 もしかしたらこの人達が、かおるさんを連れて行ってしまうかもしれない。
 ――私達の、かおるさんの大切な居場所を、取り去ってしまうかもしれない。
 彼女はただそれを恐れ、言いようのない悪寒に囚われていた。
(家族…家族だって? この子供達が。僕らじゃなく?)
 フェレットはまだ、その光景の何もかもが信じられずにいた。
 かおるが子供達と一緒にこの町にいると、そう知らされていたはずなのに。
(かおるさんは僕らと会うより前からこの子達を知っていて……僕等より大事なのか? この子達が……)
 そんなこと、認められるものか。
 僕達の旅にはかおるさんが必要なんだ。
 かおるさんがいて、アイさんがいて、みんながいて。
 直ぐ傍らに、リィがいる。
 一つでさえ欠かすことが出来ない、幸せの光景なんだ。
 ……何を言えばいい? 何を言えばこの子達が納得してくれて……かおるさんが船団に戻ってくるのだ?
「かおるさん」
 フェレットを思いを遮って、アイがそう呼び掛ける。
 彼女は何処か落ち着き払っていて、フェレットにはそれが、望みを諦めたかのような顔に映った。
「私達と一緒に来れないの? フェレさんも私もリィちゃんも、ずっとそれだけを待ち望んでたんだよ」
「ワタシはかおるではなく、トンデル・ズラヌコフ三世だよ」
 全く的外れのようなその返事。
 だがそれを聞いて、怒る人間はもう誰もいなかった。
 ただ悲しみを湛えている。
 訣別の意味を含んだ言葉だと、そう受け取るしかなかった。
 今の彼にとって何より大切なもの、それは私達ではなく、この子達なのだと。
 そう、判断するしかなかった。
「行こう、フェレさん。リィちゃん」
「アイさん……」
 アイの声は至って平然としたままなのに、フェレットには叙情の旋律のように物哀しく響いた。
 抑えているのだ、彼女も。
 際限なく溢れ出る感情を、言葉を。
 フェレットはそう思って、その思いは悲しみをさらに倍増させた。
 ”どうしようもない”と言い訳して、全て封じ込めている。
「……セルマちゃん、世話になったな。……ごめんな、邪魔しちゃって」
 フェレットは小さな声でそう、自分達をここまで案内してくれた少女に謝った。
 あたしこそ、ごめん。
 そう、か細い声が返ってくる。
 白い雪のような色をした顔を、真っ赤に泣き腫らして。
(こんな子供を泣かせてしまって、僕は何をやってる。何をやってるんだ……?)
 フェレットは俯いて、正面を見ることが出来なかった。
 彼等が一悶着起こしたせいで、賑わっていた休憩所内はすっかり静まり返っている。
「……ねぇ、かおるさん」
 去り際にもう一度、アイは諦め切れずに仲間の名前を呼んだ。
「私達、あと五日位したらケープに行くわ。そこで海賊達と戦わなきゃいけないの。……あと五日、ここにいる」
 気が変わったら来て。
 変わらなかったとしても――せめて、会いに来て。
 静かにそう言い残し、彼らはもう、そこから去るしかなかった。

6

 それから一日が経って、またルアンダの町に夜が降ってきた。
 エメラルドの海に静かに揺られる船の中に、船員の大半は戻って来ていて、それぞれの時間を過ごしている。
 数年間も掲げてきた目標が無くなってしまったのだ。
 彼等は折れた矢のように地面に突き刺さって、そこから動けずにいた。
 フェレットやアイ達はともかくとしても”永久機関”の船員達は話を聞かされただけで収まるはずがなく。
 フェレット達から事情を聞くと直ぐ、彼等は一斉に休憩所へと向かった。
 だが、かおると子供達の姿は既にそこから消えていたのだ。
 その後も必死にルアンダの町を探したけれど、彼等の姿はもう、完全に消えて無くなっていた。
(何でだよ……)
 船室に備え付けられているベッドに寝そべり、フェレットは呆けて天井を見上げていた。
 時々ごろりと寝返りをうったりしながら、もう数時間もそうして意識を保っている。
「船長、気晴らしに町へ行きませんか? ずっと暗い部屋にいるだけじゃ、体を悪くしてしまいますわ」
 途中”フォスベリー”の副官ロッティーナがそうして誘いに来た が、”だるいからいい”という簡潔で怠惰な理由で断ってしまい。
 ロッティーナは溜息をついた後、独りでルアンダへと行ってしまった。
 それから、誰も船室を訪れることはなく。
 暗い部屋で孤独に物事を考えて、それが良い方向に行くことなど有り得なかった。
(かおるさんは元々、あの子達と一緒にいたんだ。それが何かのキッカケで離れ離れになってしまったとかで、たまたま僕と出会ったから時間つなぎとして僕らと一緒にいた。たったそれだけの話だったのか。かおるさんは僕らのことを騙してたのか……?)
 それが事実だったとしても、彼が騙していたということにはならない。
 解っているけれど、裏切られた気持ちになる。
(にしても、誰も来ないな)
 そりゃあ今この部屋を誰が訪れようとも、何も話すことなんかないし、誰に慰められようとも心が安らぎはしないだろう。
 そう知りつつも、この孤独さが腹立たしくて仕方が無かった。
 広き世界、果て無き大海原のその全てに拒絶されたような気さえする。
 そんな独りぼっちの場所に長く居たが、やがてかちゃりと音がして、ドアが開かれた。
 控えめな歩みで姿を現したのは、長い髪をした女性。
「なんだいリィ、遅かったなあ。待ってたんだよ、ずっと」
 機嫌悪げに、じゃれつくような声をフェレットは放った。
 失策だったと直ぐに気付いたが、もう訂正は出来ない。
「リィさんじゃなくて悪かったわね」
 確かに髪の毛はリィと同じくらい長いが、鮮やかな金色ではなく、茶色い。
「ゲッ……ルーファ、さん」
「今『ゲッ』って言ったかしら?」
「んや、息が喉に詰まっただけだよ」
 かなりの驚きだったらしく、フェレットはごほごほと咳を繰り返した。
「どうしてルーファさんが此処に……」
 もしかして慰めに来てくれたとか? と、フェレットは虫の羽音みたいな声で続けた。
「私に慰められて、それで立ち直ってくれるんならそうするわね」
 鋭い切れ味をした返事が来ると思っていたのに、ルーファの声は予想よりずっと優しいものだった。
 ずっと強張っていたフェレットの表情が、少しだけ和らいだ。
 しかしそうじゃなかったら何の用で来たのだろう?
 思い当たる節は、たった一つ。
「っもしかして、かおるさんが来たとか?」
「ええ。ただしかおるさんじゃなくて、かおるさんの知り合いがいらしたの」
「知り合いって……」
 ベッドから半身を起こしていたフェレットだったが、その声を境にまた仰向けになって転がった。
「本人は来ないのか。せめて一言くらい、謝るなり何なりしに来れば良いのに」
 機嫌の悪さに任せてフェレットは言う。
「まだわからないわ。とにかく、貴方に会いに来てるそうだから、行って上げて」
「……どうせ子供達でしょ? 案内してくれた女の子か、或いは僕を蹴り飛ばしたガキが謝りに来たか、どっちか」
「四十歳位のおじさんと、二十歳前くらいの綺麗な女の子だったわよ?」
「……あの子らとは別か」
 その組み合わせに魅力を感じたわけではないが、フェレットはなんとなく、出て行くことにした。

 夜風に吹かれながら立っている二人を見て、血縁関係があると思うものはまずいないだろう。
 年齢的には親子程も離れているとは言え、一目見てあまりに似ていない部分が多すぎる。
「クライドさん、わざわざありがとうね。来てくれて」
 小麦色の肌をした少女アスナ。
 その姿には健康的な美、ガラスの様な繊細さが同居している。
 対するクライドはと言えば、四方八方何処から切り取ってみても”美”の欠片もない。
 熊のような姿としか形容できない男のその顔には、黒色の火傷痕が刻まれていた。
「俺しかいねぇってしつこく言われちゃ、断れねえよ。ガキどもは来たがらねぇし、かおるの奴ぁここ数日、あのいかれたマスクを被ったままなんだろ?」
「うん……」
「ついに気を違えたな、あのアホは」
「そんなこと言わないで。きっと辛いんだ、かおるさん」
「ふん」
 相変わらず、強く見せておいて弱い男だぜ。
 クライドはそう、心の中で舌打ちをした。
「で、なんて言う気なんだ? あいつの昔のお仲間とやらによ」
「それは、言えない……」
 アスナは弱々しい声音で言った。
「ま、俺は口出しはしねぇよ。お前らの御家事情はお前らで解決するんだな」
 言うとクライドは、居心地悪そうに巨躯を揺すった。
「にしても遅えな。連れて来るって言ったっきり、もう二十分は待たされてるが」
 二人の眼前には、数隻の船が連なって並んでいる。
 その内の一隻からようやく数人の人間が姿を現し、そしてこちらへと走ってきた。
 一人はさっきここにいた船員で、もう一人は、
「あ! あの人だわ……」
青を基調とした服装、緑色の長い髪。
 この間かおるさんに会いに来た人の内の一人だ。
 彼等がやって来たのより少しだけ遅れて、また他の船からも人がやって来る。
 しかしとりあえず、アスナ達の視線は眼前の二人へと向いていた。
「……君は、確か」
 ちゃんとした挨拶をするのも忘れて、緑色の髪をした男、フェレットは真顔でアスナを見やった。
 ――かおるさんと一緒にいた子か。
 子供だと思っていたけれど、よく見れば僕らとそう変わらない。
「あの時は迷惑を掛けちゃって、悪かったね。その、興奮してたもんでつい……」
「もう、いいんです。こっちも失礼なことをしてしまいましたから」
 アスナは頭を下げて、釣られるようにしてフェレットも下げた。
 クライドはわざとらしくそっぽを向いている。
 場が静まり返って、さて何を話そうかと言う時に、割り込んでくる声があった。
「あら、フェレさん。ようやく出てくる気になったのね」
 別の方角から聞こえてきた声、それはアイのものだ。
 彼女の隣にはパングとリィの二人もいる。
 最初アスナ達が訊ねてきた時にはパングとルーファの二人だけが船の前にいて、フェレット達を呼んできてもらうよう彼等に頼んだのだ。
「リィ……アイさんとこの船にいたのか」
 先に声を掛けたのに返事を貰えず、アイは少しむっとした顔になったが、フェレットはそれすら見ていない。
「はい。かおるさんの御知り合いの方が来ているってパングさんから聞いて……」
「そう言う事っす」
 パングは何故だか得意げに口にした。
 そのまま居座って話を聞くつもりでいたが、
「込み入った話になりそうだから、私達は中に入ってるわね。ほら、行くわよパング」
ルーファに首根っこを掴まれて、それは無理そうだと察した。
「……んじゃ、そう言う事っすから」
「うん。ルーファさん、色々ありがとう」
 既に姿が遠ざかっている二人に向かい、フェレットが声を投げ掛ける。
「早く元気出しなよ」
 ルーファはそれだけ言い、去って行った。
 何気ないそんなやり取りが、アスナの胸をきつく締め付ける。
 ――ようやく、その場には当事者だけが残された。
「さて、僕等には訊きたいことが色々ある。けど、まずは君らがどうしてここに来たのかを教えてくれないか」
 フェレットは何もかもを知りたいとは思っていなかった。
 かおるさんがこの人達とどんな風にして知り合い、どんな風にして時を過ごしていたのか。
 そんなこと、聞きたくない。
 知ったところでどうにもならないし、辛い思いをするだけだと解っているから。
「私がここに来たのは……貴方達に、言おうとしていたことがあったからです」
 何故だ?
 そう言ったこの少女の顔が、苦しそうに、哀しそうに歪んでいる。
 フェレットは生唾を飲み込んだ。
「……私、アスナって言います。フェレットさん、ですよね。隣にいるお二人はリィさんとアイさん」
「ああ。かおるさんから聞いたのか?」
「いえ」
 きっぱりとアスナは言った。
「かおるさんは貴方達のこと、一言も口にしていません。あれから家に帰って、何時も通りに暮らしています」
「じゃあどうして知ってるんだ……?」
「休憩所でそう名前を呼び合っているのを、聞きましたから」
「ああ、そう」
 吹いてくる風が冷たく感じる。
 ザザザッ。
 音を立てて木々が揺れて、静かに波音が響く。
「かおるさんは……私達と一緒に暮らし始めてから、毎日本当に楽しそうにしてます。もう一年以上も、そうなんです」
 一年以上。
 あの時ベルゲンで姿を消して、それからずっとと言うことか……?
「それなのに、この間貴方達と会ったとき……かおるさん、本当に辛そうだった。辛かったから、貴方達のこと知らない振りをしたんです。自分はかおるじゃないって、そう、言い張って」
「……何が言いたい?」
 アスナはずっと躊躇いがちに、俯いて地面だけを見ていた。
 こんなことを言ったら彼等は怒るに違いない。
 そう思っても言葉は滝のように流れ出して、止まらなかった。
「お願いします、もう二度とあの人に会わないでください。あの人は私や子供達の支えなんです。あの人を連れて行かないでください、お願いします。お願いします」
 アスナはそう、繰り返し懇願した。
 途中から言葉には涙が交じり、ぐすり、ぐすりと音を立てながら、何度も。
 誰もが返す言葉を失った。
 クライドは相変わらずそっぽを向いたままで、フェレット達はアスナのほうを向いているけれど、何も言えない。
 皆、もどかしさだけを感じながらそこにいた。
(……あの人は、何をしてるんだよ。……ったく)
 フェレットは目を閉じた。
(女の子に、こんなに涙を流させて。まるで僕らが人攫いか何かみたいじゃないかよ。これじゃあ)
 男にしては長い睫毛が肌へと影を落とし、それがゆらゆらと震えている。
 こんなに嘆願されて、何を言えば良い?
 どうあっても、悪者になってしまうのはこちらだ。
 ……この少女からも、あのセルマという女の子からも、残る数人の子供達からも、僕は悪者に映ってるんだろう。
 かおるさんも、そんな風に僕達のことを見ているのだろうか。
「わかったよ」
 何かに突き動かされるようにして、フェレットは言った。
 この場で非情にはなれない。
 僕らが去ればそれで済むことなのだと、すっきりした面持ちになって。
「五日後と言わず、今直ぐにでもここを出てく。どうせもうこんな場所には何の用も無いんだ」
 怒鳴られるのではないかと思っていたアスナ、ただ呆気に取られてフェレットを眺めた。
「つまりあの人には、僕らの船団より大事な場所があったってことなんだろ? それだけ解ったから、もういいよ」
 そうだ、そう認めてしまえば楽になれる。
 自分もかおるさんも、この子達も。
 フェレットはさっと踵を返した。
 さっさとここからいなくなって、全部忘れてしまおうと思って。
 そうして歩いて行った。
 自分の船ではなく、砂浜のほうへゆっくりと。
 ずっと無言でやり取りを聞いていたアイ、彼女も同じようにして砂浜へと歩いて行った。
(フェレさん……)
 リィだけがその場に取り残されて、どうして良いのかわからなくなって佇む。
 再び静まり返ったその場で、アスナは顔を上げると、クライドのほうに向き直った。
「行こ……クライドさん」
「ああ」
 アスナはリィに向けてぺこりと一礼し、ゆっくりと、その場を去って行った。
 クライドも彼女の後ろに続いていたが、途中何かを思い出したように、ぴたりと足を止める。
「アスナ、俺はちょっとした用を思い出した。大したことじゃねぇから先に町の出口の辺りまで行ってろ。直ぐ追う」
「……? わかった」
 この場においてどんな用事を思い出したと言うのか。
 アスナは疑わしく思ったが、彼のことを信用して帰って行った。
 クライドとリィの二人だけが、夜空だけに見守られてそこにいる。
「あんた、名前はリィと言ったか」
「……はい」
 私達が知らないかおるさんのことを、伝えてくれるのだろうか。
 リィはそう一縷の希望を抱いていた。
 何もかもがうまく繋がって、またみんなが幸せで居られるような。
 そんな魔法を、この人が掛けてくれるのではないかと思っていた。
 だが、違った。
 言うなれば、彼が知っているのは魔法を解くその方法。
「あんたは今、幸せか?」
 全く予期できぬ言葉を投げ掛けられて、リィは呆然とした。
 私は今幸せなのか?
 考えるまでもなく、答えは出る。
「かおるさんが居てくれたら、本当に心から幸せだと思えます。きっと」
「あいつが居なきゃ不幸せか? それこそ死にたくなるくらい不幸だと思ってるか?」
 どうしてこの人はこんなことを訊くんだろう。
 不思議に思いながらも、言われるがままにリィは答えた。
「一つ、大事なものが欠けてるとは思うけれど……。それでも、幸せです。どうしてそんなことを訊かれるのですか?」
 リィのことを見下ろすその黒い瞳に、微かな憐憫が揺れていた。
 辺りは暗闇に包まれていて、彼女はそれに気付かない。
「いや、ならいい。手間取らせて悪かったな」
 リィが忙しく瞬きをしている中、クライドは向きを変えて、そしてゆっくりと歩みを始める。
 ……何も知らねぇ、か。
 もしやとは思ったが。
 振り向きざま、その表情は刃のように鋭いものへと変わった。
(あのバカ、何故教えねぇでいた? 面倒臭かったのか、あいつも覚えてなかったのか、どっちだ)
 どちらも同程度の確率で有り得る、とクライドは思った。
 そのまま居なくなるつもりでいたようだが、気まぐれか、最後に一言だけ言葉を残す。
「あんたの中にある未知の部分を、無理に求めようとするな。今を大切に生きろよ、お嬢ちゃん」
 ようやくリィは気付く。
 この男の言葉が何を指しているのか――。
 ”今”があれば、その以前には”過去”が存在し、そこには未踏の場所である”未来”も存在する。
 けれど、”未来”は考えたってどうにもならないことだ。
 自分が立っているこの風景こそが”今”。
 それでいて、心は失われた”過去”を求めてやもうとしない。
「もしかして、貴方は私の過去を!」
「ちったぁな。けど、教えねえぞ。俺は生きてる人間に恨まれるのはゴメンだからな」
(恨まれる……ですって?)
 何故、恨むことになると言うの?
 リィはその意味を判りかねた。
 元々の白面から、さらに色が失われていく。
「世の中、知らねぇ方が良いことって有るもんだぜ。知らねぇで幸せでいられるんなら、それで良いじゃねえか」
(待って!)
 リィの声は、喉から外に出て行こうとはしなかった。
 無理に問い詰めれば、彼はもしかしたら洗い浚い話してくれるかもしれない。
 けれど、真実に近づくのが怖かった。
 クライドが去っていくのを、追うことが出来なかった。
(フェレさん、アイさん、みんな。私はどうしたら)
 真実を知ることによって失われる幸せなら、何も知らない振りをして、幸せに浸っていたい……。
 大切な人達と、幸せなままでずうっと一緒に居たい。
 幾つも浮かび上がってくる、幸せの風景。
 この身体に残った、大切な人の温もり。
 このままずっとここにいて。
 私から去って行かないで。
 そう、強く願った。
(ずっと一緒に居たいよ、フェレさん)
 誰もいなくなったその場で、リィは襲い来る不安に身を震わせていた。
 夜に吹く風は不穏な気配を孕み始め、冷たくなろうとしていた。

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  1. 2005/09/08(木) 04:57:04|
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第十七章 憧憬ふたつ(前編)

1

 目的の地、アフリカへと向かう途中、フェレットらは仲間達との再会を果たした。
 商会"Bar Like A Child"の代表を務める北海の雄、カリタス。
 彼が自らリスボンへと赴き、船団を出迎えてくれたのだ。
「代表主がこんなところにいて良いんですか?」
「やれやれ、第一声がそれか」
 酒場で顔を合わせるなり、同じく"Bar Like A Child”の一員であるルーファにそんなことを言われ、カリタスは苦笑した。
「まあ、まだ頼りになる面々が多数倫敦に残ってるからな。問題は無いよ。それに」
 カリタスが指差した先。
 そこに有ったテーブルについている面々は、フェレット達にとって馴染みの深い顔ばかり。
「アビエル、ジェイコブ! それにみんなも!」
 そこにいたのはかつてかおるが乗っていた船”永久機関”の水夫達。
 フェレット、アイ達は信じられない光景を目にして、その瞳を普段の数倍にも輝かせた。
「フェレットさん、気付くの遅いですぜ。俺達はさっきからずっと此処に居たのに」
「北海に残ってたんじゃなかったのか!」
 ”永久機関”は倫敦の町に残され、水夫達もまた倫敦で暮らしているはずだった。
「かおるさんの居場所が判ったと報告を受けて、居ても立ってもいられなくなったみたいでな。私がここまで運んで来たんだ」
 再会を喜び合うフェレット達のほうを優しい視線で眺めながら、カリタスは言った。
「え、じゃあもしかして、カリタスさんが”永久機関”に?」
「ああ。ガレー船は初だから不安だったが、手練れの船員ばかりで助かったよ」
「そりゃ、あのかおるさんが船長でしたからね」
 フェレットは自信満々に言った。
 頼りになる船長のお陰で航海術が上達したのか、或いは不甲斐無い船長のお陰で航海術を上達させざるを得なかったのか。
 それはこの場では明らかにされることはなく。
「で、かおるさんの居場所はアフリカの何処だって言ってたっけ?」
「ルアンダで、子供達に囲まれて暮らしてたとか……」
 カリタスに問われて、答えたのはアイだ。
「ふうん。何があったんだろうかな、一体。あの人は仲間と一緒にいても何処か一匹狼みたいな雰囲気を持ってたけど、それがまさか子供と一緒にいるとはな。その情報は確かに信用出来るものなのか?」
「はい」
 返事は短かったが、そこには確信の色があった。
「解せないのは私達もですけど……今まで散々探し回ったんですもの。ここまできたら、世界の果てだろうと探しにいくつもりですよ。ね、フェレさん」
「うん」
 フェレットの声も短い。
 彼の顔色に、僅かな翳りがあるように見えた。
「フェレさん?」
 不思議に思ってアイが訊ねると、フェレットは少々驚いた顔をした。
「あ、ちょっと考え事をしてたもんで」
「考え事って……」
「僕、ちょっと思ったんですけど」
 再会を祝う酒の席の雰囲気が、彼の声を境に張り詰めたものへと変わった。
 それ程、彼らしくもない真面目な声であったのだ。
「カリタスさんがさっき、かおるさんが一匹狼みたいな雰囲気をしてるって言ったけど……僕にもそう見えますけど。でも、あの人は本当は」
 フェレットは口篭った。
 未だ、言葉が整理されていない段階で外に出してしまったらしい。
「本当は僕らよりもずっと、かけがえのない仲間を求めているというか……そんな風にも思えたんです。あの胡散臭い雰囲気がブラインドになって、はたからはよくわからなくなってるけど」
「それは私も解ってるわよ。かおるさんは別に、たまたま知り合って、たまたま一緒に行動してた訳じゃないもの。きっと私達のことをかけがえのない仲間だと、そう思ってくれてたに違いないわ」
「うん」
 アイに言われても、フェレットの表情は冴えないまま。
 それどころか、さらに一層沈んだよう。
「なのに、船団のことを放っていなくなってしまった。それはもしかしたら」
 フェレットは言葉と言葉の間に一呼吸を置いた。
 無意識に、一旦声が止まってしまったのだ。
「他にもっと大切なものが見つかったからなのかもしれない。一緒にいた子供達が、かおるさんにとって僕らより大切な存在なのかもしれない」
「フェレさん……」
 彼らしくない、とアイは思った。
 元来決して強気な性格ではないけれど、少なくともかおるの捜索に関しては、弱音を吐いたことは今までに一度として無かったのに。
「……もしかして酔っ払ってる?」
 アイが一応そう訊くと、フェレットは頭を横に振った。
「僕はまだ一杯しか飲んでないよ。ただ、ふと思い直してみて、そんな気がしたんだ。じゃなければ、無断でいなくなるなんてことやっぱり無いと思う。……迷子になって漂流した可能性は有り得るけど」
 足元から這い上がってくる不安に襲われて口にした言葉ではない。
 かおるのことをよく知っているからこそ、フェレットはまた彼の行動が信じられなかったのだ。
 新たな航海に赴く時は何時だって、見知らぬ大陸が手招きをしているように感じるものだった。
 だが、今回は違う。
 未知の大陸アフリカは、船団のことを拒絶するのではないか。
 そんな不安が頭にこびりついて、離れなかった。
 フェレットの声が吐かれた後、そのテーブルには静寂が落ちた。
「フェレさん」
 やがてその静寂を打ち破ったのは、”コンスタンティア”の船長、リィの声。
 真横から届いてくる声に、フェレットは複雑な表情で耳を傾ける。
「かおるさんに会って、真相を聞きましょう」
 今ではもう一日たりとも彼女の声を聞かない日はない。
「怖がってしまう気持ち、わかります。でも、今回は迷っていても、きっと何も進みはしないですから」
「簡単に言ってくれるな」
 けれどそれが、こんなに鬱陶しく感じたのは初めてのことであった。
 君に何が分かるって言うんだ、そう怒鳴りつけたくもなった。
 抑えることが出来たのは、単にそうする気力さえも無かっただけなのかもしれない。
 そして彼女の言うことが間違いではないことも知っていた。
「その為にリスボンまで来たんだからな。他に選択肢が無いことくらい知ってるよ」
「でしょう。だったら、もっと元気出してください。体力が残ってないと、とてもアフリカまで体が保ちませんよ! さぁフェレさん、もっと飲んで飲んで!」
 リィはそう言い、半ば強引にフェレットの眼前にあるグラスへと、酒を注ぎ込むのであった。
「ねぇフェレさん。飲みましょう?」
「……ああ、分かったよ。こんな時は無理にでも元気を出すべきなのかもな」
 リィだって特別酒が好きなわけでも、強いわけでもない。
 自分の為に無理をしてくれているのだと知り、フェレットは仕方無くグラスへと手を運んだ。
「それに、アフリカでやらなければいけない仕事も有るんだろう」
 二人のやり取りが平穏に収まったと見え、再びカリタスが静かに口を開く。
 彼は何も、ただ”永久機関”の船員の輸送だけを目的にここまで来たのではなかった。
 イスパニア、セビリアの町でフェレットらが受けた依頼はかなりの戦力を必要とするもので、いざとなれば自身も参戦すべく、リスボンまで出向いてきたのだ。
「イスパニアも何かと大変な様だな。今セビリアでは、命知らずの船乗りを多数募集してるんだって?」
 カリタスの言によれば、つまりフェレット達も命知らずであるらしい。
 それに加勢するつもりで来たのだから、彼自身もだ。
「アフリカ大陸の最南端にあるケープの付近の海で、海賊達が終結して一大艦隊を形成しているそうですよ。交易船が殆ど通れないような状況になってるとか」
 フェレットがそう、改めて事情を説明する。
「イスパニアでもタベラ枢機卿が直々に、海事ギルドへと海戦が出来る者の募集を掛けるよう、依頼したらしいです」
「ルーファからの報告でもそう聞いてるけど、どうしてその依頼を受けるつもりになった?」
「依頼の報酬額が並じゃなかったから、ですな」
 フェレットはあっさりそう言い、カリタスは少し拍子抜けをした。
「解り易い理由だが……君ら、いつから冒険者と傭兵を掛け持ち始めたんだ」
「ま、僕に取っては一応国家の危機でもありますからね。それに、あと」
「あと?」
 フェレットがごにょごにょと小声で何か言っているのを見て、首を傾げるカリタス。
「場所、ルアンダからそう遠くないし。かおるさんが復帰したら、リハビリ代わりに丁度良い依頼だと思ったんです」
「国家の危機も、あの人に取っちゃリハビリ代わりか」
 疑問は氷解し、カリタスはふっと笑った。
 今回、ケープ付近の海域に終結している海賊の艦隊を滅ぼすべく向かうのは、フェレットらの船団だけではない。
 期日は今から二ヵ月後。
 二ヵ月後、その時が訪れた際にケープへと終結した船乗り達と共闘し、海賊を倒す……という手はずになっているのだ。
 まだ見ぬ大陸へと旅立つことに不安を覚えなくもない。
 それと同時に、高揚感も胸から込み上げて来て、全ての感情を乗っ取ろうともする。
(まずはルアンダ。それからケープだ。大丈夫だ……かおるさんはきっと帰ってくる。これ以上不安に思うことなんて、きっと無い)
 迷っていても、ここから何も進みはしない。
 フェレットはさっきリィが口にした言葉を思い出したが、あの時と同じような苛立ちはもう感じない。
 確かにその通りだ、とだけ思う。
 げに恐ろしき酒の魔力よ、と思いつつも、この魔力に浸ったまま、もう少しいることにした。

2

 ルアンダから一時間も歩けば、人気が全く無い荒野へと出る。
 そこからさらに進んだところに、民家が一つ、ぽつんと建っていた。
 その古びた民家は大きくもないし綺麗でもないが、何時だって幸福の光景がそこにはあった。
「フオオオオ!」
 家の主らしき男はやたらと胡散臭い風貌をしていて、そこから放たれた声は外見以上に不気味だった。
 家の掃除をしている最中に、何やら見知らぬ物を発見したらしい。
「かおるさん、どうしたの?」
 そもそも彼が掃除をしている事自体が、年に一度かそれ以上のことだ。
 物珍しげにして、少女アスナはそれを後ろから眺めていた。
「ちょ、これ見てこれ!」
 アスナのほうへと振り返ったかおるは、普段とは違う顔の形をしている。
 それもまた、普段以上に胡散臭いものであった。
「あははははは」
 アスナは大笑いをした。
 その声を聞いて子供達が駆けて来て、また腹を抱えて笑う。
 彼が被っている仮面――ごつごつとした質感のそれは妙に優しげな顔をしていて、頭から生えている羽根のような葉っぱの群がまた奇妙で可笑しかった。
「ははは、かおるさんが被ってると変に似合ってておかしい!」
 何故かかおるからマー坊と呼ばれている少女、セルマが涙を流しながら口にした。
 その後ろにちょこんと立っているのは、ミケという名の少年だ。
「ナウいかね」
「うん!」
 セルマに続けてミケも、うん、と小さな声を出す。
「祭礼用のマスクらしいわ。ルアンダに住んでいるおじさんが、使い道が無いからってくれたの」
 アスナが言う。
 本来の使い道ではないけれど、こうして子供達が笑えればいいと、貰って来たのだ。
「ねぇ、かおるさん。お掃除も良いけどそろそろ町に行こうよ。食料も心もとなくなってきたし、買出しに行っておかないと」
「おう、んじゃ行くか」
「……そのマスク、被ったままで?」
「忘れてた」
 かおるは祭礼用マスクを外し、脇に抱えた。
「……持って行くのね」
「うん」
 何故持って行くのか、アスナはもう訊ねる気は無いようだった。
 家を出ると、空一面にはどんよりとした灰色が広がっていて。
「もしかしたら雨、降るかもね。早目に行ってこないと」
 空をぼんやりと見上げて、アスナが呟いた。
 隣ではマテウスが、そんな空から目を背けるようにして、地面へと視線を落としている。
「雨が降るか、晴れてくれればいいのに。曇り空ってなんだか、嫌いな色をしてる」
 重々しくて、落ちてきそうで嫌なんだ。
 マテウスはそう続けた。
 重々しい雰囲気――分からなくもない。
 だが、かおるはそんな灰色が嫌いではなかった。
 慣れ親しんだ倫敦の町は何時だって、そんな色をしていたから。
 荒野には時々風が押し寄せてきて僅かな草木を揺らし、また何処かへと吹かれて消えていく。
 ほんの少しの寂寥感さえ抱かせるこの場で、彼らは楽しげに会話をするのだった。
「ねぇかおるさん」
 しかし、途中で吐かれたセルマの声は、浮かばぬ色をしていた。
「明後日からまた、お出かけなんだよね? 今度は何時頃帰ってくるの?」
「ああ、今度はそんな遅くならんと思う。十日とか、そんくらいかな」
「十日かあ……でも長いね。マグロ漁船のお仕事ってやっぱり大変なの?」
 重ねてセルマに訊ねられ、かおるは一瞬考えた。
 そして何かを言おうとするも、セルマの声がそれを遮る。
「あたしも手伝いたいな。そうしたらかおるさん、少しは楽になるかな」
「……ボクも」
 ぼそりと、ミケがさらに言葉を連ねた。
「何言ってんだよ。お前らみたいな子供じゃ、行っても邪魔になるに決まってんだろ」
 そう口を挟んだのはマテウス。
 とは言っても彼だって、年齢は二人と一つか二つしか変わらない。
 アスナを除いた三人は十年と少しの年しか生きていない、あどけなさが多分に残る顔つきをしていた。
 だが、それでも。
(大きくなったものだ)
 かおるは思った。
 海から帰ってきて彼らの顔を見るたび、そう感じていた。
 まだ大人とは呼べないけれど、本当に成長したのだ、彼らは。
 アスナ、マテウス、セルマ、そしてミケ。
 出会ったのはもう、八年近くも前のこと。
 ――あの時はまだ、一人では何も出来ない子供たちであったのに。
 彼らと出会い、自分は色々なものを貰った。
 もしも彼らを知ることが無かったなら……自分は今生きているかも解らない。
 生きていたとしても、きっと今ほど幸せだと感じることは無かっただろう。
 ……あの長かった暗黒の時代も、愛しい仲間達と過ごした冒険の日々も。
 そうだ、全てはきっと今の為に在ったのだ。
「かおるさん?」
 アスナが彼の声を呼ぶも、かおるの神経は別のところへと向けられたまま。
(どうしてんのかなぁ)
 何故だろうか、今日はやたらと、過ぎ去った景色が脳裏を繰り返し過ぎる。
 北海の、倫敦を思い出させるあの灰色の空のせいか?
 ……愛しき仲間達。今ここにはいない仲間達。
 きっともう会うことはないだろう、仲間達。
 いや、もう彼等のことを仲間と呼ぶ資格は自分にはない。
(俺……私、か。いや……俺がいなくても、彼らはきっとこれからも、幸せにやっていける)
 フェレッチ君はギャルと幸せにやってそうだし。
 アイさんはまぁ、酒が有ればどうとでもなるだろう……むしろアイさん=酒みたいな。
 彼らと過ごした日々は、今も色濃い記憶として残されたまま。
 だから浮かばせようと考えさえすれば、彼らの顔はすぐにイメージ出来た。
 ずっと拒絶してきたはずなのに、ふと、思い出したくなったのだ。
 浮かんでくる幾つかの顔は、潮風に吹かれながら楽しそうに笑っている。
 酒を飲んでは楽しく笑い、航海の先で未だ目にしたことのないような美しい風景を見つけた時も、彼らは心からの笑顔を浮かべた。
 この祭礼用マスクを見たら、やっぱり彼らは大声で笑うだろう。
 だが、彼らは今ここに居ない。
 これからもう、出会うことも無いだろう。
「かおるさん!」
 金糸刺繍で仕立てられたイスラムの服装ドルマンを、思い切り引っ張られた。
 さすがのかおるも予想できず、つんのめりそうになる。
 引っ張ったのは華奢な少女の腕で、それはアスナのものだった。
「かおるさん……今、私達とは別のところ、見てた」
「ンア?」
「私達四人とも、こっちにいるよ。曇り空ばっかり見てないで、もっと私達のほう向いててよ」
「……じゃそうする」
 ぶっきらぼうな声を返してみせる。
 ぶっきらぼうながらも心外だ、と言いたげな声……そんな風に、アスナは思ってくれただろうか。
 気付かれないようにして、彼女の表情を確認しようとする。
 が、出来なかった。
「フグッ?」
 今度は、何かが背中にのしかかってきたのだ。
 覚えのある感触だが、突然のことなので戸惑うかおる。
「曇り空なんて、マグロ漁船の上でも見れるもん。だけど漁船に乗っちゃったらあたし達には会えないんだよ。だからもう、空ばっか見てちゃあダメ!」
 背中に負ぶさっているのはセルマだ。
 さらに、無言でドルマンの裾を引っ張っているのはミケ。
 楽しそうに押したり引いたり、繰り返している。
 彼らの楽しそうな声、幸せそうな顔。
 それを見て、記憶の中にある光景を思い出さずにはいられない。
(……疑うな)
 かおるは掌を強く、血が滲むほど握り締めた。
 運命の皮肉と残酷さをただただ呪いながら。
(この光景を、この幸せを疑ってはいけない)
 無いものねだりは幾らだって出来る。
 ここに在るものがどれだけ大切なのかを考えながら、今日だけを生きよう。
 幸せは何時だって、少し目を逸らしている隙に、その不思議な力を失ってしまうものだったから。

3

 リスボンから真っ直ぐ南へと向かい、船団は一度、カナリア諸島にあるラスパルマスの町に寄港した。
 この町の出港所で、リスボンの冒険者ガスパールとアイが壮絶な飲み比べ合戦を繰り広げたのは、今からもう数年も前のこと。
 たかが数年だけど、フェレット達にはそれがやけに懐かしく思えた。
 だが、懐かしさだけに浸っていては何も進みはしない。
 補給を早々に終えて船団はそこからさらに南下を続けるのだった。
 かつて無人であった島に作られたカーボヴェルデの町へと到達した辺りから、船が走るその地面の色、海の色が少しずつ変化を始めた。
「すごーい! こんなこと初めての体験だわ!」
「アフリカは海の色も違うのね……世界にこんな海の色があるなんて、知らなかった!」
 カーボヴェルデを出発し、一行は今再び海の上に居る。
 この船の名は”コンスタンティア”。
 世にも珍しい女性船員のみが搭乗しているフリュート船だ。
「こんなロマンチックな光景、隣に男の人がいたらもっと素敵だったのにねぇ」
「次の町についたら、誰か誘ってみたらどう? カリタスさん辺り、どうかな」
「パングさんなんかもホイホイ付いてきそうよね」
(……こらこら)
 お喋りな船員達のやり取りを密かに聞きながら、船長であるリィは珍しく機嫌悪げにしているのだった。
 彼女は元々は”フォスベリー”の一乗組員である。
 甲高い歓声ばかりが響き渡るこの船の上で、時々あの船の男臭い雰囲気が恋しく思えることもあった。
(この海の色――)
 緑の海。
 決して濁っているわけではない。
 射し込む太陽光線の量、海の深さ、そして海の鮮やかさを演出する珊瑚礁の群。
 それらがこの海を美しい緑色へと変化させているのだ。
「船長?」
「……えっ」
 背後から声を掛けられて振り返ると、そこにはリズウィーが心配そうな顔をして立っていた。
「どうしたの、リズウィー。何か見つかったの?」
「いえ……。船長、何だか浮かない顔をしてると思って……」
「そうだった、かしら?」
 自分は誰もいない海のほうを見ていたのに、どうして解ったのだろうか。
「別に普段と変わらないつもりでいたんだけど」
 そうして彼女が放った声もまた、明るいものではない。
 リズウィーの顔に益々不安の色が広がった。
「もっもしかして、私達があんまりキャーキャー騒いでるから怒ってました……?」
 それも確かに、少しだけ有るけど。
 思いはしたが、リィはわざわざ言いはしなかった。
 普段ならきっと、自分も彼女達と一緒にはしゃいでいただろうから。
 今、そうすることが出来なかったのは理由があった。
(――この海の色、見覚えがある)
 エメラルド色をした海が、記憶を擽って止まないのだ。
 この感覚は、初めて感じたものではなかった。
 あの時アテネで感じて以来、ことあるごとに責め立てる。
 この光景も……あの町の空も、建物もみんな。
 フェレさんやみんなが教えてくれた色々なことも、すべて。
 もしかしたら何もかも、自分は知っていたのではないか。
 知っているんでしょう?
 そう問い掛けてくるのだ。
 ずっと長い間、何処かに隠れていたもう一人の自分が、問い掛けてくる。
 頭の中に霧がかかったようになって、この眩いばかりの光景も素直に楽しめない。
 いつかこの霧が晴れる時は来るのだろうか。
 そして晴れたときには記憶が戻っていて……私はそれでも、此処に居られるのだろうか?

 エメラルド色の海は何もかもを眩ませるほどに美しく。
 その光に紛れるようにして動く闇もまたそこにはあった。
 アフリカの海に住む海賊たちは地中海に比べて数が多く、その分縄張り争いも激しい。
 生き抜く為には比類なき力が必要となり、手にした刃の鋭さは海をも裂く程だ。
 メルキオール海賊団という、インドでその名を知られる海賊団があった。
 そのリーダー、メルキオールは浅黒い肌をしたハンサムな青年の姿をしており、海賊達を束ねる主としてはあまりに華奢な体躯をしている。
 だがその実力の程はインドの海全域にも轟き渡っているほどで、かつてイスパニアの艦隊から奪ったというその剣で、キャラベル船一隻の船員達を全て一人で斬り殺したとも言われている。
 また艦隊戦の指揮においても並々ならぬ腕をしており、たった三隻の船で敵船二十四隻を沈めたという伝説めいた話も残されている程だ。
 それがただの伝説ではないことは、海賊団の面々が一番よく知っている。
 その際にもメルキオールは敵船へと自ら乗り込み、散々斬りまくって船内を朱に染めた。
 だがその時はメルキオール一人ではなかった。
 メルキオールと共に敵船へと突撃し、まるで風を切るかのように人を斬っていった男があと二人、いたのだ。
 その一人、まるで猛る虎のような怪力でもって船を砕き、もう一人はまるで鋭い眼光を放つ狼のような神速でもって海を駆けたと海賊達は噂した。
 ”海狼”と呼ばれしその海賊、長く行方を眩ましていたが、今再び本来の巣へと戻り、時が満ちるのを待つようにしてそこにいた。
 長き戦友であった”黒き虎”と称されし男もその場にはいて、そしてメルキオールもいる。
「……つまり今回はただ傍観していれば良いんだろう?」
 ”海狼”は息を吐くようにして言葉を放った。
 とても自らの主に対して吐かれたものとは思えないほど、それは不躾な声だった。
「ああ、そうなる」
 メルキオールは慣れているのか、それを大して気に留める様子もない。
 海賊団の旗艦”ルーレライ”の船上でのやりとり。
 この場には三人だけでなく、各船の重要人物達が集結している。
「なら、俺がここにいることは無いだろう。また戦いの機会があったら呼んでくれ」
「おい、何処へ行くつもりだ? まだ会議の途中だぞ」
 ”黒き虎”が一応呼び止めようとする。
 本心では、どうせ止まらないだろうと知りつつも。
「”人畜無害”に帰る。その後ルアンダまで」
「何だよ。人畜無害って」
「フリゲート船の名前に決まってる」
 それだけ言い残し、”海狼”はさっさと船から去って行った。
「……あの野郎、この間は自分の船じゃねぇとか言ってた癖に。しかもまた妙ちくりんな名前付けやがって」
「鉄張りの黒い船体に黒い帆、さらには髑髏の紋章までつけられているのに名前は”人畜無害”だという、そのギャップがミソなんだろうな」
 何故か楽しげに、つらつらと語るメルキオール。
 海賊達が呆気に取られている中、真剣な表情へと戻った。
「確かに彼の言う通りではあるからな。他所の海賊とイスパニアの勢力が潰し合う様を、横から眺めるのが我々の仕事だ。酒の肴にでもなるような、良い戦いを演出して欲しいものだな」
「どっちが勝つと思うんだ? メルキオール」
 ”黒き虎”クライドもまた、この人物と長き年月を共にしてきている。
 話す言葉は対等であり、同じ視線で彼のことを見据えた。
「イスパニアの戦力がはっきりしてない分、まだ何とも言えない。だが海賊達が敗れるとは考えにくい」
「奴等もアフリカでは名の知れた連中らしいからな」
 メルキオール海賊団は今までインドでの活動を主としてきて、アフリカでの勢力はまだ小さい。
 だからこそ、今ここでイスパニアとアフリカの海賊が潰し合ってくれるのは願ってもない好機であった。
「イスパニアには頑張って貰いたいものだな。彼等が健闘してくれればその分、こちらも動きやすくなるというものだ」
 メルキオールが瞳を向ける先には大海がある。
 フランスの豪商であった男とスラヴ人の女との間に出来た子は、胸の内に多大なる野望を持って生まれた。
 求めし物は金ではなく、ただこの広大な海、そしてそこに広がる景色。
「これからまた忙しくなる。頼むぞ、クライド。お前達二人の活躍なくば、俺もまたアフリカの海を収めることは出来ないだろう」
「ああ……」
 クライドはこの猛き貴公子が胸に抱く、何人たりとも折ることの出来ない意思を誰よりもよく、知っていた。
 信頼をおいている腹心の部下でさえも、メルキオールの心の根底には決して、近寄ることを許されない。
「かおるも帰ってきてくれた。彼はもう、二度とこの手を離れることは無いだろう」
 離れることは無いのではなく、離れられないのだ。
 そう、仕向けている。
(逃げ道は無ぇか……)
 全てを溶かす灼熱と、凍てつくような冷気を併せ持ったその意思の剣、何人たりとも折ることは出来ないと、クライドは知っていた。

4

 見知らぬ世界へと踏み出すことは冒険者にとって最大の栄誉であり、また何より好奇心をそそられることでもある。
 だが”未知”という名の魔力は、彼らから体力、精神力を根こそぎ奪い取ろうともするのだ。
 アフリカの太陽は焼け付くほどに熱く降り注ぎ、水夫達の中に倒れるものも出始めていた二十日目の航海。
 サンジョルジュを出発してサントメを通り抜け、ようやく船団はルアンダへと到達した。
「あー長かった! 死ぬかと思った!」
 藍色と微かな朱色で染め上げられた夕闇の空が一面に展開された中、颯爽として陸に降り立ったのは”フォスベリー”の船長、フェレット。
 その顔には隠せない疲労の色と、未知のものに対する好奇心が同居している。
 いや、僅かに好奇の心のほうが勝っているようで、出航所役人との手続きをアイ達に任せ、フェレットは一人さっさと町の方に歩いていった。
「やれやれ、決して頑丈そうじゃないのに、あれで生命力は人並み以上にあるんだから……」
 アイの呟きに、カリタスやパングなどそこにいたほぼ全員が頷きを返した。
 彼らもまたげっそりとしていて、出来れば今直ぐにでもベッドに横たわりたい気分でいるのだろう。
 他の船長に少し遅れて、リィがタラップを下ってきた。
「長かったわね、リィちゃん。大丈夫?」
「ええ、私は大丈夫なんですけど」
 アイに訊ねられて、リィはその表情を暗くした。
「船員が何人か、熱射病にかかってるみたいで……。命に別状は無いと思いますけど、ちょっと心配です」
「あの日の照り具合じゃねぇ。うちの船員も途中でへたったりしてたわ」
「やっぱりこんな時、船員が女性ばかりだと大変です。男の方の手が欲しくなるって言うか」
 リィは力無い笑いを浮かべるのだった。
 釣られてアイも苦笑いをする。
「確かに男の人は元気よね。さっきも一人、さっさと町の方に行っちゃった男の人がいたもの」
「フェレさんですか?」
 疑問系で言いつつも、リィは確信をしていた。
 さすがに結構な長い付き合いだけあって、行動パターンもそれなりに読めているのだ。
 それに今回に限っては、しょうがない部分もある。
「この町にかおるさんが居るんだものね……」
 アイはそう、感慨深げに言った。
 本来なら自分だって、出航所での手続きなど投げ出して町へと走って行きたいのだ。
 彼がここにいると教えてくれたのはヴェネツィア海軍の将校を務める若き女性、ゼルダ。
 彼女は確かに目撃したと言ったが、それはもう一年と数ヶ月も前の話なのだ。
 その間にかおるがここから移動していたとしても、何の不思議もない。
 だが、初めてまともに得た情報なのだ。
 そこから一つずつ当たっていかねば話はこれ以上進まないだろう。
「よし。私達も行くとしますか」
 手続きを終え、アイは気勢を上げるように言った。
 何も知らぬ未開の土地。
 そしてそこには、誰よりも親しい一人の男がいるはずであるのだ。
 冒険者足るもの、ここで気力を振り絞らずにどうする。
「それに……多分だけど、フェレさん困ってるだろうしね」
 アイはまた、呟くようにしてそう言葉を加えた。
 今度は他の船長達、ただ疑問顔になる。
 その疑問が解明されるのはフェレットを見つけた時、それから五分程後のことになるのであった。

 フェレット達からして未知の存在であるなら、つまりフェレット達もまた、相手方からは未知の存在ということになる。
 心臓を早鐘と変えて町を進んでいたフェレットだったが、早速周囲にいた子供達に取り囲まれ、色々と話しかけられることとなった。
 此処に辿り着くまでアルギン、サンジョルジュといった幾つかのアフリカの町に寄ってはきたが、急ぎ足でいた為にまともに町の人間と話す機会はあまり無かった。
 だからこそ、このルアンダの子供達と親しくなるつもりでフェレットはいたのだが……。
 たった一つ、予想外のことがあった。
 数人の子供達の話す声。
 声変わりをしていない少年達の声は可愛らしくもあったが、同時に雑音のような耳慣れぬ感触も含んでいたのだ。
(これ、何語だ……?)
 彼らの話すその言葉が一つとして聞き取れない。
 フェレットは焦り、ポルトガル語で彼らに呼び掛けてみたが、子供達はただ首を傾げているだけだ。
(な、何故だ。サンジョルジュじゃ、ポルトガル語が通じたのに…思わず落とし穴だ)
 子供達は相変わらず、フェレットの周囲にまとわりついている。
 言葉の通じない相手を前にして、珍獣でも眺めるように楽しげにして、そこにいる。
(困ったな)
 いきなりこの場から逃げ出すのもどうかと思うしな……と珍獣フェレットは悩んだ。
 かおるさんを探さなきゃいけないのに、こんな所で無駄な時間をかけている訳には……。
 困惑した顔でいたフェレット。
 しかし突如としてあることを思い出し、ぱっと目を見開いた。
(そうだ! かおるさんは子供達と一緒に居るってゼルダさんが言ってたんだ!)
 まさかこの子達が、そうなのか?
 フェレットは一瞬にして気力を取り戻し、子供達の顔を順々に見回してみた。
 人数は四人。
 男の子三人、女の子一人。
 年齢は……まだ十歳にも満たないようだ。
(ゼルダさんの話では、十歳は越えてるって事だったな)
 外したか、とフェレットは目に見えてがっかりした顔になる。
 子供なんて無限にいるだろうし、この子達がかおるさんの連れている子供達である確率は僅かであろう。
 だが、この子達はルアンダに来て初めて知り合った人間だ。
 ……いや、まだ知り合ったとは言えないだろうけど。
 彼らから一つずつ当たって、情報を入手していかねばならない。
 たとえ言葉が通じなくても、そうだ。僕には顔があり体があり、手と足があるのだ。
 フェレットは子供達を目の前に並ばせて、そして彼らのほうを見据えた。
 そして何をするかと言えば。
 ぴくり。
 自身の眉間に深い皺を寄らせた。
 瞳は半開きにして、口元もまたきっちりと締め、頑固そうな人間の顔を作っている。
 所謂”仏頂面”。
 フェレットがイメージするかおるの顔を、彼は作って見せたのだ。
 そして右手の指で自身の顔汚指差す。
 これを目にしたことで、僕らがこんな顔をした人を探しているということに気付いてくれないだろうかと……そんな希望を込めた仏頂面。
 だが、そんな希望は彼らからしたら笑いの種でしかなく。
「っはははっはっははは!」
 返ってきた反応……何層にも渡る笑いの声、ただそれだけ。
 子供達はフェレットの顔を見て、大笑いをし始めた。
 相当可笑しかったのだろうか、地面に転がって腹を抱えて笑っている。
(こ、このガキども)
 フェレットは腹立たしい思いをしていたが、笑い声が万国共通のものであると知り、不思議な興奮をも抱いてもいた。
 そんな興奮はしかし、今ここでは何の役に立つこともない。
 普通の顔に戻ったにも関わらず、まだ笑われている。
 どうしたものかと途方に暮れていたフェレットだったが、
「何してるの? そこで」
風の音を押し退けるような声が響いてきたのだ。
 それは此処に居る子供達の声とは違う。
 この子達の話す言語でもなく、ポルトガル語でもない。
 フェレットにも馴染みの深い、北海で長く常用していた言語、英語であった。
 もしかしてアイさん?
 フェレットはそう一瞬だけ思ったが、直ぐに思い直した。
 彼女にしては声が若過ぎる。
 変声期を過ぎたばかりの少女の声だった。
「ねぇ。その人を放してあげてよ」
 少女の声がそう言うと、纏わり付いていた子供達が直ぐに、その場から少しだけ遠ざかった。
 彼らはまだ興味津々にこちらを見ているが、フェレットの視線は別を向いている。
「助かったよ。君は……?」
 視線の先にいるその少女。
 この熱を帯びた大地に似合わない、ふうわりと柔らかな金色の髪をしていて、その雰囲気は遥か北の国の風景を想像させるものであった。
 年齢は十二、十三と言った辺り――十を少し越えた辺り、だ。
 だが、この時点ではフェレットの神経はそこまで深くを考えられず。
「お兄ちゃん、この町の人じゃないよね」
 言おうとしていたことを先に言われて、フェレットは少し遅れて頷きを返した。
「僕はスペインの人間だ。名前はフェレットって言う。君は?」
「あたし、セルマって言うの」
 少女セルマはそう言うと、フェレットに向けて満面の笑みを浮かべた。
 同じ肌色をした者に対する安心感のせいか、そこに警戒心などなく。

 一度途切れたはずの運命が再び交わろうとする瞬間。
 邂逅はやがて大いなる悲劇を招くことになると、誰もが知らぬまま。
 無情にも時は流れ、物語は進み行く。



  1. 2005/09/05(月) 02:39:43|
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