航海タイム

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第二十三章 違う風が吹く(後編)

4

 数日の間、リィは灰色の夢を見て。
 目が覚めれば、一つとしてそれは記憶に残ってはいなかった。
 ただ”夢を見た”という曖昧な記憶だけが置き去りにされていた。
「生きてる……?」
 見上げる天井には、やはり灰色があった。
 自分の目がおかしくなってしまったのかと疑ったが、違う。
 気付けばそこはもう、海の上ではなかったのだ。
 船の中でもない。
 大地の薫りが確かに感じられて、リィは改めて自らの生命がまだ保たれていることを実感するのだった。
 それでも体は満足には動かない。
 地面にただ布を被せただけのような、そんな簡素なベッドに寝かされたまま、そこから起き上がることは出来なかった。
(此処は何処なの?)
 何も無い部屋に、自分だけが居る。
 何処かの町まで辿り着くことが出来たのだろうか。
 確かに体はまだ脈打っているが、この無機質な部屋の感触は、彼女が”死”に対して抱くイメージとよく似ていた。
 しかし他に何をも考えることが出来ず、そのままイメージの横たわるようにしてさらに数十分もの時をリィは過ごした。
(元気かな、みんなは)
 思い出そうとする三つの顔。
 ぼやけて、浮かぶ姿は不鮮明だ。
 このまま彼らの顔をどんどん忘れていって……何もかも忘れてしまうのだろうか。
 この航海の間に何度も何度も繰り返し浮かべたことだ。
 解っていても、同じことばかり考えてしまう。
 思いは迷宮へと入り込んでしまい、もう一人ではそこから出ることは難しそうだった。
 しかし。
 聴力すらも低下していたのか、音はよく聞こえなかったけれど――目では解った。
 申し訳程度に張り付いているそのドアが、開かれたのだ。
 視線も殆ど動かせないまま、リィは意識をそちらへと傾けた。
 鬼が出るか蛇が出るか、気が気で無かったが、しかし幸いにもその予想は外れた。
 部屋に入ってきた人物は、リィにとって心を許すことの出来る大切な仲間であったからだ。
「船長……?」
「リズウィー……無事だったのね」
 部屋に入ってきたのは”コンスタンティア”の副官リズウィー。
 馴染みのある顔を目にして、リィは自らの心が、一瞬にして天から地まで引き戻されたかのような感覚を抱いた。
 そしてリズウィーに続いて、もう一人。
「やっと目を覚ました様だな」
 幾分か野太い声でそう口にした男。
 肌の色は黒く、その胴体もまるで自分の二倍は有りそうな程に太く、頑丈そうだ。
 その姿を目にしてようやく、リィは思い出した。
「貴方は……」
 海の上で出会い、そして私達の事を助けてくれた。
 思い出すことが出来たのは、そこまでだ。
 そもそも彼の名前はまだ知らされていない気がする。
「やっとまともに会話が出来たな。出逢ってからもう、結構な日数が経ってるのにな」
 ふふん、と得意げに笑う男を見て、この人は悪い人では無さそうだ、とリィは思った。
 別に疑って掛かった訳では無いけれど、外見だけで言えばあまり穏やかそうには見えない。
「あの、貴方のお名前は」
「俺かい?」
 男はわざわざ疑問系で訊ね返した。
 その後リィが返事するまでもなく、
「俺の名前はクロガネーゼだ」
とそう、決められたテンポに言葉を乗せるように、彼は名乗った。
「クロガネーゼ……さん?」
「ああ」
 リィはまじまじと、クロガネーゼのことを見やった。
「……どうしたんだ?」
「あ、ええと……。何処の国の方なのかなあ、と気になったんです」
 彼はずっとスペイン語で話している。
 けれど見た感じ、とてもイスパニアの出身には見えない。
 肌の色も黒いし、まるで岩石のように屈強そうな体躯をした人間を、少なくともセビリアで見かけたことは無かった。
 だが、しかし。
「ああ。俺はイスパニアだよ」
「えぇっ!」
 心の中で否定したばかりの言葉を耳にして、リィは仰天した。
(この人がフェレさんと同じ国の出身……信じられないわ。もしかしたら、今まで見たことのない国の出身じゃないかとさえ思ってたのに)
 そのまま心でぶつぶつと並び立てるリィだった。
 それはとりあえず後回しでいいことだ、と気付いたのはそれから数秒の後。
「ありがとうございました。貴方が、私達のことを助けてくれたんですよね」
 力を振り絞って、ベッドから立ち上がろうとする。
 クロガネーゼに改めて礼の言葉を口にする為に。
 しかしリズウィーが慌てて駆け寄り、再びリィをベッドに寝かせた。
「ずっと寝っぱなしだったんだ。もう体力が残ってないだろうから、起きるのはよしたほうがいい。大丈夫だ、気持ちは伝わったよ」
 クロガネーゼの太い声はしかし、優しい調べをもって響いた。
「すいません……」
 ベッドに寝そべって天井を見上げたまま、ぼそりと呟くリィ。
「それに、そこまで礼を言われるほどのことをした覚えも無いからな……」
「そんな。命を助けて頂いたんですから」
「確かにな。俺の力でお嬢さんたち全員の命を救えたんだったら、もっと誇った顔をしていたかもしれないな」
 神妙な顔になって、クロガネーゼは言った。
「え……」
 リィは表情を固めた。
 言葉の意味に気が付いたからだ。
「リズウィー」
 動かない首を強引に動かして、彼女はリィは自らの服官のことを見やる。
 何も言えず、下を向いてしまうリズウィー。
「みんな、無事なの……?」
「殆どは。しかし」
「いいの。教えて」
「……コートニー、レオニー、ヘザー、クリスティの四名が、今回の航海で……」
「そう」
 表立った悲しみを感じることは出来なかった。
 あまりに大きい悲しみが突如として目の前に現れて、その全貌を確認することが出来ずにいるのかもしれない。
 これから徐々に、体内に染み込んで来るのかも知れない。
「クロガネーゼさんが居てくれなかったら、きっとみんなを死なせてしまっていたわ。駄目な船長ね、私は……」
 体にはもう、水分が残っていないのだろうか。
 涙さえも流れなくて、リィはそんな自分のことを憎いとさえ思った。
「船長。今は気になされず、休んで下さい。貴方だって危険な状態なのですから。悲しむことは体が癒えてからでも出来ます。だから今はそのことは考えないで」
「お嬢さんの言う通りだ。今はとりあえず、自分が助かることを最優先に考えた方が良いな。でないと、残された船員達の努力をも無にすることになる」
「はい……」
 リズウィー、そしてクロガネーゼに諭されて、リィはもうこれ以上に何かを考えることをやめにした。
 考えたらきっと、また思考は闇へと沈んで行ってしまうだろうから。
「食欲は有るかい?」
 少しの沈黙の後、クロガネーゼがそう訊ねた。
 顔の割に柔らかい雰囲気を持つ人だ、とリィは思う。
「スープくらいなら」
 体調は未だに優れなかったが、しかしあの全身が軋むような痛みはもう感じなくなっていた。
 体が動かないのは病気のせいではなく、何も食べていないせいで体力が低下しているからだろう。
「スープはちょっと分からないが、温かいものなら用意出来るか。珈琲は平気かな?」
「はい。飲みたいです、珈琲」
「よし! ちょっと待ってなよ」
 クロガネーゼは言うや否や、直ぐに外へと駆け出して行った。
 その体躯のせいか、暫く足音は響き続けて、やがて聞こえなくなった。
「クロガネーゼさん……か。とても優しい方のようで良かったわ。ちょっと、顔は怖いけど。あの人に助けられなかったらどうなってたか……」
「ええ。本当にお優しい方ですよ。あの方がここまで”コンスタンティア”を牽引してくれたんですし」
 にこ、と笑ってリズウィーは言葉を重ねた。
「ただ、アクの強い方であるのは否めないですけどね」
「え? アク?」
 きょとんとするリィのほうを見ずに、リズウィーはたははと笑うのだった。

 数時間後、食事を終えて僅かにだが元気になったリィは、リズウィーとクロガネーゼに連れられて外に出ることにした。
 ここはサンティアゴという名前の町。
 決して大きな町ではなく、ものの数時間で全てを回ってしまうことが出来そうな場所だったが、それでも久々に感じた人の気配はリィの心を安らがせた。
「船長!」
 交易所に行くと、そこには”コンスタンティア”の船員達が数名いた。
 リィの姿を見つけるなり駆け寄ってくる船員達。
「船長。良かった、ご無事で……」
「みんな……」
 メアリ、ルーシー、ミア。
 三人の名前を順に呼び、リィは彼女達と抱き合って喜んだ。
「ごめんね。迷惑掛けてしまって」
「気になさらないで下さい。マラリアに侵されては、どうしようもないですわ」
「マラリア?」
 メアリの言葉に、リィは首を傾げた。
 代わりに説明したのはクロガネーゼだ。
「まだ確実にそうとは言い切れないけどな。だが、副官のお嬢さんから詳しい話を聞いて、恐らくそうだと思った」
 カリブは清潔な土地ではない。
 少なくともヨーロッパ諸国と比べれば、衛生的には底辺のレベルだろう。
 それはアフリカにしても同じことで、その土に根差したような生活の雰囲気が、ヨーロッパ出身の船乗り達には新鮮でもあった。
 しかしそれは即ち、ヨーロッパでの船旅よりも衛生に気を遣わなければ、大変な事態を巻き起こすことにも繋がる。
「カリブに来た時に、蚊が飛んでるのを見かけたんだろう? マラリアってのは、蚊が運んでくる病気だからな」
「成る程……」
 あくまで可能性の話だが、確率は低くはない。
 リィがリズウィーに視線を送ると、彼女は苦笑いをしていた。
「小さな蚊でさえもカリブの息吹を……なんて言ってましたけど、思わぬ災難でしたね」
「本当に……ね。一生忘れない、良い教訓になったと思うわ……」
「船長、大丈夫ですか?」
「うん。まだ何となく感覚が掴めないだけ。食欲も戻ってきたし……もう大丈夫だと思う」
「……良かった。本当に」
 人目もはばからず、泣き出すリズウィーだった。
 そんな健気な様子を見せられて、リィの瞳からもまた涙が伝った。
 失くしていた感情を取り戻したように思えて、リィはそれが嬉しくて、暫くの間涙を止めようとはしなかった。

「……さて、行くとするか。お嬢さん方」
「はい」
 交易所に並べられた商品の物色を一通り終え、クロガネーゼを先頭にして一行はまた歩き出した。
 マラリアは伝染病だ。他の船員に伝染らないように、病魔に侵された船員達は隔離された場所に移されて寝かされていたが、病気から回復した半数の船員は”コンスタンティア”にいる。
 思えば数日もの間、リィはちゃんと仲間達の顔を見ていなかった。
 急に彼女達に会いたくなって、皆で”コンスタンティア”の所まで向かうことにしたのだ。
「おっと、待った。その前に」
「はい?」
 クロガネーゼに呼び止められ、立ち止まる五人の女性。
「ああ。良かったら君達は先に行っててくれないか」
 と、リィ以外の船員達を先に行かせようとするクロガネーゼ。
 しかし特に疑問の言葉を口にするまでもなく、皆先に歩いて行ってしまう。
「え? え?」
 リィとクロガネーゼ、二人だけが取り残された形になり、ただただ呆気に取られるリィだった。
「あの、クロガネーゼさん。これは一体……」
「実はずっと君に渡したいと思っていた物が有ってね」
「えっ。渡したい物?」
 さっきまでと何も変わらない、優しい口調だ。
 クロガネーゼは右手を一端後ろへと隠し、その後ばっと前に差し出した。
 そこに握られているのは、一冊の厚い本。
「こ……これは?」
「名付けて”愛の詩集・太陽”」
「愛の詩集……?」
 驚いた声を放つリィ。
 ああ、とクロガネーゼは頷き、真っ直ぐに彼女のほうを見やった。
「今日この日の為に、紡いだものだ。良かったら受け取って欲しい」
「えぇ!」
 あまりに突然のことで、事態を把握し切れないリィであった。
「で、でも、今日の為にって……。私達、知り合ったのってほんの数日前なのでは……」
「いや」
 リィとは対照的に、クロガネーゼは冷静に首を横に振った。
「やがて来ると信じていた運命の日の為に、ずっと書いていたんだ。さあ、受け取ってくれ」
 台本を読み上げるかのように、流暢に科白を並べ立てる。
「は……はい」
 拒否する事も出来ず、リィはその詩集を受け取った。
 そのまま小脇に抱えようとするが、
「ああ、良かったら人前に出さないようにして欲しい。君以外の人間の目には触れさせたくないんだ」
「はぁ。分かりました」
そう言われて、慌てて荷物袋の中に詩集をしまった。
「それじゃ、俺は自分の船に戻るとする。疲弊してるのは我が船の水夫達も同じだからな。話はまた明日以降にしよう。俺の船の場所は、君の船の水夫達には伝えてあるから」
「はい。色々有難う御座いました」
 手を振りながら去って行くクロガネーゼ。
 リィも手を振り返したが、表情は未だ固まったままだ。
 そしてそのまま、先に行ってしまった仲間達の後を追う。
「あ。船長が来たわ」
 リズウィー達は少し先の場所で待っていてくれていたらしい。
 リィが到着するなり、
「あの……船長。平気でしたか?」
とそう訊ねた。
「へ、平気って何が?」
 クロガネーゼのことを気遣って、知らぬ振りを通そうとするリィだったが、しかし出来なかった。
「詩集、貰ったんですよね? 今日の為にずっと紡いでいたって言われて」
「え」
 ずばり言い当てられて、リィはまさか……と嫌な予感を抱いた。
「もしかして、リズウィー達も、貰った……の?」
「他の人には見せないでくれって言われてたんですけど、つい昨日みんなにばらしてしまって……。そうしたら、他のみんなも同じように詩集を貰っていたんです。見て下さい、これを」
 と、リズウィーは荷物袋から一冊の厚い本を取り出した。
「私が貰ったのはこれです。”愛の詩集・風”」
「私はこれ。”愛の詩集・空”」
「……”愛の詩集・花”を貰いました」
「”愛の詩集・炎”を」
 次々に荷物袋を開き、似た内容の言葉を口にする船員達。
 そこには自分のものと似た本が入っていて、頭がくらくらするリィだった。
「詩集って……そんなに有るのね。炎って……。でも、何だか私のに比べると……」
 五冊の詩集をぱらぱらと捲ってみたが、よくよく見てみるとリィが手にしている”愛の詩集・太陽”の他は、文章に手抜き感が否めなかった。
「も、もしかして船長の以外偽者……?」
「本物でも嬉しくない……」
 そう言えば、とリィは思い出す。
 数日前――正確には何時なのか思い出せないが、海の上でクロガネーゼの船と遭遇した時の一幕を。
(ちょっと不思議な……雰囲気をした人だったわ。フェレさんやかおるさん、どっちかって言うとかおるさんみたいな。……変人の匂いが)
 そして改めて、さっきリズウィーが口にした言葉の意味をも知った。
 確かにアクが強い。
 凡百の人物では無さそうだ――良くも悪くも。
「船長、優しくされたからって騙されちゃ駄目ですよ。フェレットさんの時もそうだったって聞いてますけど、情に絆され易いんですから」
「……騙されないもん」
 ようやく戻りつつあった調子がまた崩れそうになって、それからリィは頼り無い足取りで船まで歩いた。

5

 翌日、リィは朝一番にクロガネーゼの船を訪れた。
 彼に改めて、自分達の目的を告げようと。
 自分達はまだこの土地のことを殆ど知らないし、これからまた”コンスタンティア”一船で旅を続けるのは危険が多過ぎる。
 出来たら彼らと共に行動をしたい。
 欲を言えば、仲間達と合流を果たすのを彼らに手伝って貰いたいのだ。
 港の直ぐ近くまでやって来ると、そこに映る海の色はまだ暗かった。
(つい気が逸って早く来ちゃったわ。もしかしたらみんな、まだ眠ってるかしら……?)
 少しだけ足を遅くして、リィは後少しの道のりを進んでいった。
 しかし――船乗り達の朝は早かった。
 船乗りと言うか、正確には二人。
 船長クロガネーゼと、その子分ジョニー。
 遠くからこちらへと歩いてくる一人の少女を見やりながら、何やら悪巧みをしている。
「なあ、ジョニー。ここであの子の印象を良くするにはどう挨拶をすれば良いと思う?」
「ここはやっぱり、朝一番に爽やかな挨拶!でやしょう。女の人……特におしとやかな女の人ってのは、爽やかな好青年に弱いもんでやすぜ」
 悪巧みと言うほどでもない、可愛らしいやり取りだ。
「成る程な。爽やかな挨拶か」
「こう、右手を上に挙げて”おはよう、リィ!”と元気良くかませば、船長の魅力にイチコロですぜ」
「むう。さすがだな、ジョニー。よく解っている」
「そりゃもう。船長に一族郎党こき使われ……いや、働かせてもらってやすから。船長のことなら誰よりよく知ってやすよ」
「よし。お前の言う通りにやって見るとするか」
 と、リィがまだ来ていないにも関わらず、ジョニーの言う通りに右手を挙げるクロガネーゼ。
 しかしその瞬間、彼は肝臓の辺りに何かを突き入れられたかのような痛みを感じた。
「あぅっ」
 悶絶して地面に崩れ落ちるクロガネーゼ。
 何が起きたのかと振り返ると、そこにいたのは――。
「まったく、いい加減にしときなよね? クロガネーゼさん」
 両手を腰に当てて立っている女性。
 薄いラベンダー色と、花弁のようなピンク色を合わせたペチコートを身に纏っている。
 大きな瞳は少しだけ歪んでいて、それは僅かにだが彼女が怒っていることを示しているようだ。
 ちなみにクロガネーゼの肝臓に走った痛みと言うのも、先程彼女がその部位に右手を突き刺したことによるもの。
「マ、マツリさん」
 眼帯に覆われていない方の目を見開き、クロガネーゼはその女性のことを見やった。
「男の人ならそんなに細かく考えずに、体ごとぶつかっていかないと! ジョニー君も、そんなこといちいち進言しなくて良いんだからね」
「は、はぁ。マツリさんの仰るとおりでやす。本当は嫌だったんですが、どうしてもと言われて仕方なく……」
 即座に船長を裏切る、ジョニーであった。
「それにね。クロガネーゼさん」
 にこり。
 そよぐ春風のように爽やかな笑顔を浮かべながら、マツリは言った。
「この間私に”愛の詩集・海”くれたよね? あれ、私結構嬉しかったんだけどなぁ」
「ああ。気に入ってくれるとは何よりだ。俺もマツリさんにプレゼントする為に時間を掛けて書いたかいが……」
 いきなり立ち上がってニヒルに笑んでみせるクロガネーゼだった。
 だがマツリはそれに何らリアクションを返さずに、船へと歩いてきている少女の方を指差す。
 もう、随分近付いて来ている。
「あの子が右手に持っているの、何かしらねぇ?」
「右手……? はっ!」
 クロガネーゼは気付き、眼帯が千切れそうな程に表情を歪めた。
 しかしそうこうしている間にリィは何時の間にか船に到達し、そしてクロガネーゼ達の所まで着いていた。
「おはようございます、クロガネーゼさん。皆さんも」
「お……おはよう」
 中途半端に右手を挙げて、挨拶を口にするクロガネーゼ。
 黒い肌の顔からはすっかり血の気が失せている。
「あの、クロガネーゼさん。本当に……申し訳無いんですけど」
 そしてリィはいきなりに、その右手に持っていたものを差し出した。
「これ、やっぱり受け取れません! 私、離れ離れになった恋人がいるんです。それなのに他の人からプレゼントを貰うなんて不誠実だし、何よりクロガネーゼさんの誠意を踏み躙ることになってしまうから……」
「良いのよ、そもそもがあまり誠実なプレゼントじゃないんだから。ね? クロガネーゼさん」
 相変わらずの笑顔を浮かべながらマツリは言う。
「あ、ああ。いや、そんな、ことは。俺はこれでも、一冊一冊誠意を……」
 しどろもどろになっているクロガネーゼ。
「あとでカボチャ持ってきてね、クロガネーゼさん。それはそうと」
 マツリはもうこれ以上、彼を責める気はないようだった。
 こうしていては何時までも話が進まないことを知っていたからだろうか。
 笑顔を少し自然なものと変えて、マツリはリィのほうに向き直った。
「初めまして。私マツリって言うの。あなたはリィちゃんよね?」
「あ……はい、初めまして。クロガネーゼさんのお仲間さんなんですか?」
「そうなの。ちょっと……クロガネーゼさんの船と一緒に航海をしててね。本当はもっと早く話し掛けたかったんだけど、具合が悪そうだったから」
「ご迷惑掛けました。けど、何だか安心しました。こんな遠い場所で、マツリさんみたいな可愛らしい方に逢えるなんて」
「私もそう思ってるよ。異国で同じ肌の人と知り合うのって、何だか不思議な気持ちになるよねぇ」
 話し始めるや否や、リィの表情にもマツリと同じような笑顔が灯った。
 残る男二人のことなど忘れて、話題を展開させていく。
「……なぁ、ジョニー。俺達って忘れられてやしないか」
「しょうがないですぜ、船長。女の子達ってのは数が揃うとお喋りになるんでやすから」
「にしても、な。俺のほうが早くから知り合ってたのに……何だかもう、マツリさんのほうが親しくなっちゃって」
 小声でぼそぼそと会話する船長とその子分。
「それより、ですぜ。船長」
「何だ?」
「詩集……残る一冊”愛の詩集・大地”を姐さんにあげたこと……もしマツリさんにばれたら」
「しっ。声が大きいぞ、ジョニー」
 クロガネーゼは部下の口を右手で押さえ、それ以上の言葉が吐かれるのを防いだ。
 額からは冷や汗が流れている。
 ちなみに姐さんというのは、彼の船の副官を務める女性コーネリアの通称だ。
(マツリさんにバレたら――笑顔で殺される。間違い無く)
 暗い顔をしている男性二人、笑顔で会話を続ける女性二人。
 陽と陰、光と闇の二つに避けた空間は、それから一時間もの間そのままだった。

 黒と白がやがて交じり合って、そこにはまた平穏な色が戻る。
 朝早いせいもあって皆何処と無く眠そうで、そんな気分の中話し合いは静かに行われた。
「……ああ。事情はもう、君の船の水夫達から聞いてるよ。船長である君の体調が完全になったら、送り届けると言う約束もしてる」
「本当ですか?」
 リィは自らが置かれている状況を説明したが、クロガネーゼ達はもう何もかもを把握している様子だった。
「海で君達のことを助けたのはもう十日近くも前のことだ。さすがに話は聞かせて貰ってるさ」
「私達も、航海仲間が欲しいなって思ってたところだったの。ね、クロガネーゼさん」
 にこりと笑ってマツリが言葉を紡いだ。
 優しげだが基本的には無骨な印象を抱かせるクロガネーゼと、対照的だが何となく違和感の無い組み合わせの二人だ。
「リィちゃんさえ良かったら、私達もカリブに居る間中、貴方達と一緒に行動しても良いかな? 大丈夫、迷惑掛けたりはしないから」
「はいっ、勿論です!」
 歓喜の声をあげて、マツリの手を取るリィだった。
 彼女の申し出は正しく願ったり叶ったりであったのだ。
「ジャマイカに行く予定だったんだよな? 俺達は丁度ジャマイカから帰って来たばかりだから、道は覚えてる」
「丁度良かったね。リィちゃんの船のみんなが元気になったら、直ぐ向かうとしましょう」
「でも……良いんですか?」
 出逢ったばかりの二人があまりに親切なので、萎縮してしまうリィだった。
 命を助けて貰っただけでも、簡単には返せないほどの借りがあると言うのに。
「俺達、当ての無い旅をしてるだけだからな。誰かの役に立つ為なら、何処にだって行くよ」
「本当に……。有難う御座います、クロガネーゼさん」
 リィは心から感動した様子。
 両手を差し出して、自分の手よりもずっと大きいクロガネーゼの手をぎゅっと握る。
「……当然のことだ。船乗りは助け合わないとな」
 正面から見据えられて、思わず視線を逸らしてしまうクロガネーゼであった。
「船長。また下心が……」
「黙れ、ジョニー」
「イエッサ」
 部下を叱る時だけ冷たい口調になるクロガネーゼであったが、しかしリィはもう彼のことを疑いはしなかった。
 言葉を交わしてまだ二日目だけど――この人は悪い人じゃない。
 そう確信していた。
 例えばかおるさんのような、あからさまな変人。
 彼らのような人は根は素晴らしく良い人なのだと言う根拠の無い確信が、彼女の中には有った。
「けど、ジャマイカはね……。リィちゃん達が行っても、楽しめるかはちょっと解らないと思うな」
 マツリはその表情を曇らせた。
「えっ。どうしてですか?」
「あそこはね……今、他所の国の商会に支配されてるようなものだから」
 その商会のせいで居心地が悪くて、結局たった二、三日滞在しただけでジャマイカを去ったのだと、そうマツリは説明をした。
「……そう言えば、イングランドの商会がカリブで幅を利かせていると、マディラの酒場のマスターから聞かされました。やっぱり本当だったんですね」
 「うん。交易に関してもすっかりシェアを握られちゃっててねぇ。お陰で観光以外、何もすることが無くて」
「だが、リィさん達は別に交易をしに行く訳じゃないんだろう?」
 クロガネーゼに訊ねられ、リィはこくりと頷いた。
「なら、こっちからちょっかいを出さない限りは問題は無いはずだな」
「あの、クロガネーゼさん」
 今度訊ね返したのはリィの方だ。
「その商会って、名前は何て言うんですか?」
 マディラで入手した情報は不完全なものだった。
 頭の隅に引っ掛かっていた釈然としない気持ちを何とかしようと、リィはクロガネーゼにそう質問をしたのだ。
「ええと、確か」
 顔を見合わせるクロガネーゼとマツリ。
「ランチェスター商会……だったわ。確か」
 声に放ったのはマツリの方だ。
「ラン、チェスター……」
 意識せず、ぽそりと声を出すリィ。
「聞き覚えが有るの?」
「有る……ような、無いような。ちょっと判らないです」
 言葉とは違い、リィの心は何となく、その名前を覚えているような気がしていた。
 どうして覚えているのか、そしてその名前が自分にとってどんな関係であるのかは分からない。
 イングランドの商会だと言う話だし、以前倫敦にいた時に名前位は耳にしていても不思議では無いが。
 今ここで深く考える必要は無いかもしれない。
 どうせこれからその商会がいる地へと向かうのだから。
 それなのに、やけに気にしている自分がいる。
(もしかしたら)
 自分の中で、長い間失われていた何かが戻りつつあるのかもしれない。
 それは求めて止まず、けれど何処かで取り戻すことを恐れてもいる宝物――記憶。
 ランチェスター商会……私の記憶、私の過去に関係がある名前なのだろうか。
 カリブの海が、私の中にパズルのピースをばら撒いてくれた。
 いや、最初から眠っていたそれを、美しい海の色が浮き立たせてくれた?
 解らない。けれど何かが変わり行こうとしている。
 仮に記憶が戻ったとして、それでも私は今までのように仲間達と一緒に居られて、あの人を愛していられるのだろうか。
 ――いられるだろう。
 自問自答の末、リィはそう自らの心に言葉をぶつけた。
(行こう。ジャマイカに)
 不思議な話だ。
 私は今、過去を求めようとしながら未来を目指している。
 知らぬ土地、違う風の吹く大地へと、とっくに失われてしまった何かを探しに。

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  1. 2006/04/06(木) 04:07:44|
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第二十三章 違う風が吹く(前編)

1

 サントドミンゴの日は暮れて、やがてまた昇り。
 町並みは絶えず変化を続けていたが、しかし船団は姿を変えないままでそこにいた。
 帰って来ない”コンスタンティア”。
 フェレット達は寂しさを紛らわすようにして、昼間から町の見物に繰り出していた。
 だが、胸の内を欠けてしまった部分を、カリブの陽気が埋めてくれるかと思えば。
 陽気ではなく、何処と無く不穏な空気が代わりにそれを満たしていくばかり。
 アフリカの時のように使用言語が違っているなどと言うことはなく、 この町ではスペイン語でも会話をすることが可能なようだ。
 ほっと胸を撫で下ろしたフェレットであったが、これもまたアフリカの時のように、子供達が気さくに話し掛けてきてくれるということも無かった。
 それどころか街の人々は皆、一歩離れた場所からこちらを遠巻きに見つめているような、そんな感触を抱いた。
 男の子が独りで歩いているのを見かけたので、意を決して話しかけようとすれば、目が合った瞬間に逃げられてしまう。
 よそよそしい、閉鎖的な雰囲気を持った町――これが普通ということは無いだろう。
 間違い無く、自分達は歓迎されていない。
 悲しいけれどそう認めざるを得なかった。
 そしてそれを理解したなら、今度は「何故?」という疑問が付き纏う。
 その疑問はその日の間は解けず、更に一日の後。
 数人の面子で交易所に赴いた時に、氷解することとなった。
 交易所の店主は他の人々よりもさらにつっけんどんで、あからさまに敵意を示しているのが見て取れた。
 じろじろとこちらの顔を覗いてくる。
 フェレットとアイは対応に困って、顔を見合わせるしかない。
 しかしずっと正面を向いていた店主はやがて、ふっとその瞳から烈火の色を解くのだった。
「どうやらお前さん達じゃないみたいだな」
「お前さん達?」
 さらに目を見合わせるフェレット達。
「一体何のことで?」
「いやな」
 店主は話し辛そうにしていたが、躊躇いがちにだが続きを口にしてくれた。
「最近、この辺りの町で幅を利かせてるヨーロッパの連中がいるって、専らの噂でな。てっきりお前さん達のことかと思ってたんだが」
「とんでもない。僕達は数日前に来たばっかだよ。幅を利かせるも何も、他所の町の場所すらろくに知らない」
 驚いてフェレットがそう弁解をした。
「その連中っての、名前は何て言うんです? ほら、船団の名前とか」
「それがそこまでは解らなくてな」
「悪い噂だけ伝わってきてるのか。それはまた妙な……」
「違う国なんだもの。こんなものじゃないかしら?」
 アイは平然と返したが、フェレットはどうも釈然としないらしい。
「でも、これじゃおちおち滞在してられないですよ。道具を売って貰えなかったり、或いは宿を襲撃されるかも……」
「そんな。まさか」
「全く有り得ない話ではないかもしれんぞ」
 真剣な口調で言葉を挟んだのは交易所の店主。
「この間ウチに来た冒険者が、言ってたんだよ。『ヨーロッパの奴らのせいでデカイ借金抱えちまった。許せない、殺してやりてえ』ってな。決して冗談には聞こえなかったぜ。同じように思っている奴は大勢居るだろう、とも言ってた」
「うへ、冗談じゃないよ!」
 現実味の有る単語を聞かされて、二人はあっと言う間に顔面蒼白になった。
「ど、どうしようアイさん。今日にでも直ぐここを出た方が良いんじゃ……」
「そう簡単にはいかないわ。移動を重ねては、リィちゃんと合流するのも難しくなるだろうし。何とか自分達の身の潔白を証明する手段は無いかしら」
「うーん……」
 黙り込んで考えるフェレットとアイ。
 そうしている間にも、数人の人間が彼らのことをじろじろ覗いては去って行く。
 困ったもんだ、と交易所の店主もまた溜息をつくのだった。
「そうだ。お前さん達、船団の名前は何なんだ?」
 暫しの沈黙の後、店主はそんなことを訊ねた。
「教えてくれれば、俺がお前らは悪くないってことを広めといてやるよ。これでもこの町じゃ顔が広いほうなんでな」
「それは助かる! お願いします!」
 縋りつくようにして言うフェレットだった。
 しかし、肝心な問題がひとつ。
「船団名……何でしたっけ、アイさん」
「未決定のままね。まだ」
 かつて何度か決めようとして、その度散々揉めた末に結局決定には至らず。
 この船団は未だ”名前のない船団”のままであった。
「今、暫定的に決めちゃいます……?」
「の方が良いかもしれないわね。あの人に相談したら、また揉めるのは目に見えてるから」
 アイの言葉に強く頷くフェレットだった。
 あの人と言うだけでその名を口にしてはいないが、それは最早言うまでもないということだ。
 そしてフェレットは考えた。
 一時的な船団名を今ここで強引に決めてしまおうと。
 しかし気ばかり焦って決まらない。
 もしかしたらこうしている間にも、宿のほうにいる仲間が襲われているかもしれない。
 船が沈められているかもしれない。
 そんなことを考えてしまって、纏まらない。
(オヤ、オヤカタムーンズとか、良いんじゃないだろうか……? いや、駄目だ。それは確か最初にあの人が言った名前のはず。どうして僕がその名前に魅力を感じているんだ。馬鹿な話だ。もっと僕ならではのセンス溢れる名前を思い付ける筈だ。――そうだ。ムーンズの部分を”旅団”に変更したら中々なんじゃないか? あれ、でもそれって何処かで聞いた覚えが……)
 続く逡巡。
 両手で顔を覆って名前を捻り出そうとしている青年を他所に、アイは今のうちにこっそりと、まともな船団名を店主に告げてしまおうかとも考えていた。
 だが、そこに通り掛った男が一人。
 アイは驚いて声を出そうとしたが、男の右手がそれを制止する。
 フェレットはまだ、顔面に両手を被せたままだ。
「アー、店主よ」
 つかつかと近付いていき、その男は棒読み口調で続けた。
「うち”潮風ロマンス船団”だから。よろしく」
「シオカゼロマンスセンダンン!?」
 言葉を聞いた瞬間、フェレットはばっと顔をあげた。
 そこにいるのは言うまでも無い、あの男――かおる。
 既に口を挟むタイミングは逃している。
「ふうん、聞き慣れない変な名前だな。その分伝わりやすいかもしれないから、丁度良いな。解った、伝えといてやるよ。”潮風ロマンス船団”の奴らはまともな奴等だってな」
「恩に着るよ、マシター」
 まるでさっきから会話していたかのように、やけに慣れたやり取りをする二人。
 かくしてここに”潮風ロマンス船団”が新たに誕生したのだった。
(……名前からしてそもそもまともじゃないと思うんだけど。まぁでも、なんだかうちらしいかもね)
 珍妙なネーミングだとアイは思ったが、それでも特に不満は無いようだった。
「――で、フェレさんは良いのかしら?」
 わなわなと震えている青年に訊ねたが、
「不覚にも、結構格好良いと思ってしまった……。何時の間に僕の頭に黴菌が入り込んでしまったんだ……。眼鏡をかけた胡散臭い雑菌が……」
毒付きながらも案外気に入っているらしいフェレットであった。
「で、そんなイカス名前が決まった所だが。フェレッチ君」
「は?」
 自分で言うなよと思いつつ、耳を傾けるフェレット。
 かおるは別に、ここまで船団名を告げに来た訳では無かった。
「”フォスベリー”の水夫が一人、襲撃に遭ったらしい。今、宿で寝かされてる」
「何だって!」
 かおるが本来の用事を口にし終えた瞬間、フェレットはもう走り出していた。
 楽しい船旅になるはずだった、カリブへの航海。
 しかし今のところは苦難の連続である。

2

「はい。ユーリ君、もう平気よねえー? 良かったわねぇ、軽症で済んで。消毒はしておいたけれど、また具合悪くなったら言ってね?」
 フェレット達が部屋に入るなり響いたのは、間延びした特徴の有る声。
「それに栄養はちゃんと取っておいてね。軽い怪我でもねえ、体が不健康だと治りも遅くなっちゃうんだからねえ」
 それはセビリアに立ち寄った際に新たに雇い入れた船員ホルフィーナの声だ。
 彼女は”フォスベリー”に軍医として乗り込んでおり、医に関する知識を誰よりも多く持っている。
 元々”フォスベリー”には女性の数がたった一人、副官を務めるロッティーナしかいなかった。
 女性一人では色々気を遣わせてしまうだろうと思って、彼女が少しでも楽になるようにと、新たにもう一人の女性副官を雇い入れたのだ。
 しかしフェレットの思惑は成功したとは言い難かった。
 おっとりした性格の軍医ホルフィーナと、お世辞にも気が長いとは言い難いロッティーナ。
 フェレットは未だに、この二人が仕事以外の所で多く言葉を交わしている光景を見たことがない。
 今もこの場に二人ともいるが、はきはきとした様子で看護をしているホルフィーナに比べ、ロッティーナは部屋の隅にただ立っているだけだ。
 心なしか、ぶすっとした表情をしているが、今は誰もそちらを気にしてはいない。
「ホルフィーナさん、ありがとう。ロッティも。――で、ユーリ。一体何が有ったのか、詳しく教えてくれ」
 フェレットは、ベッドに眠っている若き水夫に声を掛けた。
 そこには普段の軽い調子は感じられない。
 ユーリはちゃんと記憶を保っているようだったが、頭には包帯が巻かれており、頬の部分に大きな青痣が出来ていた。
「襲撃に遭ったと聞いてるが、もしここの住民にそんなことをされたんだったらこれは由々しき事態だ。放ってはおけない」
 しかしユーリは答えなかった。
 フェレットのほうから視線を逸らしている。
「襲撃……と言う程のものではないんです」
 代わりに答えたのはロッティーナだった。
「危害を加えられたのは事実ですわ。けど、それはちょっとした行き違いによるものです」
「行き違い?」
「この辺りの砂浜は、所々にヤシの木が生えているでしょう。なっている実をユーリが取ろうとして、木に登っていたんです。それが住民の子供達には、町を荒らされているように感じたみたいで……」
「それで暴行を……?」
「いえ。石を一つ投げられただけです。それも当たりはしませんでした」
「……じゃあ、なんでそんな怪我を」
「驚いて、木から落ちてしまったんです」
 僅かに声を小さくさせるロッティーナだった。
「申し訳有りません。私が付いていながらこんな事になってしまって」
 そう言って彼女は頭を下げた。
 しかしフェレット達が彼女のことを責める理由など一つも無く。
「いや……それ位ならかわいいもんだ。ほっとしたよ」
 胸を撫で下ろしながらフェレットは言った。
「石を投げるのはやり過ぎのような気もするけど、子供同士って結構喧嘩とかするもんな。襲撃って聞いたから、もっと酷いことになってるのかと心配してたんだ」
「子供じゃないですよ、おれ」
「確かに船乗りをやってる以上、子供だなんて言っちゃいけないか。けど」
 ベッドから響いた消え入りそうな声に、フェレットは船の長としての言葉を返した。
「知らない土地であんまり目立つ行為をするのは良くない。今回は特に事情も有る。人がいる場所でヤシの木に登ったりするのは、あまり大人らしい行動とは言えないな」
「フェレさんだって酔っ払って裸になったりしたくせに……」
「うるさいうるさい!」
 アイに痛い所を突かれて顔を赤らめるフェレットであった。
「とにかく、当分目立つ行動は慎んでもらう。わかったな、ユーリ」
「……はい」
 不服そうにしているユーリを見て、フェレットは右手で髪を弄くりながら言葉を続ける。
「交易所の店主から聞いたんだ。僕らはこの町の人々にあまり歓迎されてないって。何でも僕らとは別のヨーロッパの船団がカリブで横暴働いてるらしくてね、僕らはそいつらと間違われてるんだと。店主が皆に誤解だってことを伝えてくれるとは言ってたけど、そう直ぐには無理だろうし」
「ヨーロッパの……?」
 ロッティーナは表情を固めて呟いた。
「ああ。お陰で相当恨まれてるらしい。だからユーリが襲われたって聞いて、僕らに恨みを抱いてる連中にやられたのかと思ったんだ。石を投げてきた子供達にしても、僕らに決して良い感情は抱いてないだろう」
「しかし、私達の他にもヨーロッパの人間が来ていたんですね。この町には私達しかいないようですけど」
「その悪評のせいで近付かなくなってるのかもな。何にしろ、厄介な事になったよ」
「ねえ? フェレさん」
 口を挟んだのはアイだ。
「ラスパルマスの酒場のマスターが言っていたわ。カリブで幅を利かせているイングランドの商会がいるって。もしかしたら交易所の店主が言っていたのも、その商会のことなんじゃないかしら」
「ああ……そんなこと、言ってた気がするな。何でしたっけ、名前」
「何て言ってたかしらね。マスターもよく覚えてなかったみたいだけど」
「――確か」
 右手を顎に当て、考え込むような姿勢を取っているかおる。
「ナンペスチャー商会と言っていた。私は酒を飲んでいなかったからな。よく覚えとるよ」
「そう言えばそんな名前でしたね。うーん、ナンペスチャーね……聞いたことの無い名前だな。後でカリタスさん辺りにでも訊いてみるか」
 と、僅かの間信じたフェレットであった。
 しかし続くかおるの言葉が、そこから信憑性を取り去っていく。
「いや、確かナムプラー商会だった気もした。ナム? ナンデスカー商会だったかな。ケムンパス商会?」
「……ま、良いでしょう。とりあえず名前は不明ってことで」
 これから自分達はカリブ海を駆け巡ることになるのだ。
 何れ関わる機会もあるだろう。出来れば関わりたくないが……。
「問題は今後のことよね」
 皆が思っていたことを、アイが代弁する。
「リスボンの依頼人の話によると、ドラゴンのことがが話題になっているのは此処じゃなくて、ジャマイカと言う名前の町らしいわ。依頼達成の為にはずっと此処に居ちゃいけない」
「何処なんですかね、町の場所は」
「交易所の店主に訊いたら教えてくれるんじゃないかしら?」
「折角親しくなったことですしね。親しくて言っても、ちょっとだけど……」
 基本的に相槌を打つのはフェレットだけで、かおるや他の面々は黙って話を聞いている。
 かおるに関して言えば、常にボケるタイミングを見計らっているのかもしれないが。
「仮にジャマイカが場所が判っても、リィちゃんたちが行方不明になっている以上、下手に動いたらすれ違いになってしまう可能性も有るわ」
 これが例えば北海、地中海であるならばまた話は別だ。
 しかしこのカリブ海がどんな場所なのか、幾つの町がここに有るのか。
 何も判らない以上、一つ一つの行動に慎重にならなければならない。
「リィ達とはぐれた場所からここはそう遠くない。もしかしたらまだこの辺りにいるかもしれない」
 リィが船長を務める船”コンスタンティア”は、海戦の最中に襲った嵐に巻き込まれ、行方が分からなくなった。
 船旅に嵐はつきものだ。
 この世界が始まってから今までに、何千、何万隻もの船が強い風に蹂躙され、沈んでいったことだろう。
 それでも、フェレットは”コンスタンティア”の船員の――リィの生存を疑っていなかった。
 いや、心の奥底では不安もあったが、それでもそのことを口に出したりはしない。
 そうしたら不安に押し潰されてしまいそうになるのが目に見えているから。
「あの……」
 数秒考えてから、フェレットは言葉を場に刻んだ。
「船団を半分に分けるのはどうでしょう?片方はここでリィ達の行方を探ってもらって、もう片方はジャマイカに向かう……」
「そう……ね。そうするしか無いかもしれないわね」
 アイの返事は心からの賛同という感じではなかった。
 フェレット自身も含めて皆そうだろう。
 何も知らないこの場所で、ばらばらに行動することは危険が大き過ぎる。
 ”コンスタンティア”だけならまだしも、他の船まではぐれて合流できなくなってしまったら、もう取り返しが付かない。
 しかし、それでも。
「僕は行きますよ、ジャマイカに。このままここで待っているなんて身が保たないよ」
 決意を込めて呟くフェレット。
 駄目だと言われても聞かないだろうし、誰も止めたりはしない。
「行ぐか。ドラゴンを見たいしね」
 と、かおるも続いて名乗りを上げた。
「ドラゴンか。子供だって言うけれど、実際にどんなものなのか私も見てみたいな」
 アイもまた、ここに残るつもりは無いようだった。
 ”フォスベリー”、”永久機関”、”シャルトリューズ”の三隻がジャマイカに向かうとなると――現在、船団に残された船はあと三隻。
「カリタスさん達に残ってもらうとするか……まあ、何も丁度半数に分けなくても良いかもしれないけど」
「そうね、幾らなんでも勝手に決めちゃまずいわよ。話し合わないと」
「ええ」
 アイの言葉に首を頷かせるフェレット。
 それでも、
「でも僕は絶対に行きますよ、ジャマイカまで。誰が何と言おうとも」
と、彼の決意は固いようだった。
「それじゃあまた船旅が始まるんですね! 私も色々頑張らないとー!」
「うん。期待してるよ、ホルフィーナさん」
 元気に声を上げる自らの船の水夫に、フェレットは優しい笑いを返すのだった。
「ユーリも。また忙しくなるから、早々に怪我を治しておけよ?」
 続けて柔らかな声で言うも、返事は来ない。
 拗ねてしまっているのだろうかとベッドのほうを見やると、彼はもうすっかり寝息を立ててしまっていた。
「疲れていたんですよ、この子。今日一日、色々なことが有りましたからねぇ……」
「確かに。初の航海で異国の地を踏んでいるんだ。ストレスも半端じゃないだろうからな」
 ホルフィーナとフェレット、揃って長い息を吐く。
 そうした後、フェレットはくるりと踵を返した。
 爪先が指しているのは部屋のドアだ。
「ちょっと、また交易所まで行って来るよ。ジャマイカの場所も知りたいし、それに」
「それに?」
 アイが訊ねる。
「……ヤシの実、船に積んどこうと思ってね。交易所の店主ならそれくらいどうとでもなるだろ」
 口にしながら、フェレットは部屋を出て行った。
「船長。私も行きますわ」
「あ、私も行こうか?」
 追おうとするロッティーナに声を掛けたのはアイだ。
「いえ、皆さんは休んでらして下さい。大丈夫、直ぐに戻りますから」
 ロッティーナはそう言って、結局二人だけで出て行ってしまった。
「……明日から忙しくなるものね。私達も、早めに休んでおくとしますか……」
 微妙な空気の中アイが口にするも、聞こえたか聞こえていないのか、かおるは無言で一つのビンを差し出す。
「かおるさん、何これ?」
「ヤシ酒」
「……ほお」
 そしてその妙な空間もまた、三十分後には酒気に満たされることになるのだった。

「ねえ、船長。ユーリのこと」
「うん」
「許してあげて下さいね。あの子、ヤシの実を家族にお土産として持って行こうとしただけなんです。決して悪気が有った訳じゃ無いですから……」
 宿から交易所までは幾らかの距離がある。
 夕暮れに彩られた砂浜を歩きながら、二人は言葉を交わしていた。
「ああ、別に怒ってる訳じゃないよ。その証拠に今だって……な? 怒ってたら、わざわざヤシを買いになんか行かないさ」
「なら良いんですが」
「にしても、ロッティ」
「何です?」
「んや……やっぱいいや」
 何だか最近丸くなったよな、とそう言おうとしたフェレットだったが、慌てて口を噤むのだった。
 隠し事をされたと感じたようで、ロッティーナは口をへの字にしている。
「夕陽が……綺麗だなあ、と思って」
「嘘つかないで下さい。そんなことを言おうとしたんじゃないでしょう?」
 自分でも白々しいなと思っていたが、やはり一瞬で見抜かれる。
 こうなればついでとばかりに、フェレットはずっと気になっていたことを訊ねた。
「ホルフィーナさんのことは、嫌いかい?」
 あまり考えずに口にしたせいか、質問は単刀直入なものになってしまった。
 ロッティーナは一瞬顔をしかめたが、言葉を返さない。
 そうして数秒の時が流れた。
 空気に耐え切れなくなったのはフェレットの方だ。
「ほら……あの人を雇ったのはカリブに来る前、ユーリよりも先だろ。なのに君ら、あんまり喋ってるのを見たこと無いから……さ。やっぱり心配になるんだよ。船長としては」
「別に……」
 視線を逸らしたままで、ロッティーナもようやく口を開いた。
 吐き出す息のように小さな声だった。
「ホルフィーナさんのことが嫌いなのではありません。あの方の医療技術は確かですし、皆に気を遣ってくださる優しい方です。ただ……」
「ただ?」
 ロッティーナは口篭っている様子だ。
 フェレットは無言のままでいて、二人はそのまま砂浜を少し歩く。
「……私が、一人で副官をしている間でも、別に”フォスベリー”の業務は滞りなくこなしていましたわ。わざわざ、もう一人副官を雇う必要は無かったのでは……」
「いや、別にさ。ロッティ」
「私一人ではご不満でしたか?」
 ずっとそっぽを向いていたロッティーナの視線が、ぎろりとフェレットの顔に向けられた。
 フェレットは驚き、思わず足を止めてしまう。
「ふま、不満なんて事は……滅相も御座いません。僕は別に、君だけじゃ不足だなんて思ったことはいっぺんだって無いよ。けど、君だけに任せっきりにするのはやっぱり悪いかなあと思ってさ」
「これまでずっと、私一人でやって来たではありませんか!」
 何故僕は怒られているのだろう。
 不思議に思いつつ、何とかフォローをしようとする”フォスベリー”の船長。
「そうだけど……やっぱり君は女性だし、何から何まで負担を掛けてしまうのは……」
「冒険者として船に乗り込んでいる限り、女性であることは捨てていますわ。そんなこと、船長が心配をなされる必要は有りません」
「そうなんですけどね……」
 たははと笑いながら、フェレットもまた視線を逸らすのであった。
 溜息をつこうとして、すんでのところで抑える。
 もし彼女に気付かれたら、大変なことになりそうだ。
(……相変わらず”女心とヴェネツィアの空”ってヤツだな。女心は移ろいやすいというか、訳が分からないと言うか。気を利かせてホルフィーナさんを雇い入れたつもりだったのに、とんだ逆効果だったか)
 わざわざ自らが生み出した格言までも頭に浮かべながら、複雑な表情をしているフェレットだった。
 そして彼が思っていたことは確かに正しかった。
 ロッティーナもまた表面では怒りの色を浮かべたままでいながら、内心ではフェレットが自分のことを心配してくれていたことを嬉しく思ってもいたのだ。
 こんな小さなことで怒っている自分。
 後で冷静になって考えしてみれば、何と恥ずかしいことをしたのだろう……とそう思うのではないか。
 そうと知りつつも、それでも彼女は自らの想いを抑えられなかった。
 ――そうだ、嫉妬しているのだ。
 私はホルフィーナさんに嫉妬している。
 あの人のことが嫌いな訳ではないのに、好意的に接することが出来ないでいる。
 今までは、少なくとも船の上ではただ一人、私が誰よりも長く船長と一緒に居られたのに……あの人のせいでそんな幸せな空間が揺らいでいるから。
 そして、船から陸に下りれば――船長には、誰よりも大好きな人がいる。
 私が何をしても、もうどうにもならない事実。
(今は……リィさんは此処には居ない。けど)
 居ないけれど。
 愛する人を失ったまま、悲しい顔をしたままの船長を見ているのは辛いんだ。
「ねえ、船長」
「ん……」
 少し前とはまるで違う穏やかな声を受け、フェレットは戸惑いを浮かべる。
「リィさん、早く見つかると良いですね」
「うん?……そうだな」
 一分少々の間に、彼女の心が一体幾つの色を抱いたか。
 知る由も無く、ただただ頷くフェレットであった。

3

 波に揺られている時間はまるで無限、永久に終わることが無いのだろうかと思う程に長い。
 陸沿いを北に進んでも、一向に町が見えてくる気配は無かった。
 このままずっと同じ光景が続く? 続いたとしたら――それは即ち死の光景へと繋がる。
 ”コンスタンティア”の船員はもう誰もが、精神的にも肉体的にも極限まで疲弊し切っていた。
 船内には疫病が蔓延し、食欲を保っていられた船員は誰一人としていない。
 中には……命を落とした船員もいた。
 病魔と闘いながらの航行では、普段通りの速度が出るはずもなく。
 誰もが皆、思い始めていた。
 私達はここで死ぬのだと。景色はもうこれ以上続きはしないのだと。
「船長!」
 船室からゆらりと姿を現したのは、息も絶え絶えになっている一人の少女。
 まともに立つ事も出来なくなっているようで、船室の壁に寄り掛かっている。
 副官リズウィーは驚き、彼女のほうへと駆け寄った。
「船長、出て来ては駄目です! こっちの業務は私達だけでやれますから!」
「ううん……」
 その少女こそがこの船の長、リィ。
 海の方へ行こうと、彼女は寄り掛かっている壁から手を離した。
 しかし両足にはもう力が残されておらず、地面に崩れ落ちてしまう。
「船長!」
 リズウィーは倒れそうになったリィのことを抱きかかえた。
「リズウィー……」
「大丈夫……聞こえております、船長。無理をなさらないで下さい」
 無理でも自分のほうに視線を向けようとするリィを見て、リズウィーは居た堪れなくなった。
「メアリから……報告を、受けたわ。陸はもう、続いていないって」
「……はい」
 出来れば、船長には伝えないで欲しかった。
 リズウィーはそう思った。
 彼女にもうこれ以上、絶望感を与えたくなかったのだ。
 カリブに辿り着いて不審船に襲われた時、船団は丁度陸の端に差し掛かっていたのだ。
 嵐が起きて他の船とはぐれてしまい、”コンスタンティア”は横に伸びたその陸地の北側に沿って進むことにした。
 何時かは町も見えるだろう、その町で仲間達が待ってくれているだろうと一縷の望みを抱きながら。
 だが、それは結果として叶えられなかった。
 リィ達にはこの時点で知る由も無かったが、その島の名はエスパニョーラ島と言う。
 ずっと西へ伸びていたその陸地は途切れ、そこからはまた海だけが広がっていた。
 陸を離れ、再び広がる青へと繰り出すか。
 それともこのまま陸に沿って、今度は南へと向かうか。
 絶望に苛まれた中で、二つの選択肢の中から一つを選び取らなければならなかった。
 しかし決断にそう時間は掛からなかった。
 四方が全て海になってしまえば、目印も何も無くなる。
 そうなればもう、仲間との合流を果たすのは奇跡にも近い確率になってしまうだろう。
(フェレさんやかおるさん達も……きっと同じように考える筈)
 このまま陸に沿って進むしかない。
 陸の北側には町は無かったが、南側にはきっと有る。
 フェレット達もそこに居る筈だ。
 そう信じて進むしかない。
(大丈夫……私はこんなところじゃ、死なない)
 一歩一歩進む度、体は音を立てて軋んだ。
 それでもリィは強靭な意志を保ち続けたままでいた。
 折角、何かを思い出しそうだと言うのに、こんな中途半端なままで終われないと。
 そして自らの愛する人の顔をもう一度見るまでは死ねないと。
 二つの意思が、波のように繰り返し迫ってくる痛みを、命まで達すことの無いように抑えていた。
 時間が経って、夜が訪れても。
 リィは船室に戻ろうとしなかった。
 仲間に支えてもらいながらずっと、暗くなった海を見ていた。
 ベッドに寝そべってただ天井だけを見上げているより、潮風に当たりながら見慣れた光景を眺めていた方が、身も心も休まる気がしたのだ。
 黒一色のその光景に、何時かは何よりも見慣れた船団の姿が現れるのではないかと思っていられた。

 数時間して――暗黒の世界に眩い光が割り込んできたその時に、海からもまた迫り来る船の姿があった。
 船の数は二隻。距離は遠く、まだはっきりと確認は出来ない。
(もしかして、フェレさん達の……?)
 心に抱いてみて、それは自分の願望なのだとリィは思った。
 この広い海で、彼ら以外にも船乗りは無数にいるだろう。海賊船である可能性も考えられる。
「船長」
 直ぐ傍にいるリズウィーが話し掛ける。
「あの二隻の船に、助けを求めましょう。もしかしたらちゃんとした船医を乗せているかもしれません」
「けど、もし海賊だったら」
「その時は、私達の命運はここで尽きたのだと思いましょう」
 俯きがちながらも、しっかりとした口調でリズウィーは言った。
 他の水夫達も頷いている。
「そう……ね。このままじゃどのみち、皆助からないかもしれないものね」
 リィは操舵手に、二隻の船に接弦するように指示した。
 仮に逃げようとしても、今の状態ではろくに速度も出せない。
 海賊船だったなら、戦っても逃げても結果は同じだろう。
 しかし、その二隻の船の対応を見る限り、襲い掛かってくる気は無いように見えた。
 船同士がぶつからないようにと迂回して進もうとしたのだ。
 ”コンスタンティア”はその二隻を追うようにして進む。
 こちらに戦闘の意思は無いと、白旗を掲げているが、時刻はまだ陽が昇りかけた早朝。
 相当接近しないと見えないだろう。
 それでも、二隻の船はやがて動きを止めた。
「船長っ、もしかして助かるかもしれませんね!」
 歓喜の声をあげる”コンスタンティア”の水夫達。
 やがて、いよいよ二隻のうち片方の船まで到達し。
 この海にいる三隻の船、全てが動きを止めた。
 こちらが対応するよりも先に、向こうから”コンスタンティア”へと小さな桟橋が架けられた。
 そこから人影が一つ、ゆっくりと歩いてくる。
 リィ達は皆、緊張の眼差しをしてそれを見やった。
 まだ空は灰色だったが――人影が桟橋を半分程渡ってきたところで、突如としてパァッと陽が射すのだった。
 瞬間、何もかもが白日の下に晒される。
 そこにいたのは、一人の男。
 銃を持ち、それをこちらに向けている。
「お前ら! 一体何の用だ?」
 警戒されるのは当然のこと。
 だが”コンスタンティア”の水夫達は皆、男のその容貌を見て愕然とした。
「船長……」
 肩に触れたリズウィーの右手は、震えていた。
「ここまでかもしれません。私達」
「……うん」
 銀の甲冑に身を包んだその男の背丈は、自分よりも二倍近くは有りそうだ。
 そしてその浅黒い肌は醸し出す獣の香りを更に増している。
 左目には、眼帯が付けられていた。
 間違い無く海賊と――いや、国軍と剣を交えた際に負った怪我だろう。
 「間違い無い」と言い切る根拠は無かったが、船員皆同じ事を思った。
 間違い無く、海賊。
 殺される。
 絶望の単語ばかりが彼女達の脳裏を過ぎる。
「答えろ。何の用だ!」
 その声はスペイン語で吐かれたものだった。
 どう見ても、イスパニアの出身には見えないのに?
 そう疑問を抱いても、口にする余裕は無かった。
 大男は一歩一歩、大きな音を立てながら近付いてくる。
 足音は重く、まるで桟橋を突き破ってしまいそうな程。
「わ、私達は……!」
 どうせここで死ぬのなら、せめて抵抗をしてから死のうと。
 リズウィーはやけくそになって叫んだ。
「船員が皆疫病に侵されてしまって、貴方達に助けて貰いたいんです! お願いします、金品で良ければお礼は用意出来ますから……」
「君達、女性かい?」
「え……は、はい」
 リズウィーはどきりとした。
 突如として、男の声が優しいものに変わったのだ。
 それこそ、あの無骨な姿の人間が吐いたものとは思えない程に。
「お礼はいらない」
 また、優しい声。
 訳が分からなくなり、混乱する”コンスタンティア”の船員達。
 水夫達は皆船長のほうを見やり、リィはリィでただあたふたとしている。
「君達のその美しい瞳の輝きを見れただけで十分だ」
 男はここぞとばかりに決め台詞を放った。
 が、その言葉に気の利いた反応を返すには皆疲れ過ぎていたし、ウィットに富んでもいなかった。
 思ったより反応が薄い、と残念そうな顔になる、浅黒い肌を持った男。
 そうした後、自らの船の方へと振り返る。
「コーネリア。ジョニーもだ! うちの船医を呼んで来てくれ! それと栄養のつく食べ物もたっぷりとだ。今直ぐにな!」
 おそらく船の水夫? にそう指示を送ると、男はもう一度”コンスタンティア”のほうを向いた。
 いや、今度はその視線はリィだけを見ている。
「と言う訳だ。安心してくれ、お嬢さん」
 男はにかり、と擬音が響きそうな程に爽やかに笑った。
 覗かせた白い歯はまるで、宵闇を切り裂く朝陽のよう。
(わっ。どうして私……?)
 男の視線にやられたのか、リィはどさりと地面に崩れ落ちた。
「た、助かったんでしょうか。私達……」
 呆気に取られたままでリズウィーが言う。
「ちょっと……自信無いわ」
 リィもまた、そう返すしか出来なかった。
 黒、白。
 この空間にある幾つもの色。
 その全てが入り混じって、混乱の渦と化していた。



  1. 2006/03/23(木) 13:59:56|
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第二十二章 永い夢(後編)

4

 嵐の最中、”コンスタンティア”は陸にも降りることが出来ず、海中に取り残されていた。
 ”フォスベリー”を始めとした船達がまとまって移動していったのは、辛うじて確認出来てはいた。
 しかし運悪く、交戦していた敵船に阻まれてしまい、それを追うことが出来なかった。
 とは言え向こうは向こうで、これ以上戦闘を続けるつもりはないらしい。
 嵐の中で戦いを続けることは自殺行為にも等しいとわかっているのだろう。
 暗闇に包まれた視界の中、その船団は何処かへと去って行った。
 この海域から姿を消したのは敵の船だけでなく、”コンスタンティア”を除く全ての船だ。
 まるで闇の中に落とされてしまったかのように、辺りには何も見えない。
 方向感覚さえも狂わされてしまい、仲間の向かった先はもう完全に見失ってしまった。
(フェレさん達は、何処へ向かったのかしら?)
 落ち続ける、鉛色の粒。
 重々しいその調べは、何もかもをも押し潰してしまいそうな程。
 とりあえず嵐が静まるまで、帆をたたんでこの場で待つべきか。
 しかしもう食料の残りも心許なくなっている。
 嵐が直ぐに止むとは言い切れないし、ゆっくりでも町を探して進むべきか。
 それでも、今直ぐには進めないだろう。
 下手に動けば帆が千切れてしまいそうな程に、風は激しい。
 思えば今までの航海で、たった一隻残されたこどなど無かった。
 ”フォスベリー”が、”シャルトリューズ”が何時だって傍にいたのだ。
 リィは今再び、長く味わっていなかった孤独感に苛まれていた。
 長く味わっていなかった?
 この空虚さをそう表現した自らの心に、リィは疑問を抱いた。
 違う……違うはずだ。
(フェレさん達と出会ってから、自分のことを孤独だなんて思ったことはなかったはず)
 それなのに……覚えがある。
 長い時間雨に打たれ続けた後のような、凍えてしまいそうなこの気持ちに。
 なら――彼らと出会う、その前の記憶か?
 震えて止まないその肩を、リィは自らの両手で強く握った。
(大体……失礼な話だわ。フェレさん達がいなくても、こんなにたくさんの仲間がこの船にはいるのに)
 そう、このたくさんの仲間達が乗る船の長は私。
 今私がしっかりしなくて、誰が正しい道を示すことが出来ると言うのだ。
「帆を畳んだまま、嵐が静まるまでここで待ちましょう」
 リィはそう指示を送った。
 食料が減ってきているとは言え、まだ数日分はある。
 嵐は幾ら長引いても一、二日だろうし、危険が去った後でゆっくりと陸の探索をすれば良い。
 フェレット達も陸に沿って進んでいるのはまず間違いないのだから、陸の探索は同時に彼らの行方を追うことにも繋がる。
 そのリィの判断に、反対意見を口にするものは一人としていなかった。
 決して間違った判断ではなかったのだ。
 しかしそこに一つの偶然が重なって――。

5

 嵐が収まったのはそれから二日後のことであった。
 ”コンスタンティア”の副官を務める女性、リズウィー。
 彼女が目を覚まし、甲板へ向かうと――異変はそこに、目に見えて現れていた。
 水夫達は交代で休みを取りながら航行をしているのだが、甲板には数えられるだけの人数しかいなかった。
 二十人に満たない数だ。
 これではぎりぎり船を動かせはしても、極端に速度が落ちてしまう。
「どうしたの? 他のみんなは船室に行っているの?」
 付近に居たメレディアと言う名の船員に訊ねる。
 彼女は倫敦で一緒にこの船団に加わった、同期の仲間だ。
「リズウィー! あなたは平気なの!?」
 大きな声を返されて、リズウィーは半開きだった瞳を思わず見開いた。
「平気って、何が?」
「身体の具合は何ともないのっ」
 重ねて疑問系の響きを持った言葉。
「何ともって……」
 リズウィーは両手で、自らの身体にぺたぺたと触れてみた。
「別に何も?」
 きょとんとした顔で言う。
「良かった」
 メレディアは本当に心から安心したようで、リズウィーの両肩にその両手を触れさせると、ふうっと長い息を吐いた。
「大変なことになってるのよ……。みんな、急に熱を出して、倒れちゃって……」
「えっ」
 本来の居場所に皆がいないのはその為か。
 のほほんとしていたリズウィーの顔は、一瞬にして不安に侵食された。
「メレディは平気なの?」
「今のところは。けど、わからないわ」
「わからない?」
「だって、いきなりみんな倒れたのよ。伝染病の類かもしれない。だとしたら……」
「伝染病……」
 その言葉を聞き、リズウィーは身の毛を弥立たせた。
 たった一隻の船の中で、病人を隔離することは難しいだろう。
 このまま病気が皆に感染していき、そうして――。
 最悪の光景が脳裏に浮かんで、リズウィーは思わずつぶらなその瞳を閉じてしまう。
「船長は……船長は何処に居るの?」
「自分の部屋で眠ってるわ」
 まさか船長もっ?
 リズウィーはそう声を上げようとした。
 しかしそうする前に、メレディア?はこくりと頷く。
「船長が一番、症状が酷いの。ずっと寒気がしているみたいで……。何を食べても吐き出してしまって」
 平静を保っていた声が少しずつ、震えを帯びていく。
 それは症状の深刻さを物語っていた。
「私、行って来る!」
 即座に振り返って、リズウィーは船長室へと走って行こうとする。
「駄目! 今行ってもどうにもならないわ!」
 引き止める声も聞かずに、彼女は揺れる船の上を疾走していった。
 思い立つと冷静さが吹き飛んでしまう性質らしく、そのままどかどかと船室へと入って行き。
 木のドアをがちゃりと開くなり、リズウィーは愕然として場に固まった。
「あ――」
 ベッドに眠っているのは、毎日の様に顔をあわせているこの船の長だ。
 眠っていながら、ぜえ、ぜえと大きく音を経てて、息を切らしている。
 白く美しい色をしたはずの顔は熟れた林檎のように赤く染まっていて、一目で症状の重さが見て取れた。
 ベッドの傍に、嘔吐物の溜められた手桶がある。
 海まで吐きに向かう余裕など、とても無いのだ。
「せ……船長」
 リズウィーは色を失ったまま、ただそこに立っている。
 せめて声を聞こうと思って、ここまで来た。
 けれど、こんな状態の人間に下手に話しかけることなど出来やしない。
 ……船長だけじゃなく、他の船員も皆同じ様子だと言うのか。
 この船の状況を改めて認識し、リズウィーは絶望感に駆られた。
 私がちゃんとしなければ……けれど一体、何が出来ると言うの?
 この船にはちゃんとした医者はいないし、病気を治してくれる救世主など存在しない。
 絶望、不安と共に襲い来るのは混乱。
 何もかもを諦めて、その場にしゃがみ込んでしまおうと思った。
 そうしただろう、声が聞こえなかったなら。
「無事、だったのね。良かった」
「船長……」
 僅かに届いたか細い声。
 少し口にしただけで、命の灯火はゆらゆらと揺れた。
「平気ですか、船長……。し、しっかりして下さい」
 しっかりしなければいけないのは私だ、とリズウィーは思った。
 冷静でいなければならないのに、意に反して、瞳からはぽろぽろと涙が零れる。
「病気……伝染るかも、しれないわ。直ぐ……外に、出て」
「けれどこのままじゃ、船長が……」
 会話をしている最中でも、リィの顔は全く動こうとしなかった。
 ただ真上、天井を見上げたままで固まっている。
「私は……」
 あまりに弱々しい声だった。
 しかし、それでも。
「大丈夫、だから。……だから」
 傍目には感じられなくても、そこには決して折れることの無い強い意思が込められていたのだ。
 大好きなあの人に、あの人達に再び会うまでは、死ぬことなんか出来ないと。
 まだ記憶だって、何も戻っていない。
 こんな何もかもが中途半端な場所で終わる訳にはいかない――と。
 その想いこそが、今にも消えそうな命の灯火を強く支えていた。
「リズウィー。お願い、このまま陸沿いに進んで……。みんなが無事で居られるうちに、何としても町を……」
 力を振り絞り、リィはその瞳を副官の少女へと向けた。
 リズウィーは瞳を潤ませながら、自らが慕う船長の手を取る。
「解りました。絶対に……町まで辿り着いてみせます。船長は安心して休んでらして下さい」
 絶対に。
 絶対にだ。
 心の中で彼女はそう何度も言葉を反芻させた。
 自分が今やらなければ、二度と取り返しのつかないことになってしまう。
「一度、みんなの様子を見てきます。船長のことも度々見に来るようにしますから」
「うん……」
「頑張ってくださいっ、船長!」
 リズウィーは言うと、踵を返して再び甲板のほうへと走っていった。
 誰もいなくなった空間で、リィはゆっくりと瞳を閉じた。
 そして考える。
 大切な人々のことを、改めて。
 それが自らの力と変わることを彼女はよく理解していた。
 しかしそれでも、症状は一向に軽くなる様子を見せなかった。

 時間が経っても、空が明るくなって暗くなっても、まるで何もかもが氷に閉ざされてしまったかのように、寒気がひかない。
 体内の何もかもを吐き出しても、まだ吐き気がやまない。
 そして全身の軋むような痛み。
 ゆっくりとだが確かに、意志の力が押し戻されていくのを感じていた。
 絶対に、こんな所で……そう思っていた心がやがて”もしかしたら”と変わり行く。
 かつて無い程の苦しみ。
 全てが渦の中に吸い込まれていくような、そんな印象であった。
 ある線を越えたところで、痛みがふっと消え失せる。
 それさえも、吸い込まれてしまったのだろうか。
(私は――)
 その渦はこの幸せな記憶をも奪い去ってしまいそうで、
(死ぬ。死ぬのかしら?)
 そして最後には命さえも飲み込んでしまうのだ。
 微かな意識の中でリィはそう思い、心から恐怖した。
 いっそここでこの命が失われてしまっても……彼らとの幸せな思いを胸に抱いて死ねるのならば、それは最悪の出来事ではない、のかもしれない。
 けれど、まるで何もかもが失われていく様で。
 ――初めて彼らと出会ってから、北海に向かうまでの間で半年。
 かおるさんが居なくなって……それでも半年の時間を、倫敦で過ごした。
 そしてかおるさんを捜す為に東地中海へと赴き、いよいよ彼の行方をつかんで今度はアフリカへ。
 全て合わせても、時間にしてみれば僅か二年間だ。
(嫌だ。忘れたくない)
 そう、強く願った。
 何故ならその二年間が、私にとっての全てなのだから。
 それさえも失って、そして死すのなら……本当に、何も残らない。
 失くしたくないと、リィは必死に、薄れていく思い出を手繰り寄せようとした。
 今も船にいるかけがえの無い仲間達の顔を。
 航海の途中に命を落とした、大切な人達の姿を駆け巡らせた。
 何故そうしたのか、やがてその理由すらも忘れてしまい、ただ思い出だけに全てを委ねて。
 自らの意思を抜け出して、思い出を求める心は中空を彷徨い続けた。
 迷路のようになった思考を潜り抜けて、それは辿り着いたのだ。
 ずっと開かれずにいた、一つの扉に。
(何……?)
 ゆらゆらと揺れる船の上、その船室。
 自分は重い病に侵されて、立つ事も出来ずにただ、船室の天井だけを見上げている。
 この光景に見覚えがある気がしたのだ。
 既視感というやつだろうか。
 それを抱いて、リィは不思議に思った。
 まだそこまで体力が残っていることにも驚いたが。
(こんなこと、二度と経験したくないことなのにね)
 思いながらも、奇妙な感覚はそのまま続く。
 まるで自分が今ここで寝ていて……もう一人、別の場所にいる自分を眺めているような気分だ。
 もっともそのもう一人も、同じようにベッドで寝ているのだけど。
同じように?
 いや、僅かに違う。
 眠っているその姿……今の自分よりも、髪が短い。
 服装だって違う。
(昔の……私?)
 一縷の希望を込めて、リィはそう判断する。
(あっ)
 眠っていたそのもう一人の自分が、立ち上がった。
 彼女を見つめる視線もそれを追って、船室の外へと向かう。
 そこで、一人の少年の姿を見つけた。
 直ぐ外で待っていた少年。
 大きく優しい瞳を持っていて、髪の毛はもう少しで肩に付きそうな程の長さ。
(フェレさんに少し似てる……)
 髪の色は金髪だ。そうでなければ、本当に彼とそっくりだっただろう。
 私はその少年のところへと、ゆっくり近付いていく。
 立ち止まって、何かを話している。
 何も聞こえない。
 ただ一つ、解ったのは。
 優しい顔をしていた少年の顔が――歪んだ、ということ。
 笑ったのではない。
 醜く歪んだ、と今の彼女の心はそう表現をした。
 湛えているのは怒りだろうか?
 そうして、少年の手が伸びる。
 その場所にいる私の体を掴んだ。
 やめて、とリィの心は叫ぶも、何も効果を及ぼさない。
 取っ組み合いを始める、二人。
 私と……その少年だ。
 やはり男だけあって、少年のほうが力が強いのだろうか。
 最初、海を背にしていたのは少年のほうだったのに、体勢が入れ替わる。
 直ぐ真後ろには海、というところまで追い詰められた。
 それでも少年は力を緩めない。
 このまま、海へと落とすつもりなのだ。
(誰もいないの? 他に……)
 思っても、視線を動かすことは出来ない。
 そして。
 動かせなかったはずの視線が、ふっと替わった。
 一瞬灰色になって――それは恐らく空だ。
 空から視線が降る。
 次に飛び込んできたのは、黒ささえも入り混じらせた濃紺色。
(ああ)
 視界を満たしたのは海。
 つまり……落とされたのだ。
「あぁっ!」
 視点はまたそこで、切り替わった。
 目の前に有るのは、船長室の扉。
 はっとして、リィは四方を見回そうとする。
 だが、激しい痛みに見舞われてそれが出来ずに、再びベッドに倒れ伏してしまった。
(――夢?)
 自分は今、ベッドから跳ね起きたのだ。
 海に落とされてはいないし、この部屋には誰もいない。
「なん、て……嫌な夢、なの」
 それにリアル過ぎた。
 何もかもが、まるで本当に起こったことであるかのように。
 ふと気付いて、右手をその瞳に触れさせる。
 そこからは涙が溢れていた。
(最近、泣いてばっかりだわ。私は)
 嫌なことばかりが続いたから? そうではない。
 あの時リスボンで流した涙は、嬉しさのあまりに溢れたものだった。
けど、この涙は違う……。
 本当に辛かったのだ。
 あの夢は。
 ――あの時は。
 大した衝撃もなく、或いはその衝撃を起こさせる体力が無かったかもしれないが。
 リィはそれを、かつて実際に起こったことだとして認識した。
 海に落ちて、そして恐らくは、あの砂漠に漂着したのだろう。
 フェレさん達が私を見つけてくれたという、あの名も無き砂漠に。
思い出したのだ。
 失って、もう戻らないと思っていた記憶の欠片。
 今この海で、突然に返ってきた。
「あの子……」
 ぼそり、とリィは呟いた。
 身体はさっきよりも少しだけ、楽になっている。
 病魔が退散した訳ではないだろう。ただ少しだけ波があって、今はその合間にいるのだ。
「あの子、名前は……名前は何て言ったかしら……?」
 ぶつぶつとそう口にして、そしてまた口を閉じてしまう。

 名前を思い出すまでは、まだ幾らかの時を要すこととなる。
 そして思い出した時、彼女はどうしようもない絶望感に駆られるのだ。
 二年間の幸せな記憶――その全てがまるで夢だったかのように感じられて。
 薄れていって。
 いっそ永遠に覚めることのない夢で有ったならと、彼女はそう思う。

6

 陸に沿って海を行く船団。
 食料と水の残りも心許なくなっていたが、それが尽きる前に町へと到着することが出来た。
 町の名はサントドミンゴと言い、カリブ海に到達してから初めて訪れた、人々の住む場所だ。
 周囲は山岳に包まれており、決して暮らしやすい所では無いだろうが、しかし暖かで暮らしやすそうなその気候は心を朗らかにさせてくれた。
 面々は到着して宿へと向かい、そして皆泥のように眠った。
 それは至福の時であった。
 心も身体も何もかもを落ち着けて、この大地と一体化してしまったかのように、ずっと眠っていた。
 そしてサントドミンゴへと辿り着いてから、三日が過ぎて。
「あら?」
 石造りの宿、その一室の扉を開き、アイは中を見回した。
 カリブでは天然痘や麻疹などの疫病が流行っており、疫病によって滅んだ民族もいた程、猛威を振るっているのだと出航所の役人から聞かされた。
 この辺りの建物はヨーロッパに比べて簡素な造りのものが多かったが、衛生を考慮してなるべく良い宿を選んだのだ。
「今朝まではまるで丸太みたいになってたのに……一体何処に行ったのかしら」
 そこにいるはずの青年の姿が消えている。
「気晴らしに良いと思って、散歩のお誘いに来たのに。ま、いないんじゃしょうがないわね」
 折角カリブくんだりまで来たのだ。
 今日はこの地の酒の味を楽しむのも良いか。
 アイは一人そう思い、また扉を閉じた。
 閉じてから、ふと考える。
(にしても、かおるさんもいないのか。もしかしたら二人で何処か行ったのかしら)
 あの人の行きたがるような場所と言っても即座には思い浮かばないが、フェレットならば何となくは解る。
 誘いに来るよりも前に、既に散歩に出かけて行ったのだろう。
 そしてアイもまた、二人の後を追おうと考える。
 二人が共に行動しているという根拠は無いけれど。
 しかし酒の誘惑は振り解くことが出来ない程に強い。
(幾つか持って行って、ピクニックにでもするか)
 自然とにやりとなって、アイは外の光景へと繰り出していった。

 サントドミンゴの郊外、数分ほど歩いたところにフェレットは独り佇んでいた。
 丁度良い岩肌を見つけてそこに座り、何となしに風景を見つめている。
(最近、こんなんばっかだな。僕は)
 アフリカ、ルアンダの町で奇妙な仮面を被ったかおると再会して、しかし連れて行くことが出来なかった時。
 あの時も砂浜で独り、いじけていた。
 今は眼前に海は無いけれど、やっていることはまるっきり同じだ。
 いや、少し違うか。
 あの時とは違って、アイさんはここには来てくれないだろう。
 町を出て適当にほっつき歩いたこの場所を発見出来る筈など無いのだから。
 ――つまり、ただ独りでずっといじけていることしか出来ないのだ、ここでは。
(しかし)
 フェレットは思った。
 何故、僕らは何時だって、完全な状態ではいられないのか。
 パズルのピースが一つ見つかれば、一つ失くなってしまう。
(僕がいてアイさんがいて、リィとかおるさんの二人がいる。それが僕らの在るべき姿だってのに)
 越えてきた海を振り返ってみれば、その完全な状態でいられたのは、最初にリィと出会ってから北海に向かうまでの半年足らずの間だけであった。
 だけどこれからはずっと、みんな一緒でいられると思っていた。
それなのに。
 溜息をついて、フェレットは空を見上げる。
 まだ明るい色をしているのに、吹く風は僅かに冷えたものへ変わりつつあった。
 帰るのが面倒だなと思って、また視線を下ろす。
「そんなところにいると、風邪引くよ」
 それは唐突に。
 声が、斜め後ろから届いてきた。
 振り返らずとも解る、かおるの声だ。
 フェレットは驚愕した。
 この人が、たとえ表面上だけでもここまで優しい言葉を吐けるとは、と。
 しかし振り返るなり、僅かに覚えた感動は何処かの海へと吹き飛んでいった。
 かおるは直ぐ真後ろで、しゃがみ込んでいる。
 視線の先にあるのは自分ではなく、地面に佇む一匹の生物。
 人間ではない。
 それは爬虫類だ。
 怪訝な顔をして、かおるの方を見返していた。
(とっ、トカゲ……?)
 フェレットは再び驚きを覚えた。
 自分が座っている直ぐ傍の場所に、あんなに大きなトカゲが居たとは。
 体長一メートルはあるし、スペインに住んでいたままだったら、まず見ることは出来なかった。
「もしかして、今の台詞は僕じゃなくて、そのトカゲに言ったんスか……?」
「あれフェレッチ君いたんだ」
「大分さっきからね」
 言葉を失いつつ、こっちのほうがらしいなとフェレットは感じた。
 そして何となく佇む二人。
 トカゲは物珍しげにこちらをじろじろと見ていたが、やがて岩陰から去って行った。
「散々探したけど、結局”コンスタンティア”は見つからなかった。無事なんですかね、リィ達は」
「わがんね」
 かおるはまごうことの無い本音で返す。
 何を言おうが、気休めにもならないだろうと知っているから。
「ただ、まあ」
 少し間隔を開けて、かおるはぼそりと言った。
「これで何もかもが終わり、と言うことは無いと思う」
「と言うと……?」
「勘なんだけどね」
 予想していた返事だったが、フェレットはそれでも脱力感を覚える。
「そりゃ、僕もそう思いたいけど……」
「いや、ほら私ってさ」
 その勘の根拠を口にしようとするかおる。
 フェレットは自ら言葉を止めた。
 奇跡に縋りつくような思いで、続きを求める。
「根っからの冒険者じゃない。だから冒険者としての勘がね」
「はあ、まあ」
 滅多に起きないから、それは奇跡と呼ばれる。
 期待した僕が馬鹿だった、とフェレットは素直に思った。
 かつては自称海賊であったが、本当に過去に海賊をしていたことがバレたからやめたのだろうか。
 気になりはしたけれど、わざわざ訊くことでもないだろう。
 そしてかおるの言葉は途切れた。
 本当にそれだけの理由だったらしい。
「でも、リィは無事でいますよ。きっと」
 そう口にしたものの返事が無かったので、暫くしてから自分で言葉を続けた。
「無事でいなきゃ、いけないんです」
 人の命は何時だって、突然に終わる。
 残された人々はそれをただ悲しみ、受け入れなければならない。
 航海の途中に大切な人間を幾度と無く失ってきた――しかし今回は、今回だけは起きてはならないことなのだ。
 もしも彼女がいなくなってしまったら、間違いなく自分の心はそれを受け入れられないだろう。
 張り裂けてしまうだろう、二度ともう元に戻ることが無い程に。
「最後まで面倒を見てやらないといけないんですよ……僕が。それがあいつをあの砂漠で拾ってきた、僕の責任なんです」
 フェレットはかおるの方を見ない。
 ただ自分の思いを改めて自身の心に再認識をさせるかのように、言葉を吐いた。
 それを確認した上でのことだろうか。
 かおるの表情に、僅かな憂いが混じっていた。
 思い出しているのは、ノルウェー海に位置するベルゲンの町での出来事だ。
 のどかな雰囲気に包まれた町で、かつての仲間と再会した。
 そして言われるがままに付いて行き……結果として、仲間達を捨てた。
(責任……か。私には言えん台詞だな)
 細い目をさらに細め、かおるの心は寂寥を含んだ声で独りごちるのだった。
「約束したんです。いつかあいつの記憶が戻ったその時は、どんなに辛い過去でも一緒に受け止めてやるからって。それに」
 ……まだ、言っていないこともある。
 フェレットはそう心に抱いただけで、口には出さなかった。
「もしもリィが帰ってこなかったら、僕はどうすれば……」
「帰ってくるよ。必ず」
 フェレットは自身の耳を疑った。
 仏頂面をして隣に座っている人間が、あまりにらしくない優しい声を吐いたからだ。
 アフリカで耳にした覚えもあるが、百回聞いても馴染めないだろうなとフェレットは思った。
「……ン?」
 隣に座る青年、フェレットが目を見開いてこちらを見ていることに、かおるはようやく気付く。
 いきなり慌て出して、かおるは座っている岩から落ちるようにして降りた。
 しゃがみ込み、何かを探し出す。
 つまりは今の言葉に込められた柔らかい響きは、本人の意図するところでは無かったと言うこと。
(素直じゃない人だ、まったく)
 音を立てずに笑みながら、フェレットはその奇妙な光景を眺めていた。
 そして、
「言っとくけど、もうトカゲはどっか行っちゃいましたからね」
ようやく一本返したぜ、と得意気に言葉を放つのであった。
 だが、ここで予想外の出来事が起こる。
「あ、いた! トカゲが!」
 少し先の大地を指差して、かおるは声を上げた。
 意外な顔をしてフェレットがそれを追うと、そこには確かに全身を緑色で包んだ生物がいた。
 爬虫類らしくない器用な足取りで、ずかずかとこちらに歩いてきている。
「獰猛そうだ。見つかったら酒瓶で殴り殺されるかも」
「思いっきりこっち見てますけどね。逃げる準備しないと」
 確かにかおるの言うとおり、両手には鈍器が握られている。
 鈍器の中には、人の魂すらも弄ぶ魔法の液体が。
「こら! 結構探して辿り着いたって言うのに、何て言い草よ!」
 緑の生物ことアイは、いよいよ標的に振り下ろさんとばかりに、両手の酒瓶を持ち上げて叫んだ。
 それを見て、フェレットはただ微笑ましさを覚える。
「よく解りましたね、ここ。考えてみればかおるさんも……」
「冒険者としての勘でね」
「確かに、案外当てになるかもしれないですね」
 フェレットは言った。
 ここは名前すら知らない、町の郊外だ。
 それなのにまるで、自分の家に帰って来たような心持ちになっている。
 僕だけじゃない。
 かおるさんも、アイさんも同じように思っているに違いない。
 そうだ――僕らが長きに渡って築き上げた家なのだ、この船団は。
 今、大事な家族の帰りを、寂しい寂しいと言いながら待っている。

 アイの持ってきた酒と少量のおつまみを手にして、三人は小さな宴会を始めた。
 酒の魔力は、人々の心を幸せにしてくれる。
(僕らは何処にもいかない。だから早く帰って来いよ、リィ)
 そんな思いを空へと飛ばして。
 三人は夜更けまでずっと、そこにいた。



  1. 2006/01/23(月) 03:38:01|
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第二十二章 永い夢(前編)

1

 陸には青、空には青と白のグラデーションが展開されていて。
 時と共にそこに赤色が混じって行き、闇が落ち――また繰り返される。
 一定のリズムで何もかもが展開されていく、そんな空間に彼らはいた。
 普段ならば心地よく感じるその拍子でさえも、ただそれだけが続けばやがて飽き始めるということを知った。
 航海が始まって、二十日。
 早朝に目を覚まし、進む海の先を見やると、そこには何時も通りのあの朝陽がある。
 (陸が見えないのが、こんなに苦痛だとはな)
 フォスベリー”の船長、フェレットは複雑な表情をしてそれを眺めていた。
 彼の感性はその眩い景色を、陰鬱な色だと表現する。
 何年もの間航海を続けてきたが、ここまで長い期間、陸から離れていたことは無かった。
 地中海、北海、アフリカ――何時だって、視界の端には緑色が存在していたのだ。
 そしてそれが心を安らがせる効果を持っていたことに、フェレットは今更ながらに気付いた。
「ねえ、船長! すごい綺麗な朝陽ですよ! あれを見るとまた一日が始まるって気持ちになりますよねぇ!」
 静まり返った空間に響いたのは、新米の水夫であるユーリ少年の声だ。
(大物だな、アイツ……)
 この場でそんな声を出せるのは、間違いなく彼だけだったであろう。
 フェレットは何も返せず、ただ深く長い息だけを吐く。
「あと何日、掛かるんでしょうね」
 後ろから響いた声に、フェレットは親近感を覚えた。
 今の自分の気分に程なく近い、疲れ切った声であったからだ。
「ロッティ、おはよう。お疲れ様」
「おはようございます。船長」
 この船の副官ロッティーナ。
 フェレットが眠っている間、代わりに船の指揮系統を任されていた。
「大丈夫か?」
 彼女は目に見えて顔色を悪くしていて、フェレットは傍へと駆け寄った。
「ええ、寝れば治ると思います。けど」
 その次に彼女が吐いた言葉、それは恐らくこの船団の水夫殆どの言葉を代弁したものであっただろう。
「これがこのままずっと続くと考えると、気が狂いそうです」
「ああ……」
 一人朝陽を見てはしゃぎ回っているユーリ少年には聞こえないようにして、二人は会話を続けた。
「私、方向感覚には自信が有るつもりでしたけど……。ずっと同じ光景ばかりが続くと、もしかしたら全く見当違いの方向に進んでいるのではないかって、そう思ってしまいますわ」
「……僕はなんか、逆方向に数日も進めば、直ぐマディラに戻ってしまいそうな気がするよ。全然進んでないように思えて来た」
「クリストバル・コロン提督の偉大さが身に沁みてわかりますね。私達はこの先にカリブがあると知らされているから良いものの、提督は全く未知の航路を辿って行ったのですから」
「全くその通りだ。たとえ別の大陸と勘違いしててもな」
 球体であるこの世界は、ヨーロッパ、アフリカ、アジア(インディアス)の三つの大陸からなるものだと、誰もが思っていた。
 ヴァスコ・ダ・ガマが発見したインド大陸へと向かう別の航路を開拓すべく、コロン提督は西から回ってインドに行こうとしたが、しかし世界は彼の予想を上回る程に広大で、未知に包まれていて。
 結果インドではなく、新たな大陸へと辿り付くことになった。
 それはこの海原を駆け巡る航海者達にとって、興味の尽きない話であった。
 世界には――この蒼き大地の向こうには、まだまだ誰もが踏み入れたことのない光景が眠っているのだと教えてくれたのだから。
「たくさんの人が亡くなったんだろうなあ、カリブに行く為に。僕らはどうなるんだか」
「船長らしくないですわ。よしてください」
「ああ、そうだな。ごめん」
 話を続けるに連れて、フェレットはまた忘れていた疲労を感じてくるのであった。
 いっそこのままもう一眠りしてしまいたいくらいだ。
「船長」
「ん?」
 少し、ロッティーナの口調が変わった。
 僅かに力が篭もった声になっている。
「たとえどう思っても、船長は弱音を吐いては駄目です。知らない場所への旅こそ、航海の醍醐味なんでしょう?」
「ど……どうしたの、急に」
「根拠がなくても”何とかなる”って、しょっちゅう仰ってるではありませんか。今回もそう言ってらして下さい、貴方は。その方が船長らしいです」
「うん。そうだな」
 心では、そう言われてもな、と思っていた。
 しかし確かに船長である自分が自信を持てなくなれば、船の水夫の誰もがへこたれてしまうだろう。
 フェレットはまだ眠気の抜けない身体に言い聞かすようにして、大きく伸びをした。
「ようし、ユーリ」
「はい、何ですか? 船長」
「今日は釣りを教えてやる! 釣って釣って釣りまくって、それをこの船の食事にするんだ! 大事な任務だぞ!」
 釣竿を二つ引っ張り出してきて、フェレットは自ら糸を海へと垂らし始めた。
「その為に食料の配分を少なくして、水を多めに積んであるんだからな。これからの食事をイワシだけにしない為にも、色々な魚を釣り分けるんだ!」
「は、はい!」
「返事はイエッサだ!」
「イエッサ!」
 緊張した顔で釣竿を握るユーリに、フェレットは持ち方を教えてあげている。
 二人を後ろから見やりながら、ロッティーナは微笑ましい表情になった。
 確かに感じられる生命の息吹。
 この航海のうちにそれが途絶えることは無いだろうと、そう思わされる。
(何とかなる……か。そうよね)
 その光景を見て、ロッティーナはようやく眠る気になれた。
 二人の邪魔をしないようにして、静かに船室のほうへと歩いていこうとする。
 ロッティーナは彼らの邪魔をしなかったが、しかし彼女の行動を阻害する声が、背後から響き渡った。
「ヌオァッ? な、なんだこれは!」
フェレットが叫び、ロッティーナは思わず振り返る。
「船長? どうしたのですか」
「ちょ、竿が……ロッティも来てくれ! 早く!」
 見れば、フェレットとユーリは二人で一本の竿を握っている。
 そうしなければ引きずり込まれてしまう程、巨大な獲物がかかったのだろうか。
「早く!」
 声に引き寄せられるようにして、ロッティーナもまたその竿を掴んだ。
「な……何、これっ! 重い!」
 竿を引っ張る力の強さに驚きを隠せないロッティーナ。
「ちょっと、みんな来て!」
 堪らず他の船員をも呼び寄せる。
 寝惚け眼の水夫達も皆、竿を握った瞬間に驚愕し、眠気など飛んで行ってしまった。
「相当でかいぞ! もしかしてカリブ海だけにしか生息しない未知の魚じゃないだろうなぁっ!」
「まだここはカリブ海じゃないですわ! 船長!」
 興奮を隠せずに声を上げながら、船員達は一丸になって竿を引いている。
 均衡が崩れ、徐々にだが、獲物が上へと持ち上げられていく。
「ぬおおおおお!」
 気合の声が五、六も重なって放たれた瞬間。
 その巨大な獲物は空へと舞い上げられて、朝陽と重なった。
 直ぐに光から外れて、凄まじい音を立てて地面に墜落する。
 凄まじい力を持った獲物のその正体。
 それを見た瞬間、皆は驚き、そして興奮に打ち震えた。
「せ、船長。これ、何の魚……?」
「マグロだよ!」
 ユーリの声に返事をしながら、フェレットはただ眼前の生き物に魅入られるようにして止まっている。
「それも相当でかいマグロだ! ここまでの大きさのは生まれて初めて見たよ、僕も」
 地面に叩きつけられても、それだけで力尽きるはずはなく、マグロはばたばたと暴れている。
 その様子ですら、船員達は興味深く見つめていた。
 それはこの海に出てから長らく見ていなかった、”生”を感じさせる存在であった。
 他にも雑魚はたくさん釣れていたけれど、見慣れた魚達がまるで命を持たぬ人形か何かに思えるほど、彼らは疲弊していたのだ。
 ”フォスベリー”と並行して進む六つの船。
 もしかしたらそこに居るはずの水夫達も全て、死人と化しているのではないだろうか?
 そんな有り得ない疑いさえ抱くようになっていたが、眼の前で生命力を溢れさせて跳ね回るその魚の姿を見せられて、ようやく”そんなことはない”と言い切ることが出来た。
「たまにこう言うのがあるから、やめられないんだよな。船乗りは……」
 口元から笑みが零れるのを抑えられずに、フェレットは言った。
 今までこの海が嫌いになったことは一度だってない。
 けれどその光景に疑問を抱いたことは、幾度となくあった。
 それでもその度にこうして、新たな魅力を見つけてきたのだ。
 そうして繰り返してきたことさえ、忘れていた。
「船長。処分はどうしますか?」
 ロッティーナの声に、にやけた顔をした船長が応じる。
「ま、このマグロの生命力を僕らも分けてもらうとしようぜ」
「つまり……」
「食べる。これだけあれば一月はマグロ尽くしで過ごせるな。生憎うちの船にはちゃんとした料理が出来る奴がいないから、バリエーションが限られそうだが」
「すいませんね。料理がさっぱり出来ませんで」
「いや、別に君のことだけを言ったわけじゃないんだけど……」
「あっ? 失礼しました」
 寝不足のせいか、ロッティーナの声も何処か見当外れなことを言っている。
「そうだな。どうせだから幾つかに等分して、他の船にも分けてやるとしようか。リィ、きっと喜ぶだろうな。かおるさんも飢えてるだろうし、アイさんなんか今頃丁度肴を欲しがってそうだ……」
 他の船を眺めようとして、視線を”フォスベリー”の外へと向けると。
 瞳は鮮やかな色をした景色へと引き寄せられて、そこから動かなかった。
 何もかもを眩く染め上げてしまう美しい朝陽、そしてパステルブルーの海。
 その魅力を忘れていた自分はなんて愚かだったのだろうと、思わされる。
 そう――海も、空も、今は目にすることの出来ないあの大地も。
 それらは皆、在るべき美しい姿のままでそこにいる。
 美しいと思えなくなったなら、それは彼らが悪いのではない。
 ただ自らの感性が、正しくものを見られなくなっているだけのこと。
(カリブまで、あと何十日か……。楽しもう。楽しめるよな、きっと)
 心の中でそう呟くと、フェレットは隣を行く船に声を送った。
 そうだ、この海の色。
 地中海のそれとはまた違った印象を抱かせる。
 右手を海につけたとして、引き上げた時にはその手が青く染まっていそうな程に、ただ、青い。
 近付きつつあるのだ。
 目指す未知の大陸、カリブに。

2

 それから更に数十日も経った日のことだった。
 青ばかりに染め上げられたその光景に、緑色が混じり込んできたのは。
 見つけるなり、船団の面々は次々に歓声を上げた。
 自分達は間違っていなかった。
 僅かに見えるあの大地が、それを証明している。
「あと数日もあれば、陸に辿り着けそうですね! 船長」
 フリゲート船”コンスタンティア”の船上でもまた、眠っていた水夫達もが目を覚まして来て、総出で新たな大地の出現を喜んでいた。
「うん……」
「浮かない表情をしてますね。船長」
「あ、そうじゃないのよ。リズウィー」
 心配させてしまったかと思い、リィは優しい口調でそう返した。
「この辺り、やたら蚊がいるじゃない? それが気になっちゃって」
「言われてみれば……。この辺りは蚊が多いんでしょうかね」
 リズウィーもまた口にした時に丁度、頬に痒さを感じて。
 自らの手ではたくと、細長い手足を持った蚊の死体がそこに収まっていた。
「カリブにしかいない蚊だったりするかもしれませんね、船長。こんな虫でさえ、ちゃあんとカリブの息吹を感じさせてくれますよ」
「蚊で?」
 苦笑いするしかない、と言った感じの台詞を受け、リィは対応に困るのだった。
「私はもうちょっと……ロマンチックな感じ方をしたかったな。虫じゃなくて、もうちょっとこう……」
「それも間も無くですよ、きっと。カリブの地は間違いなく、大歓迎をしてくれるに決まってますから!」
「ふふ。そうよね、きっと」
 この大陸には私達がまだ知らない、たくさんの素晴らしい光景が待っていて。
 それは間違いなく、素敵な思い出になるだろう。
 リィだけでなく、船員達は皆希望に胸を膨らませた。
 しかし。

 期待を遥かに上回る歓迎を、船団は受けることとなった。
 カリブの地が視認出来るようになってから、一日と半分が経過した時のことだった。
 巨大な船が次々と姿を現し、この船団を囲むようにして海に浮かんでいる。
「この船と同じ……大型のキャラックが数隻か。確かに大歓迎だな」
 ”オールド・ブラック・マジック”の船長を務める男、カリタス。
 まだ距離のある敵船の姿を冷静に観察し、動向を探っている。
「船長、我らはどう出ますか?」
「もう少し様子見だな。こっちの退路を塞ぐようにして動いているところを見ると、賊の類である確率は高いが。一応、向こうから砲撃してくるまでは待とう」
 十中八九敵だとしても、十割ではない。
 不審な船を取り締まって回っている自警団の船かもしれない。
 しかしそんな期待も、僅か数分で打ち破られることとなった。
 遠距離から放たれた砲弾が、こちらの船へと着弾をしたのだ。
 撃って来たのは一隻ではない。
 その一撃を皮切りに、こちらを囲んでいた船が一斉に攻撃を開始する。
 こちらも何も、ただそれを黙って見ていた訳ではなかった。
 敵が攻撃の素振りを見せた瞬間に直ぐ様陣を展開させ、反撃に移れる形を取っている。
「カリブの海賊の、お手並み拝見といくか」
 そう口にするカリタスの表情は、決して意気に満ちたものではない。
 敵の船は恐らく、こちらに匹敵する程の戦力を要している。
 慎重にならざるを得なかった。
 折角新たに造った船もまた、このカリブに滞在している途中で傷付き、壊れるかもしれない。
 壊れるかはともかくとして――傷付くことは逃れられないだろう、もう。
 そう考えると、複雑な思いに駆られずにはいられなかったのだ。

「船長、大変ですぜ!」
「うん。わかってる」
 本当に解ってるのか、と問いたくなるほどの能天気な声をかおるは返した。
 それはある種の癖みたいなもので、心の底から能天気でいるわけではない。
「アスナは船室の奥に行ってて。船員を数人付けるが、近寄らせはせん」
 台本を棒読みしたような声だったが、しかしその言葉には頼りがいを感じさせた。
「かおるさんは!」
「パイレーツ・オブ・カビリアンの力を見てこようと思って」
 まだ敵船まで距離があるというのに、かおるは既に剣を抜き払っている。
 つまりは距離を詰めて白兵戦に持ち込むつもりでいるらしい。
「かおるさん……気をつけて」
 アスナの声は不安に満ちている。
 この船に乗り込んでから、戦いを経験するのはこれが初めてなのだ。
「アスナ」
 かおるはこほん、と咳をした。
 他の船員はそれを聞き、耳を疑う。
 珍しく、彼らしくない芝居がかった仕草に思えたからだ。
 船長でもやはり女っ気が付くと変わるものなのか、と興味深く、しかしこっそりやり取りを聞いている。
「もう、誰も死ぬことはない。大マグロ漁船に乗ったつもりでいなさい」
 ああ……やっぱり何も変わってない、いつもの船長だ。
 たった一人の少女を除いて、彼らは皆そう思った。
 思わせたのは”マグロ漁船”という単語の力だろう。
 しかし少女アスナにとっては、後半の科白など問題ではなかった。
 誰も死なせないというその言葉だけを、頭の中で逡巡させて。
「絶対……絶対だよ! 約束してよ、かおるさん!」
 アスナはそう言いながら、数人の船員と共に船室の方へと走っていった。
 それを確認したうえで、かおるは呟く。
「ああ。死なんし、殺させんよ。ヤツらの為にもな」
 剣を握る手に力が篭った。
 けれどそれは自らの意思によるものではない。
 何故?
 かおるはそう疑問を抱いた。
 答えはしかし、誰かに問うまでもなく導き出せた。
 この手には、この身体には幾つもの力が宿っている。
 それは力強さばかりが先走るこの身に、優しさを与えてくれるあたたかい力。
(私は死ぬまで生きるぞ。そこで見ていろ――セルマ、マテウス、ミケ)
”かおるさん”
 そう、自分の名前を呼ぶ彼らの声。
 今だって直ぐに思い出せるし、忘れることは無いだろう。
(それにHIGEの奴もだ)
 自らの力を改めて試すかのように、かおるはひゅっ、と剣を一振りさせた。
 それはこの風さえも軽々と二つに裂いてしまう。
 人の身体など、音もなく切断してしまうだろう。
(……HIGE?)
 その奇怪な単語を浮かべた所で、かおるはふと気付くことがあった。
 ここ数日、ずっと不思議に思っていたことの答えが、偶然にも今ここで導き出せた。
(ヤツの仕業か。まさか)
 剣を持った右手から、力が急激に抜けていく。
 からんと音を立て、剣は地面に転がった。
「船長! 一体どうしたんでやすか!」
 駆け寄る船員のほうに振り返ることも出来ない。
 かおるはわなわなと震えていた。
「い、いや……。心なしか、最近ヒゲが濃くなってきたような気が……。まさか、HIGEの怨念がこの身に……」
「船長……」
 それはやっぱりいつもと変わらぬ調子の声。
 むしろいつも以上に、今日のこの人は切れている。
 船員達は皆、心の中でそう訂正を加えた。

 現れた船は確かにかなりの戦力を有していたが、アフリカで戦った海賊達に比べれば、やり易い相手ではあった。
 嵐に巻かれながら戦ったアフリカの海賊――彼らはまるで自らの命さえも惜しくないかのように、隙あらばこちらの船へと乗り込んでこようとした。
 しかし今対峙している船団は、遠巻きに砲撃を繰り返してくるだけで、零距離まで近付いてこようとはしない。
「まあ……普段、こうだったものね。アフリカのが異常だっただけだわ」
 戦いの途中にそう口に出来るだけ今回は余裕があると、アイは判断した。
 さっきから幾度と無く砲撃を浴びているが、”シャルトリューズ”には目立った損傷はない。
 距離が遠いせいもあるが、これまでのダウ船であったなら、衝撃を受けた際の揺れも比ではないほどに激しかっただろう。
「折角の新しい船だし、このまま無事にいられれば良いんだけど」
 彼女がそう口にしたのと、ほぼ同時であった。
 まとまっていた船団の陣形を割るようにして、一隻の船が飛び出したのは。
 崩れたのは敵の陣形ではない。
 こちらのものだ。
「……相変わらず、恐れを知らない人だわ」
 新鮮ならばバラの香りを持つものもあると言われる木材、ローズウッド。
 それを原料として造り上げられた茶褐色のアラビアンガレーは、行く手を遮るものが何も無いかのように、ただ敵船へと突貫していく。
 百人以上もの人間がオールを漕ぎながら進むその姿を見て、まるで百足のようだとアイは思った。
 その一隻に引き摺られるようにして、船団の他の船もまた、陣形を展開させていく。
 実際のところ、援護をしなくてもあの一隻で事足りるのではないか?
 そんな風に思っていたのはきっと、アイだけではなかっただろう。
 アフリカの海で、かおるはたった一人で百人もの海賊を相手にし、そしてそれを全て片付けたと言う。
 フェレットからそう聞かされたとき、さすがのアイでさえも耳を疑った。
 疑いはしたがしかし、完全に「有り得ない」と言い切ることは出来なかった。
 人々が抱く現実感さえも破壊するほどの力を、あのガレー船の長は持っているのだと、そう知っている。
 それでもやっぱり一隻での突撃は、傍目にはただの自殺行為に他ならない。
 フェレットの”フォスベリー”、パングの”嵐を呼ぶ鹿号”が後を追うようにして、敵船の方へと進み始めた。
 さらに続いて”オールド・ブラック・マジック”と、リィの乗るフリゲート船”コンスタンティア”もまた前方へゆっくりと進んでいく。
 下手に同時に進んでは、自船団の船同士で衝突を起こしかねない。
 自然と”シャルトリューズ”と、ルーファの”ヴェレーノ・プリンシペッサ”が殿として残される形となった。
 砲撃を交えながら、アラビアンガレー船と始めとした三隻が突っ込んでいく。
 一番近い位置にいた敵戦と、アラビアンガレー船が隣接する。
 それから僅か一時間足らずで、そこにあった敵の堅固な陣形には、槍で一突きにしたかの如くな穴が開いた。
 攻撃の手はそれでも緩まない。
 雨あられと砲弾を浴びせながらも、三隻の船はさらに進撃を続ける。
 アイは船上から、それをまるで創り上げられた鮮やかな手品を見るような思いで眺めていた。
 あまりに不謹慎だろう。
 そう言い聞かせようとしても、胸の高鳴りがやまない。
 ずっと欠けてしまっていたピースがようやく戻ってきた。
 視界の先に展開されている光景は、それを表しているのだ。
 船団に無くてはならない存在だった、かおるさん。
 それに、フェレさんもか。
 彼らと一緒に行動をしている時、不安に駆られることもあるけれど、でも心の底では「きっと何とかなる」と、何時だってそう思っていた。
 この人達とならば、どんな困難な道でさえも乗り越えていけるのではないかと――月並みな表現だけれど、思っていられた。
 今再び、自分はそう思えている。
 リィを初めとした新しい仲間達も加わり、大事だった場所はさらにかけがえのないものへと変わりつつある。
(私はずっと見ていよう。あの人達の姿を見守っていよう)
 そして彼らが助けを必要としているのなら、そこに手を添えてあげるのだ。
 今ここにある幸せの光景――どんな形をしているのか、よく知っているつもりでいる。
 だからそれが形を変えてしまわないよう、私はやれるだけのことをしよう。
(さすがに戦闘中に、それは不謹慎か)
 アイはその表情に笑みを刻むと、想いを胸の奥へと閉まった。

3

 明るかった空。
 それがふっと影に染まり、落ちてきたのは大粒の雫。
 まだ量は多くないけれど、やがて二倍にも三倍にも、数を多くして降ってくるだろう。
 つくづくついてない、とアイはそう呟いて捨てた。
「アフリカの再現はしたくないからね。いざとなったら何時でも逃げられるように準備をしておいて!」
 航海に嵐は付き物だと理解している。
 それでも何も、海戦の度に嵐を到来させなくても良いじゃないか。
 そう天に文句を言いながら、アイは自船団の動向を慎重に見やっていた。
 彼女の思惑とは逆に、陣の最前列にいる船たちは全く退く気配を見せない。
 下手に撤退する姿勢を見せれば追撃を受けるだろうし、戦局そのものはこちらが優位にある。
 どうせならば完全勝利で終わらせてやる……と、きっとそう思っているのだろう。
 相変わらずの勢いでアラビアンガレーは進撃を続けており、立ち塞がった二隻の大型キャラック船は蹂躙され、やがて動くことをやめた。
「えらく解りづらくなっちまってんな。前線は」
 ”シャルトリューズ”でも屈指の剣の腕を持つグラフコスが、身を持て余しながら言った。
 唯一”永久機関”のみが目に見えて派手な動きをしているが、他の船は皆混戦状態になっており、ここからでは敵味方の区別すらつかない。
「案外、新しい船を手に入れて調子に乗って引き際を見誤ってんじゃねえのか? 船長」
「そんなことは無いと思いたいけど……。確かにあの人達、冷静な時は冷静だけど、一端調子付くと止まらなくなるところがあるからね」
 アイが心配そうにそう口にする。
 声として出してみると、尚更有り得そうに思えた。
 さすが船団の中心人物である二人の船長をよく知っている。

「よーし! この勢いで敵を殲滅するぞ!」
 ”フォスベリー”の船上でフェレットがそう声を上げた。
 確かにアイの想像通り、彼は調子に乗っていた。
 それはまた、前方を行くガレー船が同様に調子付いており、他の船までも引っ張っていく勢いで無謀な突撃を繰り返しているからだ。
 とは言え船長が船長だけあり、そんな無謀ささえもまかり通っていた。
 最初六隻もいた敵の船は今や、たった二隻にまで減らされている。
 実際に姿を消した訳ではなく、既に戦闘意欲をなくしてその場に浮いているだけだ。
 それらをかいくぐるようにして”永久機関”が進み、他の船も続く。
 空が覆い隠されるほどの砲撃を浴びせる。
 快進撃はそれから数時間も――本格的に嵐が訪れるまで、続いた。
 大粒だった雨がある時を境に、いきなり石のような重さを持ち出したのだ。

「ヌォー!」
 丁度敵船に乗り込み、敵の船員を切りまくっていた最中であったかおる。
 驚き、空を見上げて叫び声を上げた。
 その隙に背後から槍が突き入れられるが、それすらも計算通りだったのか、避けると同時に反撃の刃を返し、その船員の命を奪った。
「何つう雨だ!」
 雨だけじゃない。
 風もだ。
 かおるはかつて印度で海賊をしていた経験があり、海戦の途中に嵐に見舞われたことは数多くあった。
 だからこそ、対応手段もよく知っている。
 そろり、と静かにだが素早く、踵を返す。
「ずらかるぞ!」
 さっきの叫びよりも遥かに大きい声で怒鳴った。
 自身の船へと戻るべく、そこから走り出す。
「えっ! 船長、これくらいならまだ……」
「こりゃ長く降る雨だ! 逃げとけ!」
 かおるの珍しく真剣な声を聞き、船員達もまた、目の前の戦闘を放棄して走り出した。
 剣戟すらも轟音にかき消されるようになり、このまま斬り合いを続けては余計な被害を出すだけ。
 そう判断したのは敵味方両方だったようで、心配されていた敵の追撃はなかった。

 アフリカでの死闘を光景を想起させるかのように、空間は雨と風に包まれて。
 それだけではなく、さらに霧が張り詰めて視界を遮っている。
 船はまともに身動きが取れぬようになり、何とか敵船と距離を取ろうとしつつも、しかし目立った航行が出来ない状況に陥った。
「参ったな。こりゃ……」
 ずぶ濡れになりながら、フェレットは見えない海を見ている。
 さっきまで共に行動をしていた二隻、”永久機関”と”嵐を呼ぶ鹿号”の居場所は把握している。
 未知の海域であるカリブで他の船とはぐれてしまえば、合流することは困難だろう。
 下手すれば、二度と合流出来なくなるかもしれない。
「ここまで雨が酷くなるとは。予想外でしたね」
「ちゃんと空を気にしていれば、予測出来たかもしれないが……。まずったな」
 副官ロッティーナ、そしてフェレットの声も、むしろ戦闘中よりも真剣さを増している。
 自然の脅威、それは場合によっては刃よりも遥かに鋭く、人の命を抉り取ろうとするのだ。
 後続の船の姿は全く確認出来ず、それどころかたった数メートル先でさえまともに状況を掴むことが出来ない。
「……僅かに、陸が見えるのがわかるか? ロッティ」
「ええ。戦闘中に少しずつ近付いて来てましたからね」
 前を行く”永久機関”の向かう先は、その陸地のようだ。
 船が停泊出来るほどの開けた地形を見つけたのだろうか。
「僕らも追おう。陸に停まって、嵐が去るのを待たないとな」
 ただでさえ、さっきの砲撃戦で大分船が傷付いているのだ。
 修理をする時間も欲しいし、このまま海に浮かんでいては新造船があっと言う間にスクラップになりかねない。
「アイさん達も、僕らの船の近くにいると良いんだけど……」
 海戦が始まってから、そう長い時間が経った訳ではない。
 霧が晴れればきっと、互いの姿を目視出来るようになるだろう。
 ひとまずは嵐をやり過ごすことだけを念頭において、”フォスベリー”、”嵐を呼ぶ鹿号”、そして”永久機関”の三隻は、一番近い位置にある大地へと上陸を果たした。
 念願のカリブ発上陸も、決して感動出来るような状況には無く。

 雨と霧に包まれて白く染まっていた空は、フェレットらが陸に降り立った頃には黒色へと姿を変えていた。
「やれやれ、第一印象は最悪っすね。カリブ」
 ”嵐を呼ぶ鹿号”の長であるパングの声は、あからさまな疲労感に満ちている。
「つまりこれからは良くなる一方だと、そう信じたい所だがな」
 返事をするカリタスの声も同様だ。
 彼が船長を務める”オールド・ブラック・マジック”も既に陸地へと到達している。
 一度ばらばらになった船団は、また再び在るべき姿を取り戻そうとしていた。
 ”オールド・ブラック・マジック”よりも数時間遅れて、”ヴェレーノ・プリンシペッサ(毒の姫)”が姿を現し、それからまた二時間程。
 僅かに雨の勢いが収まってきた頃に、一隻の船がこちらへと向かってきているのが見えた。
 船団の水夫達はそれぞれ船の修復作業に当たりつつ、その船が何処の所属であるかを確認しようとしていた。
 先程襲い掛かってきた船団の姿は、跡形もなく消えてしまった。
 撤退したのか、嵐に呑まれてしまったのかはわからない。
 しかし今向かってきているあの船は、まず海賊船ではないものと思われる。
 未だ行方知れずの二隻――”シャルトリューズ”と”コンスタンティア”。
 おそらくはそのどちらかだ。
 風の強さには波があるようで、今は僅かに緩やかなものとなっている。
 船は帆を開いたまま、出せるだけの速度で陸へと進んで来た。
「サムブーク……。シャットットルリューゼか」
 干し肉を食らいながら、かおるがそう口にした。
 素で間違っているのかわざとなのかは知らないが、やって来た船はアイの乗る船”シャルトリューズ”。
 これで一隻を残して、船団が再び揃ったことになる。
 残る一隻。
 リィの”コンスタンティア”だけが未だこの海域に姿を現さない。
(ああ見えて、あいつの船は腕利き揃いなんだ。海に呑まれた、なんてことは無いはずだ。……有る訳がない)
 フェレットも”フォスベリー”の修理に当たっていたが、全く身につかない様子で、その瞳はひたすら海のほうを凝視している。
 しかし、そこには何もない。
 水平線さえ見えない空虚な空間があるだけで、眺めていればいるほどに不安ばかりが募った。
(少しだけど……雨、止んできたか)
 これなら、再び海に出ることも可能じゃないのか?
 ふと、そんな考えが過ぎる。
 それでもまだ最初は”無理だ”という思いのほうが強かったが、考えれば考えるほどにそれは強い思いの波に押し返されて行き。
(カリタスさんに相談してみるか)
 やがてそう思い立ち、フェレットは”フォスベリー”を後にした。
 そしてカリタスの所まで行き、話を持ち掛けてみるものの。
「今は彼女達の事を信じてあげるんだな。この嵐の中、下手に出て行ったら、折角陸に辿り着けた水夫達の命まで危うくなるんだ」
 そう言われるだろうとは思っていたものの、やはり断られてしまった。
 カリタスの言うことが尤もな話であることは知っている。
 それでもフェレットは諦めきれなかった。
「何なら”フォスベリー”だけでも……」
「ともかく、もう少し待ちたまえ。船長が慌てていると、部下まで不安の渦に陥れることになる」
「それはわかってるんですが、けど」
「私からもお願いします。カリタスさん」
 そう挟まれたのは、女性の声。
 振り返らずとも誰のものか即座に判別出来る、よく知った声だった。
「フェレさんをこのまま放置しておくと、暴れてこの船団を壊滅させかねないですからね」
「アイさん……」
 フォローしてくれたかと思えば、言葉の内容はそんなだ。
 フェレットはどう反応していいか解りかねて、ただ困った顔になっている。
「それにリィちゃん達にもしものことが有ったら、幾ら後悔しても足りなくなりそうですから。たとえここにいるみんなが無事で済んだとしても」
「……それくらいなら、皆でカリブ海に沈んだほうがマシだと言うのか?」
「どっちか選べって言われれば。そうなりますかね」
 答えたのはフェレットだ。
 アイも静かに頷きを重ねる。
「まあ死ぬのは美味しいものを食べている最中だって決めてるんで、出来れば溺死は避けたいんですけどね」
 冗談めいた口調で、フェレットは最後にそうおどけた。
 やれやれと声を吐き、カリタスは少々わざとらしく、呆れたポーズを取って見せた。
「まるでこっちがごねているかのように思えてきたな。しょうがない、君達二人がそう言うなら従うとしよう」
「申し訳ないです」
 フェレットとアイ、二人の顔は歓喜に包まれている。
 とても申し訳無さそうには見えない。
「その代わり、私も付いて行くよ。幾らなんでも、皆がこの海の藻屑と化すことだけは止めねばならん」
「そりゃあ助かりますよ」
 華やぐ二人の表情。
 更なる話し合いの結果、さすがに全船で赴くのは危険過ぎるということになり、残るかおる達の船はこの場に留まることとなった。
 もしものことが有ったら、とアイはそう言ったが、彼女はその”もしも”の光景を欠片ほども想像はしなかった。
 フェレットに関して言えば最初はしていたかもしれないが、再び海に向かううち、それは記憶の外へと放られた。
 ”コンスタンティア”の船長である以前に、記憶を失くして独り倒れていた少女、リィ。
 思えば彼女との出会いは偶然に他ならない”運命的”と表現するのが相応しいものであった。
 そんな始まりをして、彼女と共に長く続けてきた航海。
 こんな中途半端な所で、まるで糸を切り落としたかのように、突然に終わってしまうはずがない。
 そうだ。
 何れ訪れるであろう終焉まで、それはきっと運命に導かれたものとして続くはず。
 それはあたかも、素敵な一編の物語のように――。
 アイはそう信じていた。
 いっそ終わりが訪れず、永遠に続けばいい……とも。



  1. 2006/01/17(火) 23:37:28|
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第二十一章 失くした地図を探しに

1

 航海をしない船乗りは陸に上がった河童のようなものだ、とは誰が言った言葉だろうか。
 リスボンに滞在して、早二ヶ月。
 新造された船達は、その行く先を未だ知らずにいるのだった。
 ”船頭多くして、船、山に登る”という諺がここまで当て嵌まる面々と言うのも、そうはいない。
 ――つまり、彼らは揉めていた。
 リスボンの、ここは冒険者ギルドの建物の中。
「”とある令嬢の指輪”……これしかないでしょう! だってまず、依頼の題名からして僕の好み……いや、我が船団向きじゃないですか!」
「いやいや。おじさん的にはこっちの娘のほうが」
 間違いなく一般の人間ではない、胡散臭さばかりを感じさせる男の声。
 彼はそう言いながら、紙に書かれている依頼の題名を指差した。
「……かおるさん」
 相方の青年、フェレットの顔が一瞬にして、とても残念そうなものへと変わった。
「その依頼の題は”地中海の狼”って書いてますけど……。もしかして”地中海の娘”と勘違いを……」
「いやいや。ポルトガル語で書かれてるんだから、そんな間違いする訳は無いよ」
「あっ! 言われてみれば、そうですよね。失礼しました」
「わっはっはっは」
 和やかに話しつつも、二人の考えは常に右と左、アフリカと北海に分かれて進もうとしている。
「やっぱりこう賞金首を狙うとか、ガツーンとぶちかますようなのが」
 とかく物騒な依頼ばかりをセレクトするかおる。
 そして、
「あ、すごい良いのが有る! この”クリスティナ”という依頼なんてどうでしょう。名前からして美人の気配が」
「それ前にやったし。って言うか知り合いだし」
「なんべんやっても良いじゃないですか! 人助けなんだから!」
対照的に和やかな、それでいて何故か女性関連の依頼ばかりを受けたがるフェレット。
 かつてこの町に滞在した時はまともな依頼が殆どなく、やはり散々に揉めたものだったが、依頼の数が多ければそれはそれで決まらないものだ。
 それでも話し合いを続けて、結局”今はろくな依頼がない”という結論に落ち着く二人。
「数さえ有れば良いってもんじゃないよ。もっとこう、冒険者魂と海賊魂を同時に燃え滾らせるような依頼は無いの? ちょっと、ねえ」
 いよいよもって、フェレットは依頼仲介人にまで文句を言い始めるのであった。
「無い」
 だが返事は素っ気無く、それでいて冷たい。
 以前訪れた時とは別の仲介人だと、そこで始めて気付いた。
 前に見た仲介人はもっと愛想が良くお喋りだったという記憶がある。
「いや、一つだけ言わせて貰おう」
 ぼそり、とその仲介人の声が響いた。
 眼の前で数時間も言い合いを続けられて、何時しか建物の中には彼ら三人だけしかいなくなっていた。
「冒険者ギルドに、海賊魂を燃え滾らせる依頼が有る等と思うな」
 その言葉と共に、半ば追い出されるようにしてフェレットらは建物の外に出て行った。

「大体、かおるさんが悪いんですよ。海事ギルドの依頼内容が書かれた紙を持ち込んで、冒険家ギルドでそのことを話してんだもん。そりゃ文句言われるよ」
「時代に逆らってみた」
「意味解んないですから」
 午前にここを訪れたはずなのに、空の色はもう夕刻を示していた。
「ああ、今日も決まらなかった……。一度他所の町に移動してみたほうが良いかなぁ」
 一応全ての依頼には目を通して有るが、これといったものは見当たらなかったのだ。
受 ける依頼が決まらなければ次の目的も決まらないし、フェレット達はほとほと困り果てていた。
 困るのが二人だけなら、別にそれでも大したことではない。
 しかし今現在、船団には数百もの人間がいるのだ。
 徐々にだが彼らの不満も溜まっていくだろうし、滞在費というのもこれで案外馬鹿にならないものだ。
「今日こそは決めてくるって言っといたのにな。このまま手ぶらで帰ったら殺されかねないよ。ほんとに」
「ええ。本当に殺しかねないわよ?」
 ひょっこりと現れた、その女性の言葉。
 フェレットは背筋の凍る思いをして振り返った。
「あ……アイさん。来ちゃったんですか?」
 そこにいたのは”シャルトリューズ”の船長を務める女性、アイ。
「ええ。もう待ちくたびれてね」
「待ち切れなくてつい一献やってしまったとか」
 かおるの声に、彼女は眉をぴくりと反応させた……が、結局受け流したらしい。
「決まらなかったのね?」
「は、はぁ。すいません」
「ヌヘッ」
 反省の声らしきものを連ねる二人。
「ヌヘ、じゃないでしょう」
 しかしそれだけでは、彼女は満足しない。
 「ともかく、そろそろ何処かに移動しないとね。馴染みの水夫達は良いけど、最近新たに入った船員は私達に不信感を募らせるかもしれないし。……だからね、意地でも今日決めてしまおうと思って、私が来たの」
「え、でも……」
「でも、じゃない」
 最早申し開きは受け付けない姿勢にある様子。
「今はろくな依頼無いですよ。冒険者ギルドも、海事も」
「本当にそうか、私が確かめてくるわよ。フェレさんとかおるさんはここで待っててちょうだい」
 え、でも、とフェレットは口に出そうとして、慌てて噤んだ。
「私が決めてくるから。よっぽど変な依頼じゃないかぎり、反論は受け付けません」
 ――それでも良いか、と思うフェレットであった。
 直ぐにそう思考を切り替えられたのも、彼女の人格をよく知っているからこそである。
 確かに自分やかおるさんが揉めに揉めた末に決めるよりも、無難に良い依頼をセレクトしてくれそうな気がする。
「しょうがない、任せますか。かおるさん」
「酒尽くしの航海になりそうやね」
「依頼に関係なく、そうしますけどね」
 別れ際にそう反撃の言葉を口にして、アイは独りギルドの方へと歩いて行った。
 さすが、彼ら二人に対する受け答えの台詞も慣れたものである。
 そして待つこと数分。
 再びドアが開かれて、そこからアイが出てきた。
「ぬ?」
 かおるは違和感を抱いて、思わず声を吐いた。
 彼女はこちらに歩いて来ている。
「アイさん、どうでした?」
 フェレットは訊ねた。
 不思議に思っていたのは彼もだった。
「ねえっ、二人とも!」
 アイは零れ落ちる微笑みを抑え切れないようにして、そこにいる。
 ギルドから出てきた瞬間から、ずっとそうだったのだ。
 笑いが止まらなくなるキノコでも食べたのだろうかと、二人は失礼にも同じ事を思っていたりする。
 少なくともさっき依頼書を見た限りでは、ここまで笑みが絶えなくなる様な素晴らしい依頼など一つも無かったはずだ。
「ドラゴンよ! ドラゴン!」
「ドラゴン?」
 フェレットが怪訝な声を発するなり、アイは背中に隠し持っていた依頼書を、ばっと二人の眼前に差し出した。
 わざわざ顔を近付けて、フェレットはその依頼内容を読み上げていく。
「ドラゴンの絵は……カリブに……で、ええと……本当にそうだったら、大発見……」
 別に二人に聞かせるつもりではないようで、自分だけにしか届かない程度の大きさの声だ。
 そして、ついに最後まで読み上げたらしい。
 それを頭の中で整理して、
「ドラゴンだってええぇ!?」
フェレットは大爆発を起こしたかのように、叫んだ。
 アイから依頼書を引ったくり、何故か頭上に掲げて、空ごとそれを眺めている。
「ドラゴン! それにカリブッ? すげぇ、そんな未知のキーワードが有ったこと自体、すっかり忘れてた!」
「うんうん。私も忘れてたわ。だからこんなに喜んでるのよ」
 疲れていた顔をしていたフェレットだったが、瞬時にして憑き物が落ちたかのような満面の笑みを浮かべている。
 見栄も外聞もなく踊り出してしまいそうなほど、二人は幸せに満ちた表情をしていた。
 かおるは相変わらずの仏頂面だが、彼は彼で喜んでいるのだろうか。
「ドラゴンか」
「ええ、ドラゴンですよ!」
 かおるの声に対して、数倍の大きさで返事するアイ。
「そう言えば私達がドラゴンを探してたなんて設定が有ったね」
「設定とか言わないで下さい。折角久々の大きな依頼なんだから、かおるさんも喜びましょうよ」
「ふむ」
(嬉しくないのかしら……?)
 普段以上につっけんどんな態度を取るかおる。
 アイもフェレットも、不思議でならなかった。
「ま、とにかくこれで異論は無いわよね? それじゃあ早速帰ってみんなに伝えるとしますか!」
 アイは既に宿屋のほうへと歩き始めている。
 皆の喜ぶ顔が見たくて、待ち切れない様子だ。
「あ。アイさん」
「ん?」
 フェレットもそれを追い掛けながら、質問をする。
「さっき僕らが見てた時にはドラゴンの依頼なんて無かったけど……。どうやって紹介して貰えたんです?」
「これよ!」
 そう言ってアイが取り出したのは、一枚の紙。
「依頼斡旋書。カリタスさんから貰ったの。これを見せるとね、新たな依頼を提示してくれるらしいのよ」
「へぇー……僕らがアフリカ行ってる間に、色々変わったんだな」
「便利な世の中になったわよ。ほんとに」
 会話をしながら、後ろに一人残っている男のことなどすっかり忘れて、宿へと帰っていく二人。
 数メートルも離れた所で、かおるは何やらぼそぼそと呟き出した。
 しかし彼らにはもう聞こえない。そのまま歩き続けている。
 更に数歩も進み、そう言えば忘れてた、と二人はようやく振り返った。
 その瞬間、待ち構えていたかの様にして。
「ドラゴンだとオオオオオオォォォォォーッ!?」
「驚くの遅いよ!」
 かおるが放った咆哮に、二人は思わず同時に突込みをするのであった。

2

 目的が決まってからの日々は、やけに急ぎ足で過ぎて行き。
 そうして出発の前日を迎えることとなった。
 時刻は既に夜、船員の半数は寝静まっているが、残る半数は逸る気持ちを抑えながら各々の船の整備にあたっている。
「ねえ、船長……」
 ここは大型キャラベル船”フォスベリー”の甲板。
 船の掃除をしていたフェレットだったが、後ろから声を掛けられて、振り返った。
「どうした?」
 そこにいたのはこの船の副官、ロッティーナ。
 今や”フォスベリー”には欠かすことの出来ない、才色兼備の女性である。
「皆カリブだカリブだってはしゃいでますけど。正確な場所はご存知なのですか?」
「いや。さっぱり」
 ロッティーナは目をぱちぱちとさせた。
 暫し考えてから、不安げな声を出す。
「……幾ら船長でも、全く場所を知らずに適当な航海をするとは、考え難いのですが」
「幾ら船長でもって、ごあいさつだな。おい」
 フェレットは表情を歪めて答えた。
「まぁ、何となくは解ってるよ。今回は僕だけじゃなく、みんなそんな程度の知識しか無いみたいだ。だって誰も行った事が無いんだからな」
「大丈夫ですかね……。知らない場所への航海か」
「それこそ冒険家としての、船乗りとしての醍醐味ってやつだよ」
「そう、なんですけどね……」
 ロッティーナは苦笑しつつも、それ以上不安な声を出すのはやめようと思った。
 この人みたいにもっと、航海を心から楽しむようにしようと。
「あ、あの。それと、もう一つ聞いておきたいことが有るんです」
「うん。何だい?」
「ドラゴンとは、どのような生物なのです……?」
 躊躇いがちにいうロッティーナ。
 その言葉が彼を笑わせるか、或いは驚かせることになると知っていたからだ。
「ロッティ、知らないのか?」
 案の定。
 半笑いになって驚いた声でそう言われた。
「知りませんが、何かっ?」
 逆にそうつっけんどんな返しをするロッティーナ。
 フェレットが面食らった顔になったので、少し小声で続ける。
「生物の研究でもしていなければ、普通は知らないですわ。けれどそれではこの先困ると思ったので、訊いたんです」
「ふふ、それは正しい判断だったと思うよ」
 言うと、フェレットは再びにんまりと微笑んだ。
「いいかい、ロッティ。ドラゴンってのは……」
 驚いたり微笑んだり、まるで子供のように表情が豊かなのだなと、ロッティーナは思う。
 ――それはそうだろう。
 子供の時に誰もが心に浮かべた夢を、この人は未だに追い続けているのだから。
「緑で……大きくて。ギャーと鳴くんだよ。カリブにいるのはその子供らしいんだけどね。本当なら僕ら全員、踏み潰されてしまうくらい大きくて……」
「その説明じゃ、よくわからないです。船長」
 ロッティーナは呆れたようにくすくすと笑いながら、その話を聞いていた。

「――緑で、もう町一個踏み潰すくらい大きくて。フォーと鳴くらしいよ」
 時間軸は多少ずれるものの、アラビアンガレー船”永久機関”でも、同じようなやり取りが行われていた。
 こちらは船長かおると、その家族とも言える少女、アスナの会話だ。
「フォー? フォーって鳴くの?」
「うん」
「そ、そうなんだ……。なんだか私のイメージとちょっと違うな」
「どんなイメージを抱いてたんでやすか? アスナさんは」
 水夫の一人がそう口を挟む。
 うーん、とアスナは考えた。
「鳴き声はね……『シャー』とかそんなので。確かに大きいんだけど、でもすごく可愛いの。瞳が大っきくて、人懐っこくてね……」
「それはまやかしだ」
 彼女の想像を断ち切ることを目的にした声が響いた。
 当然、それはかおるの声だ。
「ドラゴンはカッコイイに決まっとる。目からビームとか出るから、もう」
「出ないよ。可愛いんだから、ドラゴンは」
「空とか飛んじゃうらしいよ。人間とかもう軽く踏み潰す勢いで」
 彼もまた子供のような顔をして――大人気無いことを口にしていた。

 そしてここはサムブーク船”シャルトリューズ”の船内。
「船長。それ、一体誰から聞いたんだよ?」
「おかしかったかしら?」
 アイが想像をしていたドラゴンのイメージ。
 それがあまりに妙過ぎて、グラフコスは思わず口を挟んだのであった。
「”町を踏み潰す位でかくてフォーと鳴く”なんて、多分世界中であんた位しか持ってないイメージだと思うぜ」
「そうなのかしら。誰から聞いたのかは、ちょっと忘れたんだけどね……。でもじゃぁ、グラフはどんなイメージをしてるの?」
「イメージって言うか」
 一端間を置き、頭に浮かべてみる。
「まぁ、建物一個分位の大きさで、獰猛で……。そんなに化け物みたいな奴じゃないんじゃねぇの。でかいトカゲみたいな感じで」
「何よ、えらい現実的じゃない」
「現実の話だろ。これ」
「そうだけど」
 アイは膨れた顔を作ってみせた。
 グラフコスは対応に困りかねて、頭を掻いている。
「もっと夢は大きく持ちましょうよ。それが航海の秘訣だって、誰かさんが言ってたわよ」
「……あんたのその夢の通りだったなら、俺ら全員踏み潰されてお陀仏だぜ」
 そこでふと、会話が止まった。
 特に理由もなく、互いが声を口にするタイミングを外したのだ。
「ああ、けど」
 再びテンポを取り戻そうとして、グラフコスが口にする。
「俺のも、人から聞いた話だからな。まぁ折角カリブまで行くんだ。どうせなら想像を絶するくらいの奴が待ってて欲しいね」
「誰から聞いたの?」
 アイは何となしにそう訊ねた。
 何故だか、彼は返事をするのを一瞬戸惑う。
「オヤジ……いや、オフクロ、かな」
 それは今までずっと口にせずにいた話だったからだ。
「お袋って、一応訊くけど私のことじゃないわよね?」
 何時かの会話を思い出して、念の為にアイは訊いた。
「違うよ」
 返って来たのは予想通りの声であったが、ほっと息を吐くアイ。
「俺、ギリシャ・ムーンズにいただろ。けど別に生まれた時からそうだった訳じゃねぇんだ」
 ギリシャ・ムーンズとは、東地中海で活動をしている盗賊団の名。
 グラフコスも今でこそこの船団の一員となっているが、元は盗賊団の一味であったのだ。
「元は割と有名な、商人の家の出なんだぜ。これでもな」
「ふうん。初耳ね」
「初めて言ったからな」
 それなのにどうして、盗賊団の一味などに身をやつすことになったのか。
 アイは気になったけれど、彼が口にしない限りは訊かないでおこうと思った。
 今度は半ば意図的に会話が途切れて、二人ともまた各々の作業に戻る。
(誰にも言うことは無えと思ってたぜ)
 船のあらゆる場所にブラシをかけながら、グラフコスは考えた。
 隠してた訳じゃない。
 ただ、わざわざ誰かに話すことも無いだろうと思っていた。
(慣れたもんだな、俺も。ここに)
 この船団の面々は誰も、必要以上に人の過去を詮索したりはしない。
 だからだろうか、こんなに居心地が良く感じるのは。
 ――居心地が良いから、ずっと思い出さずにいた過去。
 一度脳裏に浮かんだそれを消さずにおいて、グラフコスはその夜を過ごした。

3

 そして一夜が明けて。
 準備も整い、いよいよ後数時間で港を出ることになっている。
 船団の目指すカリブの地は果てしなく遠い。
 一度ここを出発してしまえば、再び帰ってくるのは数ヶ月……或いは数年も先のことになるかもわからない。
 最後にもう一度この風景を楽しもうと、フェレットはアイ、リィを連れ立ってリスボンの町を散歩して回っていた。
 今――この風景を見て抱くこの思いは、港を出ればやがて過去のものと変わるだろう。
 未来へ抱く憧憬は抑えきれず、今ここにある光景に対して抱く懐かしさにも似た想いも湧き出てきて、やまない。
 その間に挟まれて、彼らは不思議な気分で町を歩いていた。
 途中道具屋に寄ったり、幾度となく訪れた酒場の店員達に挨拶をしに行ったりして。
 そろそろ船に戻ろうかとなった時、彼らは一人の少年と出会う。
 その出会いは、突然なものだった。
「何だぁ……?」
 いきなり後ろから、大声で呼び止められたのだ。
 フェレット達が振り返るなり、少年はこちらへと駆け寄ってきた。
「あ、あの……」
 少年はやけに興奮気味な様子だ。
 寸前の位置まで近付いて来て、いきなりぺたぺたと、フェレットの服を触り出す。
「こら、よせ!」
 思わず彼の身体を突き飛ばして、一歩後ずさるフェレットであった。
 アイやリィと言った面々も駆け寄って、少年のことを囲む。
「一体何の真似を……」
「フェレットさんでしょぉっ?」
 少年は身を乗り出してそう声を放った。
 反対に、フェレットはつんのめる。
「それで、こっちがアイさんで。こっちが”コンスタンティア”に乗ってるリィさん」
 はしゃぎながらそう口にする少年を見て、しかしフェレットの疑問はつのる一方であった。
 何故、こんな見知らぬ少年にここまで名前を知られている?
「ぼく、どうして私達のことを知ってるの?」
 自分よりも背丈の低い少年に向かい、リィは身を屈めて訊ねた。
「アフリカで海賊とやりあってきたんでしょ? 結構有名だよ。この辺りで」
「え……」
 目を見合わせる三人。
 そんなこと、思いもよらなかった。
「それとそうそう、かおるさん! かおるさんって人の剣は、一振りしただけで船ごと切っちゃう程すごいんでしょう? かおるさんはいないの? あ、あとカリタスさんもだ!」
「今日は一緒には来てないの。ごめんね」
 その声を聞き、リィもまた顔に苦笑を貼り付けるのであった。
 そもそも何処から広がったのかは知らないが、明らかに噂が一人歩きしている。
 ……それでも、かおるさんに関してはあまり違和感が無いのが不思議だけれど。
「ふうん。成る程、そう言うことね……。しょうがないな、それじゃあ」
 さっきまでただ呆気に取られていたフェレットだったが、少年の言葉を聞くなり、いきなりにこにことしだした。
 何故そうなっているのか、アイもリィも一瞬で気付いている。
「なあ、リィのことはどんな風に伝わってるんだい? 例えば容貌とかさ」
「フェレさん、どうして私なんですか……?」
 当然その言葉を遮ったのはリィ本人だ。
「自分のことを訊いて、変な評判が広がってたら嫌だからって……。ずるいよ、フェレさん」
「いやいや。絶対良い評判に違いないと思って訊いたんだよ。で、どうなの?」
「瞳の大きな、美人船長だって」
「えっ!?」
 甲高い声で驚くリィ。
 どう反応していいのか、困った顔をしていた――のもほんの一瞬。
 直ぐにその表情から、ぼろぼろと笑みが零れ出す。
「ほらな、リィ。きっと良い噂だと思って訊いたんだよ」
「噂、本当に一人歩きしてますね……。でもありがとう、フェレさん」
「いやいや、別に僕の手柄じゃないからね。しかしまあ、確かにその噂は正しいよな」
(この二人……)
 アイは一歩離れた位置から、その会話を生暖かく見つめていた。
 しかし運命は、彼女が傍観者に徹することを許さない。
「ねぇ、あのさ。アイさんのことは何て噂になってるの?」
 そう質問をするフェレット。
 既にその顔は、悪戯を思いついた子供のそれになっている。
「ええとね。アイさんは、さけ……」
「そう。三度の飯よりも酒が好きな船団の影の首領、それがアイさんさ。さすがよく知ってたね」
 酒、という単語が出た瞬間に、狙い済ましたタイミングで言うフェレット。
「人をオチに使うな!」
 アイもまた、予め示し合わせたかのように突っ込みを入れるのだった。
「――さて」
 ひとしきり笑ったから帰るか。
 そんなことを口にして、フェレットは身を翻してそこから去ろうとした。
「あ、待ってよ!」
 しかし少年の方はまだ足りないらしい。
 新調したアドミラルハットを掴まれそうになり、ひょいとかわすフェレット。
「話、まだ終わってない。これからが本題なんだよ」
「まだ何か有るのか?」
 いい加減受け答えにも疲れてきたらしく、フェレットはすっかり投げやりな応対になっている。
「あのさ、今、船の人数に空きがあったりするの?」
 少々意外な質問をされて、フェレットは一瞬きょとんとした。
 アフリカで”フォスベリー”の船員のその多数が命を落とした。
 それから数名雇い入れはしたものの、確かにまだ船には空きがある。
「あるけど……」
「じゃあさ! おれのこと、雇ってくれないかな!」
 流れ上、そう続くのだろうなあとはわかっていた。
 フェレットのその表情に渋いものが刻まれる。
「いいか。君、年は幾つだ」
 そして彼は説教口調でそう言った。
「十六だけど」
 思っていたよりは、年上だ。
「そんなに若いなら、まだ親御さんの下でのんびりしてたほうが良い。無理に海に出ても良いことないよ」
 自分のことはすっかり棚に上げている。
 彼が祖国であるスペインを出たのは、丁度十六才の時であった。
「でも、親にはさ」
「家に居ろって言われてるんだろ? そうだよ、その方が」
「出てけって言われてるんだ」
「だろ? だったら家に残ってたほうが……え?」
 自分のペースで喋り続けていたフェレット、ようやく少年の言葉を頭で理解する。
「出てけって、どうしてだ」
「うち、兄弟が多くてさ。十人もいるんだ。お金も無くて、だから全員家で食べてけるだけの余裕が無いんだよ」
「へ、え……。それで出てけって、言われてるの?」
 途端に神妙な顔になるフェレットだった。
 彼は元々裕福な家の出であり、少年の事情はあまりリアルに感じることは出来なかったが、けれど深刻さは伝わってきた。
「名前は何て言うんだ?」
「おれ、ユーリって言います」
「言っとくけど、航海は死と隣り合わせだぞ。それでも良いのか?」
「掃除くらいしか出来ないけど……。給料がちゃんと出るなら」
「金の心配してられるだけ、余裕有るってところか」
 フェレットは何かを決意したように笑った。
「良いよ、君は今日からうちの船員だ。出港は数日の内にするから、それまでに家族にはちゃんと言っておけよ――本当に付いて来るんならね」
「フェレさん!」
 驚いた顔をしたのはアイだ。
「なんで……」
 彼女は声を詰まらせている。
 フェレットにはその理由が判らないようだった。
「そんな簡単にオーケーしていいものじゃないでしょう? 普段ならともかく、今回の航海は私達でさえ、帰ってこれる保証が何処にも無いのよ」
「カリブはずっと西にあるって言うし、途中でマディラかラスパルマス辺りに寄るよ。とりあえずはそこまでの航海で、ちゃんとやれるか判断するよ」
 つらつらとそう口にするフェレット。
 どうやら、単に勢いで承諾した訳ではないようだ。
「ともかく、こいつはウチでもう引き取った。あとは”フォスベリー”の船長として、僕が何とかするよ。そう言う訳で二人とも宜しく」
「ありがとう。フェレットさん」
「気にすんな」
 ユーリに向け、フェレットはにや、と微笑んで見せた。
 アイはそんな彼に違和感を抱いてやまない。
「フェレさん……」
 何時もより少し頑なだと、そう思ったのはリィもだった。
 わざわざ出港の時間を遅らせてまで、見知らぬ少年を雇い入れた。
 彼は、フェレさんは優しいから――。
 リィはそう思って納得しようと思えば出来たが、胸の内にもう一つの思いを抱いていた。
(コロ君……に似てるから、なの? フェレさん)
 かつて”フォスベリー”に乗っていたコロという名の水夫。
 北海に向かっている際に鮫と遭遇し、そして命を落とした。
 彼もまたリスボンの出身であったし、外見も醸し出す雰囲気もなんとなくこのユーリ少年と近いものがあった。

 この日は少年と別れて、三人は道を引き返すこととなった。
 出港の日を遅らせると皆に説明しなければならなくて、気が重いことこの上ない。
 帰り道、フェレットはずっと言葉少なにしていた。
 リィの想像――それは確かに当たっていた。
 航海の途中に命を落とした何人もの、愛すべき船員達。
 彼らと過ごした年月はもう、過去のものとなっている。
 いつしか思い出ばかりがかさむようになって、その重さで動けなくなってしまうよりも前に、新たな未来を手にしようと――フェレットはあの少年を雇うことに決めたのだった。
 過去も、未来も。
 天秤に掛けられれば、きっとどっちもが良い顔をしないだろう。
 そう知りつつも、寂寥を彼方へと追いやる手段は他にないと、解っていたから。

4

 船団は西に向かうよりも前にまず、南東へと進路を取った。
 向かう先は勿論、セウタ。
 ジブラルタル海峡を睨むようにして建っている港町だ。
 セウタには船団と馴染み深い女性、フアナがいて。
 三日三晩程、彼女らと過ごす時を楽しんだ後、船団は西へと舵を向けた。
 そしてモロッコの沖合いに浮かぶマディラ島へと到着し、そこでいよいよ、果てしなき航海に向かう為の最後の準備を整えることとなる。
 町に到着するとまず、ルーファの船の水夫達は総出で交易所へと走っていった。
 彼女は本来冒険よりも商売を得意としていて、ここで多数の交易品を購入し、カリブへと持ち込んで高値で売るという算段らしい。
 先日船団に入ったばかりの少年ユーリもまた、ルーファの後を追って交易所に行ってしまった。
 なんでも彼女の手法を間近で見て、盗んで自分のものにするのだとか。
 そうして将来の航海で役立てるのだと少年は意気込んでおり、フェレットはとても”駄目だ”と口にすることは出来なかった。
 カリブに向かう準備と言っても、食料と水をありったけ積み込んでしまえば、後は特にこれと言ってなく。
 フェレット達はやはりと言うか、酒場に繰り出してはいつものようにのんびりとくつろいでいるのだった。
「……んで、意外にもロッティがあいつのことを気に入ってね。今も一緒に交易所に行ってんのさ。絶対反対されると思ったんだけどな」
 テーブルを囲っているのはフェレット、かおる、アイ、リィ。
 要するに御馴染みの面子である。
「いや、本当に最初の最初は反対してたんだよ。けどさ、ユーリに『”フォスベリー”唯一の美人航海士ってリスボンで噂になってましたよ』なんておだてられてね。それからはもう付きっきり」
「本当に、親と子みたいになってたわよね。私も見たわ」
 酒を飲み始めて間も無いと言うのに、まるで数時間も飲んだ後のように、絶えず話題を広げているフェレットとアイ。
 その隣ではまるで十杯も飲んだ後の様に、蒼ざめているかおるが居る。
「お嬢ちゃん達、船乗りかい。これから何処に向かうんだ?」
 そう言いながらテーブルにやって来たのは、酒場のマスターだ。
 まだ時刻が早いせいか店内は空いていて、自ら料理を運んで来てくれたらしい。
「えっと、カリブに行こうと思ってます」
 少し照れた様子でそう返したのはリィだ。
 マスターは途端に、この場の雰囲気に似合わない神妙な顔になる。
 それだけ危険な地域だということだ。
「カリブか。帰って来れる自信は有るのかい?」
「自信……は、ちょっとわかんないですけど」
「平気ですよ」
 フェレットがそう、自信満々の声で口を挟んだ。
「アフリカでも何だかんだ言って、生きて帰ってこれたんだから。とりあえず僕らは死なないでいられる自信がある。死ななければ、つまり生きて帰ってこれるってことでしょ?」
 そう言いながら、フェレットはまた酒の入ったグラスをぐいと飲み干した。
「何より、この人がいますからね」
 或る意味彼の自信の源となっている存在。
 テーブルの反対側にいる男を、フェレットはびっと指差した……が、いない。
「れ、かおるさんは?」
「外に走って行っちゃったわよ」
「もしかして、吐きに……」
 アイの言葉を受けて、フェレットは情けない顔になった。
「自信があるにしろ、用心するに越したことは無いからね」
 一瞬静まり返った場に、マスターが落ち着いた口調で言葉を放った。
「カリブに行くと言っていた船乗りは今まで何人もいたよ。カリブでの冒険を終えたらまたここに来る、と言って出発していった冒険者もね。だが、帰って来た奴は今までに一人としていない」
 しかしその言葉は、この場に更に深い沈黙を与えることとなった。
「ひ……一人もいないの?」
 すっかり酔いが覚めたフェレット、ぼそりとそう訊ねる。
 今の言葉を聞き、明らかに恐れをなしたようだった。
「そのままカリブに居着いたとか、単純にマディラに寄らなかった可能性も有るがね。そうそう、それにもう一つ……こんな話がある」
「良い話なんでしょうね」
「ここではなく、南に有るラスパルマスの町での話なんだが」
 フェレットの声を流すようにして、マスターは続けた。
「十隻くらいの船がある、船団だったかな。彼らが同じように『また戻ってくる』と言ってカリブに出かけて行ったらしい。で、それから二ヶ月くらいして、その船団は帰って来たんだ」
「素晴らしいじゃないスか」
「ところが、船から誰も出てこようとしない。不思議に思って出航所の役人が様子を見に行くと」
「見に行くと?」
「その十隻の船に乗る船員、全てが白骨と化して船内に佇んでいたそうだ」
 マスターがそう口にしてから三十秒の間、誰もが何も言葉を吐かなかった。
 三人はただ下を向いているだけだ。
「私達を慎重にさせる為の嘘、なんてことは無いわよね?」
 躊躇いがちにアイがそう口にしたが、マスターは首を横に振る。
「その位危険な場所だと言うことだよ。生半可な気持ちで向かおうとは思わないことだね」
 アイは少しでも気分を和らげようと、酒の入ったグラスを手に取った。
 そこにまた、マスターの言葉が挟まれる。
「例えば――カリブに住むというグリーンドラゴンを見に行くとか、そんな幻想を求める為に行くのなら、よしといた方が良い」
 グラスを持った手は中空で完全に停止した。
 そして三人は顔を上げ、顔を見合わせる。
 未知の生物であるドラゴン。
 手を伸ばせば届きそうな位置にいると思っていたが、今その間に数十層の壁が隔てられた気がする。
「ああ、でも。カリブから帰って来たって言う冒険者を一人だけ見たな」
 思い出したように言うマスターの声は、三人を訝しげな表情にさせるのだった。
 さっきは誰もいないと、そう言ったくせに。
 もしかしたら単に恐がらせようとしているだけなんじゃないか? という疑いすら感じ始めている。
「名前は……ちょっと忘れたんだが、だがカリブは夢のような場所だったと言っていた」
「夢のよう、ねぇ……」
 すっかり興醒めしてしまったフェレット達。
 そう言われても、苦い笑いを浮かべることしか出来ない。
「それに何だか今、向こうはイングランドだかの商会の奴らが幅を利かせてるらしいぜ。それも、その冒険者が言ってたんだが」
「イングランドの商会? カリブで?」
「ああ」
 夢の世界に、現実で聞かれる単語が土足で踏み込んでいったような感じだ。
 フェレット達は益々反応に困って、ただ正常な顔になっていた。
「なんでも交易品とかがその商会にすっかり独占されちまってて、ろくに買い物出来なかったんだとさ。何て言ったかな、商会名は。確かラン、ランチェス、なんとかって言う……」
「ん、二人とも。ランチェス……なんとか商会って、聞いたことありませんか?」
 ちょこんと首を傾げながら、リィがそう言った。
「イングランドの商会だからねえ、知ってても不思議は無いけれど」
「フランチェスさんを思い出すな。ヴェネツィアの人だったけど」
 アイとフェレットの二人は、わかるようなわからないような微妙な感じである。
 リィ本人も似たようなものであったが、彼女の心には何故だかその名前が引っ掛かり、いなくなろうとしなかった。
(ラン、ランチェス……何だったかしら?)
 ――もしかして、とリィは一つのことに気付いた。
というよりも希望を込められるものにすべく、そう結び付けようとした。
 フェレさんもアイさんも知らなくて、私が知っている名前。
 それはもしかしたら、私の記憶に関する……私の過去に関わる名前?
 そう考えると、本当にそのように思えてくるから不思議だ。
 たった少し過去へと思いを巡らせただけで、急激に身体が冷え込んだように感じる。
 まるで身体がそれを拒絶しているかのよう。
 ぎゅ、と。
 テーブルの下で見えないようにして、リィはフェレットの手を握った。
 よく分かっていないながらも、彼はそれをちゃんと握り返してくれる。
(大丈夫。私は独りじゃない)
 フェレさんがいてくれる。
 アイさんも、かおるさんも傍に付いていてくれる。
「ね。フェレさん、アイさん。楽しい航海にしましょうね」
「ん……そうね」
 リィの優しい笑みを受けると、アイも負けていられないとばかりに、戸惑いの気持ちを強引に吹き飛ばす。
「今回は食料を一杯積んだから、お酒があまり無いのが残念だけどね。でも、まあいつものように何とかなるでしょう」
 ”何とかなる”
 言葉の語感は頼りないけれど、それは確かな実績に裏付けされた言葉であるのだ。
 フェレさんも何か言ってよ、といわんばかりに、二人の視線が青年の方を向く。
 二人の顔を交互に眺めながら、フェレットは酒のグラスを手にした。
「えーと……。改めて乾杯といきますか。今回の航海が、何事にも喩えられないほどに素敵なものになると信じて」
 何とか月並みな台詞を思いつき、そうしてフェレットはグラスを差し出した。
 アイも、リィも同じようにする。
 ――その空間を、鈍器で殴りつけたかのような轟音でもって砕く男がいた。
 酒場の入り口の扉ごと雰囲気を破壊して、その男――かおるはばったりと店内に倒れ伏した。
 マスターも、他に数人いる客達もあんぐりと口を開けて固まっている。
(相当酔ってるのか……)
 興を削がれて、三人のグラスは中途半端な音だけを響かせた。
「気持ち悪い……。こんな具合でヤリブなんぞに行ったら、間違いなく死ぬ。ほら、おじいちゃんもう年で……。やっぱやめようか、カソブ行くの……」
 何やらぼそぼそと言っているかおるの声はしかし、彼が抱いている壊れたドアにだけしか響かない。
「あれが君達の頼りにしてるという仲間かい。……航海の無事を心から祈ってるよ」
 ぽん、と肩を叩かれて振り返ると、心底同情の顔を浮かべたマスターがそこにいた。
(今回はちょっと、不吉な予感がするわ。こんなことで大丈夫なのかしら?)
 弱気な心を追いやろうと、リィはこっそりとグラスに口をつけ、飲み干した。
 かおるさんがあの様子では、どうせまた出港は数日遅れになるだろう。
 だから今日はとことん飲みまくろうと、リィは誓うのだった。

 不安要素は限りなく多い。
 けれどこの海を越えなければならない理由が、今の私にはある。
 ああ、私の記憶、過去を示す未知の存在達よ。
 目指す先の大陸で、本当に私のことを待ってくれてると言うの?



  1. 2006/01/08(日) 06:20:38|
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フェレット(或いはスネばな)

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